- 2019年02月05日 14:11
【95カ月目の浪江町はいま】「帰還困難区域の現状を見てくれ」。帰れない住民たちの叫び。下がらぬ放射線量、朽ち果てたわが家…。〝復興〟の裏にある「もう1つの浪江」
1/22017年3月末で避難指示が部分解除された福島県双葉郡浪江町。しかし、町面積の8割を占める帰還困難区域は一部除染が始まったものの、多くが手つかずのままだ。町民の協力を得て4日、強風が吹き荒れ砂塵が舞う中、帰還困難区域を巡った。そこには、地元メディアからは伝わって来ない汚染や荒廃の現実が広がっていた。
住民は言う。「復興復興とばかり言われるけれど、こういう現状も県外の人には分かって欲しい」。原発事故から来月で丸8年。そして来年夏に開かれる復興五輪。〝復興〟の裏側にある「もう1つの浪江」から、目を逸らしてはいけない。
【朽ち果てたわが家。覆い尽くす雑草】
「ほらこれ、見てよ。これこそ馬鹿馬鹿しい線引きそのものでしょ」
男性が指差したその先には、「除染が済んで空間線量が下がり生活環境が整った」として避難指示が解除された小野田行政区と、依然として帰還困難区域の指定が解除されない大堀行政区の違いがくっきりと表れた光景が広がっていた。片や整地され、片や雑草や木々が伸び放題。
来夏に開催される〝復興五輪〟では「原発事故から立ち上がった浪江町の姿」も世界に発信されるが、避難指示が解除された行政区と荒廃の進む帰還困難区域が隣接しているのも、浪江町の現実。そして、そこに「戻りましょう、帰りましょう」と国や県、町が促しても、いまだ帰還町民が873人にとどまっている(1月末現在)のもまた、現実だ。
4日は町役場職員も驚くほどの暴風が吹き荒れ、最大瞬間風速は26・6メートルに達した。カメラを構えていてもよろけてしまうほどの風に、町内のあちらこちらで砂塵が舞い上がる。
「除染していない帰還困難区域からの砂塵には放射性物質も含まれています。あれを吸い込んでも内部被曝しないと言うのでしょうか。これが『避難指示が解除され〝復興〟に向かって進んでいる浪江町』の現実ですよ。都会の人々はこういう事を理解していないですよね。国の線引きがいかにおかしいかが良く分かるでしょう。行政区ごとに壁でもあれば話は別ですが…」。取材に協力してくれた住民が険しい表情で言った。
別の男性は、井手行政区(帰還困難区域)から中通りに避難している。自宅は双葉町との町境に近い場所にある。原発事故前は車道から自宅までの小道も車で入る事が出来たが、今や雑草が覆い尽くして昔の面影は残っていない。
「2年くらい前までは定期的に一時帰宅して除草剤を散布したり手で刈ったりしていたけど、早くても10年先でないと帰れないって言うからやめたんだよ。片付けたってしょうがないもんね。周囲の人たちもほとんど帰って来てないようだな」
自宅の様子を見るのは昨年夏以来。古い自宅は手つかずのまま朽ち果て、崩れ落ちている。手元の線量計は5~6μSv/h。古くても愛着のあったわが家。原発事故さえ無ければ、避難先を8カ所も転々とする事も無かった。体育館で寒さに震え、四畳半の狭い仮設住宅で隣室に気を遣ってテレビの音量を下げる必要も無かった。
井手行政区は帰還困難区域であるにもかかわらず、モニタリングポストは可搬型が1台、多目的研修センターの設置されているだけ。「置いてくれって役場に頼んだけど駄目だった」。
原発関連の仕事に長く従事し「原発に食べさせてもらっていた」と話す男性は、複雑な表情で車に戻った。
①大堀相馬焼の展示会館として2002年4月に開館した「陶芸の杜おおぼり」。会館前には末ノ森行政区の除染で生じた除染廃棄物が並べられている
②雑草や木々が伸び放題になっている大堀行政区(帰還困難区域、写真右上)と、除染で整地され避難指示も解除された小野田行政区。当然ながら行政区と行政区の境には壁など無く、強風で放射性物質が飛び交う危険性を抱えている。国の線引きの不合理さが良く分かる
③住民の間で「サブロクセン」と呼ばれる県道35号線。一般車両はほとんど通らず、中通りの仮置き場などから中間貯蔵施設へ除染廃棄物を輸送するダンプカーが猛スピードで走り抜けていく
④帰還困難区域の中でも汚染が酷いとされる小丸行政区では牛が放牧されていた。すぐ近くにある「小丸観音堂」で、手元の線量計は10μSv/hを超えた
- 鈴木博喜 (「民の声新聞」発行人)
- フリーライター