
「年を取ったやつが悪いみたいなことを言っている変なのがいっぱいいるが、それは間違い。子どもを産まなかったほうが問題なんじゃないか」
おなじみの失言担当大臣・麻生太郎氏の発言である。2月3日、地元・福岡の国政報告会で発言。批判を受けてのちに撤回した。
40代女・独り身・子なしである私に、この手の言葉はそれなりの破壊力を持って突き刺さる。同時に、「出産年齢」の壁に今まさに向き合っている同世代のロスジェネ女性の胸の内を思うと、「本当に黙っててくれよ…」とため息が出る。
そんな麻生発言を聞く前日、「現代思想」2019年2月号を読んでいて、思わず涙ぐむという出来事があった。
それは「『男性学』の現在」という特集の中の、「生きづらい女性と非モテ男性をつなぐ」(貴戸理恵)を読んでいた時のこと。自身の経験から不登校などをはじめとしてさまざまな社会問題を論じる貴戸氏は私と同じロスジェネ世代の40代。そんな彼女は原稿の最後、自分たちの世代について「非正規雇用率が高く、未婚率が高く、子どもを持つことも少なかった世代である」と書く。
そうして、文章は以下のように続くのだ。
「いちばん働きたかったとき、働くことから遠ざけられた。いちばん結婚したかったとき、異性とつがうことに向けて一歩を踏み出すにはあまりにも傷つき疲れていた。いちばん子どもを産むことに適していたとき、妊娠したら生活が破綻すると怯えた」
思わずそこでページを閉じて、声を上げておいおいと泣きたくなった。それは私が初めて目にした、「過去形で語られた」ロスジェネだった。その描写に、「もう取り返しがつかないことなんだ」と、改めて、取り返しのつかなさを痛感した。同時に、同世代の、いろんな人の顔が浮かんだ。結婚を諦めた人。産むことを諦めた人。少しでもマシな生活のためにあがくことを諦めた人。生きることそのものを諦めた人。そして、私たちの、あり得たかもしれないもうひとつの人生に思いを馳せた。生まれた年が少し違っていれば、あったかもしれない選択肢の数々。
文章は、以下のように続く。
「働いて自活し家族を持つことが、男性になり女性になることだ、とすり込まれて育ったのに、それができず苦しかった。20代の頃、私たちの痛みは、『女性/男性であること』にもまして『女性/男性であれないこと』の痛みだった。男だからリードしなければならない、弱音を吐いてはならないと言われ、稼得責任を負わされ人生の自由度を狭められること。
女性だから、愛の美名のもとに無償労働を期待され、母・妻役割に閉じ込められて経済的自立から遠ざけられること。そうした先行世代の女性学や男性学が扱ってきた『女性/男性であること』の痛みは、まるで贅沢品のようだった。正社員として会社に縛り付けられることさえかなわず、結婚も出産も経験しないまま年齢を重ねていく自分というものは、『型にはまった男性/女性』でさえあれず、そのような自分を抱えて生きるしんどさは言葉にならず、言葉にならないものは誰とも共有できず、孤独はらせん状に深まった」
わかる、すごいすごい痛いほどわかる、と共感しつつ読みながら、あることに気づいた。それは私自身、フェミニズムやジェンダーの問題にアラフォーになるまで「目覚めなかった」理由は、まさにここにあるのではないかという気づきだ。
女性ならではの生きづらさ云々の前に、「一人前」にさえなれない自分や周りの人々。だけど、「非正規じゃなく正社員にさせろ」「このままでは結婚、出産もできない」なんて主張をすると、「昭和の猛烈サラリーマンになりたいのか」「働く女性ではなく専業主婦になることを求めてるのか」「出産しても夫は長時間労働で孤独な育児に決まってるのに子ども産みたいのか」なんて、少し上の世代から意地悪な質問をされた。
そうじゃない。そうじゃないけど、でも「男なら、女ならこうあるべき」という規範は自分の中にもみんなの中にも強烈にあって、とにかくみんな「人並み」になろうともがいていて、「女らしさ」や「男らしさ」に文句を言う人は、貴戸氏が指摘する通り、「贅沢」にしか見えなかった。
さて、そんなロスジェネの多くはもう40代なわけだが、最近、「ロスジェネの苦境」が再び注目されているのを感じる。少子化や雇用といった分野だけでなく、意外なところでもこの世代の苦しみに思いを寄せるような発言に出くわすのだ。
現在30代なかばから40代なかばの私たちが「ロスジェネ」と名付けられたのは、10年ちょっと前。10年ほど前、メディアなどには、私たちの世代の苦悩を語る言葉が溢れていた。そのような場は「ロスジェネ論壇」などと呼ばれ、まだアラサーだった論客たちは大いに自分たちの生きづらさを語っていた。私もその一人で、今回、貴戸氏の原稿を読んだことをきっかけに、当時の自分の原稿やインタビューなんかを引っ張り出して読んでみた。
ここで一部を紹介しよう。引用するのは、2007年11月5日の毎日新聞に私が書いた「フリーター論壇」という原稿である。フリーター論壇は、ロスジェネ論壇とほぼイコールだと思ってもらえばいい。一読して驚いたのは、12年前、フリーター問題はまだまだ「労働問題」という認識すら薄かったということだ。以下、引用だ。