- 2019年02月16日 06:00
日本メディアが捉えきれない「タイ総選挙」対立の本質 - 樋泉克夫 (愛知県立大学名誉教授)
3/3タイ政党の特質
総選挙を経て軍政当局の思惑通りにプラユット首相が誕生したとしても、安定的な政権運営が約束されたわけではない。その背景にはタイにおける政党の特質がある。
2月11日に中央選管から今回の総選挙に36政党が参加することが明らかにされたが、タイ貢献党、民主党、国民国家の力党、国家維持党、民族発展党、新未来党、国家発展党、タイ公民党、新民主主義党、新経済党、サイアム発展党、タイ民主社会党など主な政党の政党名からも類推できるように、一般的に政党は政治信条や政策の実現を第一義的に求めるものではなく、有態にいうなら政権入りを最大の目的としている。
これがタイの政党の第1の特質である。かくてタイ貢献党はタクシン元首相の右腕であったスダラット女史を、国民国家の力党はプラユット暫定首相を、民主党は党首のアピシット元首相を首相候補として掲げ選挙戦を戦うことになる。国家維持党がウボンラット王女を首相候補として担ぎ出したのも、そのためである。
第2の特質は基本的には地域政党の性格が強く、全国政党にまで拡大し難い。歴史が最も古い民主党にしても南タイとバンコクのインテリ層の支持はあるものの、大票田の東北タイや北タイに浸透しない。いわば下院での単独過半数獲得は至難ということになる。そこで必然的に連立政権にならざるをえないわけだが、当然のように閣僚ポスト配分を巡って連立与党内の鞘当て合戦が起こり、伴食ポストを割り当てられた政党が不満を持し、首相の指導力低下が閣内不一致・政権動揺を来すことになる。安定的政権運営は容易ではない。1990年代に政権交代が連続したのも、ここに大きな要因があった。
では、なぜタクシン政権(2001年~06年)やインラック政権(2011年~14年)では単独政権が可能だったのか。タクシン陣営が豊富な資金力を背景に中小政党を糾合し全国政党の形を整えたからである。当時の憲法では首相は下院議席を持つことが定められていたことから、クーデターを除いたなら、総選挙の勝敗が政権獲得の唯一の手段だった。
「赤シャツ」対「黄シャツ」
総選挙を繰り返しても、唯一の全国政党であるタクシン系政党が過半数を制してしまう。憲法で上院は政権運営に容喙は出来ない。当然のように既得権益層――ABCM複合体のフラストレーションは溜まるばかりだ。
中国で発生した天安門事件の小型版ともいえる「5月事件」が1992年5月にバンコクの官庁街で発生しているが、流血の惨事を引き起こした責任を問われた国軍は政治的影響力を大幅に後退させた。この事件を機に「人民による憲法起草」を掲げた憲法起草委員会が発足し、97年10月には「最も民主的内容を持つ」と内外から評価された「仏暦2540(1997)年タイ王国憲法」が制定されている。
同憲法下で総選挙を実施した結果、民主党を軸とする野党勢力や民主派からは「反王制、国家権力の独占と乱用、透明性や倫理を欠いた政権運営」などと批判されたタクシン政権(2001年~06年)が誕生する。タクシン首相が唯一の全国政党を抑え下院過半数を占めていたわけだが、それが2006年のクーデターを招き、やがて国軍の政治的影響力回復を招くのであった。民主化された憲法が文民ながら一強政権を生み出し、その政権を倒すために、総選挙ではなく国軍によるクーデターに頼らざるを得ない。民主主義の皮肉というには、あまりにも皮肉な現象といえる。
「仏歴2540(1997)年タイ王国憲法」がタクシン一強政権を生んでしまったとの判断からだろう。(1)国民の権利と自由の保護、(2)権力集中の是正と権力乱用の防止、(3)政治の透明性・道徳・倫理の確保、(4)権力チェック機関への高い権能を付与――を盛り込んだ「仏暦2550(2007)年タイ王国憲法」が2007年8月に制定された。
