- 2019年02月22日 10:46
メディアリテラシーについて
2/2次の記事も2007年
NHKが01年放送の「女性国際戦犯法廷」のドキュメンタリー番組で政治的圧力を受けて番組内容を改変した事件について、東京高裁がNHKに賠償命令を下した。関西テレビの「あるある大事典」問題はまだ全容が解明されていないが、次々と捏造が暴かれている。
テレビメディアの中立性やフェアネスに対する社会的信用はずいぶん低下したようである。
しかし、「テレビの言うことならほんとうだろうと信じていたのに。裏切られた気持ちです」というようなナイーブなコメントを読むと、それはそれで、背筋に寒気が走る。
というのは、テレビが虚偽を報道したのを知って、「裏切られた気持ちです」というようなことをしれっと言ってのける「無垢な視聴者」のポーズそのものがすでに「テレビ化された定型」に他ならないからである。
「視聴者はメディアの言うことをすべて無批判に信じるのだから、メディアは真実のみを報道すべきだ」という「正論」に私は与しない。
後段の「メディアは真実のみを報道すべきだ」というのはたしかにご卓説ではあるが、ほとんど現実性がない。「これこそが真実だ」と複数の情報源が別の事実を言い立てる場合、メディアはそのどれかを選択しなければならない。そこで報道されるのは「メディアが真実だと信じたこと」ではあるが、それは必ずしもつねに真実ではない。
それ以上に問題なのは前段の「視聴者はメディアの言うことをすべて無批判に信じる」という部分である。これは現実ではないし、それ以上に現実であってはならないと私は思う。
「メディアは中立的・客観的な立場から、真実のみを報道しているので、私たちはそれをすべて信じることができる」と国民がきっぱり言い切れる社会があったとすれば、それは恐怖政治の行われている社会だけである。私はそのような社会の到来を望まない。
だから、視聴者のそのようなナイーブな言明が「実現されるべき理想」であるかのように語るメディアの態度を支持しない。
どれほど嘘をついても、人は嘘をつくことを通じておのれの欲望を露呈することからは逃れられない。メディアが虚偽の報道をし、事実を歪曲した場合でも、私たちは「虚偽を伝え、事実を歪曲することを通じて、メディアは何をしようとしているのか?」と問うことができる。メディア・リテラシーとはその問いのことである。
メディアはしばしば嘘をつく。それをとどめることはできない。だから、私たちはメディアの伝える情報における「真実含有率」について、自己責任で判断を下すべきだし、下せなければならないと私は思っている。その能力開発に資源を投じる方が、「決して嘘をつかないメディア」の構築を夢見ることよりもはるかに現実的だろう。
だいぶ時間があいて、こちらは2017年のAERAの記事。短いけれど、私の言いたいことはここに尽くされている。
IT大手DeNAが運営する医療情報サイトが、根拠のあいまいな医療情報を掲載したために公開中止に追い込まれた。
ネット上の閲覧数が上がると広告収入が増える仕組みなので、とにかくページビューを増やしたい。そこで外部ライターには多くのキーワードを盛り込んで検索結果の上位に来るように書くこと、既存記事のコピペであることがばれないように文言を書き換えることがマニュアルで指示されていた。
アメリカ大統領選挙ではネット上に大量の偽情報が飛び交った。ロシアのハッカーがトランプ氏を当選させるために組織的に動いたということも、CIAは報告している。
これらのニュースについて、「ネット情報の信頼性を損なった」という批判をしても始まらないと私は思う。ネット情報というのは所詮は「その程度のもの」である。
それに、この事件を手厳しく批判するテレビも新聞も、情報の信頼性においてそれほどアドバンテージを誇れるわけではない。
いま肝に銘ずべきことは、「私たちひとりひとりがメディアリテラシーを高めてゆかないと、この世界はいずれ致命的な仕方で損なわれるリスクがある」ということである。
そのことをもっと恐れたほうがいい。
メディアリテラシーというのは、勘違いしている人が多いが、流れてくる情報のいちいちについてその真偽を判定できるだけの知識を備えていることではない。そんなことは誰にも不可能である。自分の専門以外のほとんどすべてのことについては、私たちはその真偽を判定できるほどの知識を持っていないからである。
私たちに求められているのは「自分の知らないことについてその真偽を判定できる能力」なのである。
そんなことできるはずがないと思う人がいるかもしれない。けれども、私たちはふだん無意識的にその能力を行使している。
知らないことについて、脳は真偽を判定できない。けれども、私たちの身体はそれが「深く骨身にしみてくることば」であるか「表層を滑ってゆくことば」であるかを自然に聞きわけている。
古いバイオリンの音色は、ヨーロッパの石造りの家の厚い壁を通して、遠い部屋でも聴き取れるという。そのような言葉だけが耳を傾けるに値する。



