- 2019年02月07日 18:25
習慣や規律をインストールする街・東京
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人間の意志というものは基本脆弱なものと思っておいた方が間違いなく、「〇〇しようと決意する」というのは基本無意味です。
(中略)
決意しただけで習慣を根付かせられる人というのは、存在しないとまでは言いませんが、まあ稀有でしょう。
恐らく「習慣を根付かせる方法」として最強なのは、「自然に動くと、勝手にそれをやっていることになる」という導線とインフラの整備なのではないかなあ、と。
リンク先の話に限らず、「自然に動くと、勝手にそれをやっていることになる」ような導線やインフラは、習慣や規律を身に付けていくうえで重要なファクターだと思う。
たとえば精神科病院などもそうで、病室、ホールの間取り、テレビやテーブルの位置関係次第で患者さんの行動はかなり変わる。
ホールでコミュニケーションをおのずと取りたくなるような病院もあれば、病室に閉じこもっていたくなる病院もある。患者さんが1人でいたい時に1人でいられて、それでいてコミュニケーションしたい時にはコミュニケーションが自然に生まれるような空間なら、休みたい患者さんがちゃんと休息でき、少し元気が出てきた患者さんがおのずとコミュニケーションに参加し、社会性を養いやすい病院になるだろう。
ほとんどの精神科医は、こういった導線やインフラの重要性をよく弁えているので、病院の建て替えに際しては空間のデザインに細心の注意をはらう。
精神科病院では、医師や看護師のクオリティだけでなく、病院内の導線や空間のクオリティ──患者さんの回復を後押しし、コミュニケーションを促進し、なおかつ安全なインフラとしてのクオリティ──が問われると言っても言い過ぎではない。
こういった空間の設計は、もちろん一般企業にも見受けられる。
[関連]:場所が変われば、アウトプットも変わる。たかが空間、されど空間。 | Books&Apps
クリエイティブな企業がオフィスに工夫を凝らすのも、ショッピングモールが明るく曲線的な空間づくりに腐心するのも、内部の人間に「自然に動くと、勝手にそれをやっていることになる」を促すためのものだ。いまどきの洗練されたオフィスやショッピングモールは、社員の生産性を高めたいとか顧客の行動を制御したいとか、そういった意図をあからさまにはしない。それでも、間取りから空間設計の意図を逆算する余地ぐらいは残っている。
「東京」というインフラについて考えよう
このことを、もっと広い範囲で考えてみよう。
東京。
田舎育ちの私には、東京というメトロポリス全体が、行動や習慣を身に付けさせる巨大なインフラにみえてならない。
と同時に、東京に住まう人々は、その東京という巨大なインフラによってすっかり習慣づけられ、規律づけられているとも感じる。

たとえば東京人は、むやみに道路を横切らない。
彼らは横断歩道や歩道橋を使って、定められたとおりに道路を横断する。車の往来が激しい場所はもちろん、車のほとんど通らない住宅地でさえ、横断歩道のない車道を斜めに走り抜けようとはしない。
そして横断歩道でも、赤信号なら律儀に止まる。
自動車がいなくても律儀に赤信号を守り、青になるまで待っている人が、田舎よりもずっと多い。稀に、うらぶれた雰囲気の中年男女や外国人が信号無視するのを見かけなくもないが、そうでない東京人、とりわけ子どもが、信号を無視したり横断歩道の無い場所で車道を横断しようとしたりするのをほとんど見かけない。
これらは東京の平成世代には当たり前かもしれないが、田舎の昭和世代である私からみると、その習慣と規律の徹底ぶりに感動すら覚える。田舎生まれの昭和世代は、横断歩道の無い車道を平気で横断するし、東京の人々ほど(歩行者用の)赤信号を律儀に守ったりはしない。
そして東京人は絶対に立小便をしない! 立小便は、田舎で生まれの昭和世代には珍しくなかったが、東京で立小便を見かけるのはほとんど不可能だ。私は都内の住宅地や周辺郊外を訪れるたび、立小便している男児や男性がいないかチェックしてまわっているが、いまだ、立小便には出会ったことはない。もちろん田舎でも立小便は少なくなっているが、東京に比べればまだまだ見かける。
どうして東京人は、これほどしっかりとした習慣・規律を身に付けているのか?
この疑問の答えを見つけるべく、私は数年間にわたって東京じゅうを徘徊してまわり、人の動きや街のつくりをつぶさに観察して回った。
そうしているうちに、私はひらめいた。
「東京という街は、人々に好き勝手な行動をとらせず、おのずと習慣や規律をインストールしていくようなインフラにほとんど覆い尽くされている」。

たとえばこの写真。
都内では珍しくないものだが、この道路には歩行者に歩道を歩かせるためのガードレールが敷かれていて、歩車分離が物理的に徹底されている。
交通量の多い場所はもちろん、交通量の比較的少ない場所でも、都内の道路は歩車分離のためのガードレールが敷かれていることが多い。田舎者の私が横断歩道や歩道橋のない場所で車道を斜めに渡ろうとすると、ガードレールに遮られ、鬱陶しいと感じたりする。
だが、都内に住み続けていて、ガードレールによる歩車分離に慣れ親しんでいる東京の人々は、私ほどガードレールを鬱陶しがったりしないのではないだろうか。
なぜなら、ガードレールや歩道橋や歩行者専用レーンといったインフラに囲まれて暮らしていれば、意識するまでもなく、ごく自然に「歩行者は、何もないところで車道を横断してはいけない」という習慣が身に付くだろうからだ。
私は田舎で生まれ育ったから、「歩行者は、何もないところで車道を横断してはいけない」という習慣があまり身に付いていない。歩車分離のためのガードレールが無く、交通量もまばらな田舎には、そういう習慣を身に付けるためのインフラや導線が存在しないからだ。
もちろん歩車分離をほのめかす白線はひかれているし、道路交通法は全国共通ではある。しかし歩行者に歩道を歩かせるための物理的なインフラや導線は都内に比べれば貧弱で、歩行者はいつでも車道にはみ出すことができる。
歩車分離の徹底していない田舎で「歩行者は、何もないところで車道を横断してはいけない」という習慣を身に付けるためには、かなり意識的に、努力を積み重ねなければならない。そもそも、地方中核都市の駅前大通りや交通量の多いバイパス沿いを除けば、そのような習慣は田舎暮らしでは意味をなさない。
- シロクマ(はてなid;p_shirokuma)
- オタク精神科医がメディアや社会についての分析を語る