同憲法の下で総選挙を繰り返すが、やはりタクシン支持政党が下院過半数を制し政権を保持する。そこで上記(1)(2)(3)(4)の機能を与えられた憲法裁判所、国家オンブズマン、そして国家汚職防止取締委員会が憲法に規定され、これらの機関によって首相解職(2008年)や総選挙無効(2014年)が宣言された。だがタクシン支持政党が弱体化するわけでもない。
総選挙を繰り返してもタクシン支持政党は切り崩せないことから、民主党を先頭とする反タクシン派は国王支持を著す黄色のシャツを纏ってバンコクの街頭に繰り出す。一方のタクシン支持派は赤シャツを身に着け反対行動を展開した。「国王を元首とする民主主義」を掲げ総選挙に拠らずにインラック政権(タクシン系政権)打倒を訴えた。この行動が結果として2014年のインラック政権打倒のクーデターを招くことになる。
黄シャツ派対赤シャツ派の抗争が激しく展開されていた当時、黄シャツ派を構成するのは王制支持を強くイメージさせる都市の民主党支持層が中心であり、赤シャツ派は経済発展の恩恵に与ることが少ない東北タイの農民層が中心であり、王制に反対するばかりか、一部には共和制を志向する勢力まで含んでいると批判的に報じられることもあった。また民主派対金権派、都市対農村、インテリ層対農民層の対立などと画一的・短絡的に報じられがちでもあったが、変化するタイ社会の実態からして黄対赤という色分けで説明できるほど単純なものではない。
やはり1980年代末からのタイ社会の変質を前提に置かない限り、黄対赤の対立の本質は理解できないだろう。経済成長による社会構造の変化が有権者の政治意識の変化を醸成し、旧来からのタイ社会を支えてきたABCM複合体の社会的基盤が動揺しはじめたことを想定しないわけにはいかない。対立の本質は国民が今後の国の行く末をABCM複合体に任せたままでいいのか――この一点に収斂するように思える。敢えて図式化するなら、黄シャツ派は今後ともABCM複合体を信任し、赤シャツ派は否定的ということになろうか。ここで注視しておくべきは、タクシン元首相という存在である。いまやタクシンは「反ABCM複合体」という記号と化したと捉えるべきではないか。
曲がり角に差し掛かった「国王を元首とする民主主義」
クーデターが何回か繰り返される毎に新たに憲法が制定され、総選挙が実施されてきた。これが2006年以来のタイの政治ではあるが、総選挙に示された民意を素直に判断するなら、反タクシン勢力の劣勢は否めない。新憲法制定や関連法規の改正などを重ねることで法的に赤シャツ派の伸張を抑えようとしてきたが、やはり有権者の投票行動から赤シャツ派が一定の影響力を保持している点は認めざるをえないだろう。
ここで2005年春以来の国政を図式化すると、《総選挙 ⇒ 赤シャツ派の勝利と政権掌握 ⇒ 黄シャツ派の反対運動 ⇒ 国内混乱 ⇒ クーデター ⇒ 軍政 ⇒ 新憲法制定 ⇒ 総選挙 ⇒ 赤シャツ派の勝利と政権掌握》という政治過程となる。やはりタイは“不毛のサイクル”を繰り返してきたようにも思える。ここから、ABCM複合体を頂点とする従来型の社会構造が崩れつつあることが読み取れはしないだろうか。
振り返れば1973年の「学生革命」で危機に陥ったタイを混乱から救ったのは、プミポン国王(当時)の判断であった。以来、前国王は逝去される2017年秋まで、度重なる政治的危機を乗り越え、歴代憲法が掲げる「国王を元首とする民主主義」を護持し国民の一体化を実現させてきた。
5月初めと定められた戴冠式を経て王国としてのタイの新しい御代が本格的に幕を開ける。ワチラロンコン現国王は前国王が体現した「国王を元首とする民主主義」を踏襲するのか。はたまた新しい形の「国王を元首とする民主主義」に向かって進むのか。3月24日の総選挙と、それに続く新政権成立までの動きが新国王の下での新しい王国の形を方向づけることになるように思える。
であればこそ今回の新国王の下での最初の総選挙は、これまでの黄対赤の対立抗争の混乱の渦中で繰り返された総選挙とは異なる視点で捉えるべきだろう。
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