- 2019年02月02日 15:46
ファミマが子ども食堂をやることにどうも「もにょる」のはなぜか
1/2ファミマが子ども食堂をやるというニュースリリースをした。
どうも、もにょる。
子ども食堂とは何か、をまず考えてみる。
子ども食堂は、全国の草の根で広がっているものだから定義めいて言うことはできない。だけど、そもそもの出発点を考えたら次の二つの(どちらかの)意義は本来あるはずだ。
子ども食堂とは何か
第一に、子どもの貧困に対する事業。一番狭い考えとしては、貧困のために満足な食事ができない子どもに食を提供することだ。
しかし、本当に食事ができないような子どもだけがそこに来る確率はそれほど高くはあるまい。地域の子どもが無差別に誰でも気軽に来られる中で、ひょっとしてその一人としてそういう子どもが紛れ込んでいる場合もあるだろう。例えば毎回50食提供して、それを100回やったとして、その中に「貧困で満足な食の提供がない子ども」への提供ができたのは2回か3回だけもかしれない。2/(50×100)=0.04%である。
ゼロかもしれない。ぼくは子ども食堂、あるいはそれに類する場所に何度か行ったことがあるが、知り合いの子どもばかりだった。毎回ではないにせよ。近所の知り合いの子どもたちと親が集まってワイワイと食事をしている。それだけである。
だけどそれでいいではないか。
なぜか。
それは、親や地域住民がそうやって貧困の子どもたちのためにと思って食堂の準備をすること自体が、「貧困を考える場所」になっているからである。料理を作る合間に、あるいは、食事をしている最中に、あるいは買い物に行くとに、「そういえば〇〇さんのところの××ちゃんは、最近見ないけどどうしたのかな」「△△くんは乱暴だけど、あれはひょっとして…」と思いを馳せることがあるかもしれないし、おしゃべりの話題になるかもしれないのである。
ただのくだらない噂話で終わるかもしれない。いや、くだらない噂話、世間話が99.79%くらいだろう。しかし、あとの0.21%の中に、貧困の発見につながるかもしれない情報が入っていたり、もしくは行政に施策を求めるアクションの源になるかもしれないのだ。膨大なムダの中に、ひとかけらのいい情報・行動の萌芽がある。
そういう意味では、子ども食堂は、直接の貧困の対策ではない。「食の提供」というなら、困窮家庭を行政が指定して食を届けた方がよほどいい。あくまで地域で貧困を考えるきっかけづくりなのである。
第二は、そこから広がって「地域の居場所づくり」としての意義である。
地域住民が、地域の困っている家庭や子どもたちのために何かをすることを目的として集まり、おしゃべりや共同作業をする場所を作る。そこに子どもや高齢者がいる、というわけである。
そこにはすでに「子どもの貧困対策」という名目がなくなっているケースもある。だとしても、みんなが集まってワイワイする場所があるといいね、というのは、コミュニティづくりにとってはプラスのものだろう。
本来これは町内会が簡単な、できれば楽しげな共同作業をすれば事足りることだとは思う。夏祭りの準備で、あるいは団地の草むしりで、みんなが集まって、終わってお茶でも飲む、一杯やる、ということで果たせるはずである。
まあ、それが「子ども食堂」であっても構わないはずだ。
こうした二つの意義については、すでに専門家からも似たような指摘がある。
特にここであげた大西は、子ども食堂自体は「対処療法」に過ぎないとして、それを貧困そのものをなくしていく「処方箋」へのアクションの気づきに結び付けられるかどうかが、カギだという趣旨の主張をしている。全く賛成である。
本当に困っている子どもたちの居場所にするには
さらに、「居場所」という場合に、「大人の居場所」ではなく「子どもたちの居場所」というふうに考えみると、相当な工夫がいる。
以前ぼくは鈴木大介『最貧困女子』を読んだ感想を書いたことがあるが、そのときに、鈴木の主張として、本当に助けを必要としている子どもたちにとって、例えば学童保育のような場所がいかに「うざい」場所かという話を書いている。
結局「フーゾク」にしか「居場所」や「稼ぎ口」がなくなってしまうような子どもたちのために考えられるべき「居場所」は、相当にルーズであることを意識的に設計される必要があるのだ。
なぜウザいのかを聞けばごもっともで、学童で出欠確認や連絡帳の提出があったり、放課後に行くはずになっていた学童に行かないと何をしていたのか詰問されるのが嫌だったのだという。あと「ゲームがない」。高学年にもなれば、本の読み聞かせなど、「ガキっぽいことに付き合ってらんない」という気持ちもあるし、同級生たちと遊びたくても常に低学年の子が邪魔をしてくるし、同級生も塾に通う余裕のある家庭の子は学童から遠のく。結局馬鹿馬鹿しくなって行かなくなってしまったと、この少女は言うのだ。(『最貧困女子』p.180)
つまり、夜中に来ても何も言わない。ゲームをやれる。マンガばかり読んでいても、寝ていても文句を言われない。泊まれる。
そんな「だらしのない居場所」づくり。
それこそが必要だというのである。
なるほどと思う。本当に貧困で苦しんでいる階層の子どもたちはそういう場所でしか発見できない可能性がある。
子どもの医療費無料化を推進する団体と懇談した時に、貧困で口腔崩壊する子どもがいるという話になって医者が「だけど本当に支援が必要な貧困の子どもはなかなか病院にも来ない。見つけるのが大変」といっていた。



