- 2019年02月15日 16:51
4コマギャグの「人間賛歌」:業田良家『自虐の詩』 - 高井浩章
1/2お気に入りの小説やマンガが映画化されると聞くと、「やめておけばいいのに……」と思うことは少なくない。原作に対する愛着が深いほど、「汚される」という懸念が強まるからだ。
これまで、「映画化なんてムチャはよせ」と思った筆頭格は、小説ではアゴタ・クリストフの『悪童日記』、マンガでは業田良家(ごうだよしいえ)の『自虐の詩』だ。前者は劇場に足を運んで「まあ、こんなもんだよな」と達観し、「無かったこと」として処理したが、後者はどうにも見る勇気が起きず、未見のままだ。
「もうダメ」ってなる

業田の代表作『自虐の詩』は、「泣ける4コマストーリー漫画」の代名詞的存在だ。
手元の竹書房の文庫版上巻に収められたインタビューで、漫画家・内田春菊は何度読んでもラストに差し掛かると「『もうだめ』ってなっちゃって最後まで泣きっぱなし」と語っている。白状すると、私も再読するたびに「熊本さん」が出てくるあたりから「泣き笑いモード」になってしまう。しかも、これは内田もインタビューで指摘していることなのだが、年齢を重ねるごとに「泣きポイント」が増えているのだ。
なぜこのマンガには、いい歳をした大人の心を強く揺さぶる力があるのだろう。
未読の方のために、簡潔に作品の概要をまとめておこう。
主人公は内縁の夫婦である森田幸江と葉山イサオの2人。イサオは無職で、いわゆる「ヒモ」のような生活を送るどうしようもない男で、定食屋「あさひ屋」に勤める幸江のわずかな稼ぎを酒やギャンブルで浪費する。そんなイサオに、いかにも不幸と貧乏を呼び寄せそうな容姿の薄幸の女・幸江は心底惚れている。
この2人を軸に、物音が筒抜けの壁の薄い安アパートの「隣のおばちゃん」や、「あさひ屋」のマスター、イサオの子分のタロー、幸江の父・家康(すごいネーミングだ……)など一癖あるキャラクターたちが絡んで、物語は進む。
綱渡りのような離れ業
「物語」と言っても、本作は4コマ漫画なのでストーリー漫画のように、話の筋が綺麗に流れるわけではない。『週刊宝石』に掲載された時点では、『自虐の詩』は「幸江・イサオ」以外の物語もとりまぜた連載だったようだ。
作品の前半はひたすら「不幸を引き寄せる幸江」をネタにしたギャグが続く。オチの多くは、『自虐の詩』名物のちゃぶ台返しだ。イサオの悪癖のちゃぶ台返しは、徐々に他のキャラクターもぶちかます定番ネタになっていく。
「ちゃぶ台返しモノ」のあたりは、ネタは練られてはいるものの、はっきり言ってしょうもないギャグ漫画でしかない。だが、そのしょうもない4コマ漫画が後半、ドラマチックな「泣ける漫画」に豹変する。
幸江の悲惨な子供時代の回想シーンが増えるにつれて作品のストーリー性が高まり、中学の同級生の「熊本さん」の登場、イサオとの出会いのあたりから読者はグイグイと引き込まれ、ネタバレになるので詳細は書けないのだが、最後は内田が言うところの「もうだめ」という境地に持っていかれる。
ジェットコースターにたとえれば、前半のくだらなさでカタカタと位置エネルギーを稼ぎ、そこから一挙に急カーブあり、ループありの波乱の展開が待っている。
さらにこの作品が凄いのは、この怒涛の後半部分でも、ただの「お涙頂戴」には走らず、作者・業田が「ギャク4コマ」の常道をはみ出さないで、各話にきっちりオチをつけて笑いを取ってくることだ。笑いと涙を行き来するバランス感覚は、まさに綱渡りのような離れ業としか言いようがない。



