- 2019年01月30日 11:58
なぜ日本の教育は「参加型」ではないのか?
2/2なぜ日本の教育は参加型ではないのか?
日本の教育現場が、垂直型に寄っているのは、試験偏重型の教育が多いことはよくいわれることです。
雑感ですが最近思うのは、もしかすると日本ではオーラル(口語)よりもライティング(書き)を基本としたコミュニケーションが深く根付いているからでは?なんて思ったりしています。大学の授業も学生の発言は少ないですが、感想文やレポートはすごい長かったり質が良かったりすることってよくあります。
それがよく表れているのが英語学習で、日本人はスペルも文法もおさえているので英作文はできるけど、スピーキングが苦手な人が多いですよね。海外だと英語だと英作文が最もハードルが高いと認識されていることが多いのにもかかわらずです。日本人は昔から「読み書き」のコミュニケーションの中で育ってきたのかもしれません。
なぜフランスの授業は非参加型?
ランキングに戻ると、フランスが意外にも垂直型のコミュニケーションに偏っていることが意外でした。
フランスでは、国家試験(バカロレア)で哲学が課さられるそうです。
参考記事
ある方に、哲学の授業はどうしても教師からの一方向的なものになるのではないか?という指摘をいただきました。Twitter上でも他にもこんな意見をいただきました。
バカロレアは、そもそも哲学的思考方法を用いて、ある1つの命題や課題に対する論理的な思考方法を形作るためのものだと思います。講義は受動的なものかも知れませんが、バカロレアの試験問題の特性として能動的に考える姿勢がないと合格できないという特性があるなとは思いました。
— HRK (@Schizo_29) 2019年1月27日
なるほどです。
そうですね。ただ、自発的な「学びたい」って思いはそこから生まれるのかなみたいな疑問はあります。やっぱりエリート心棒社会ですから、上を目指せという命令が内包されてるようなシステムから生まれる能動性っていうのは自発的と言えるのかみたいな。受動的能動性みたいな側面があるのではないか。
— HRK (@Schizo_29) 2019年1月27日
フランスの哲学の先生は皆、垂直型教育をしているわけではないです。
— そろそろヨーロッパ人 (@sgS1sWYyIFx2isK) 2019年1月28日
確かに多いですが、私の高校で哲学の先生は、テーマを出して、そのテーマのことを有名な哲学者の考え方で説明して、生徒たちの意見を聞くことでした。なので授業はまるで討論のようでした。そのような先生もいます。
ただ、私にとって一番の問題は、バカロレアの哲学のテストを採点する方法です。先生たちは主観的に採点しているため、いいことを書いても採点している先生が賛成しなければいい点数をもらえません、、適当すぎると思います。
— そろそろヨーロッパ人 (@sgS1sWYyIFx2isK) 2019年1月28日
やはり授業の特性上、そうならざるを得ないのかな。
すると「バカロレア幸福論」の著者、坂本さんからもコメントをいただきました。
バカロレアの哲学的な問題というのが何を指すのかはっきりしませんが、哲学的な内容が一方向的な授業になるというのは正しくないでしょう。少なくとも高校最終学年の哲学の授業は単なる知識伝達ではありません。 https://t.co/ZZKQGZEpn1
— 坂本尚志 『バカロレア幸福論』(星海社新書)発売中! (@tk_sskmt) 2019年1月28日
ありがとうございます。
— 坂本尚志 『バカロレア幸福論』(星海社新書)発売中! (@tk_sskmt) 2019年1月28日
調査の対象が授業内の教育方法における垂直型と参加型の区別であれば、この結果もありえると思います。ただ、科目間の差異や、授業外の学習も考えると、ここまではっきり分かれるだろうかという気もします。哲学の場合は添削が重要な教育手法です。
詳しくは著書を参照する必要がありますが、高校最終学年の哲学の授業は単なる知識伝達ではなく、水平的な授業がされていることが期待できそうです。それでもやはり哲学というその科目の性質上、垂直型にならざるを得ないのかもしれません。
参加型教育の良し悪し
参加型教育は、コミュニケーションが「1→多数」という一方向なものから「多数↔︎多数」になるので、アイディアの交錯が俊敏で、結果的に場が創造的になることもあるのでしょうが、それはその場にいる人が「安心して発言できる場」となっていることが大前提です。人格を否定されないし、話を互いに聴きあえる場ということです。
「1→多数」という「銀行型教育」の現場では、預金のように預けられた知識を習得し、必要な時に活用(引き落し)をするという生徒像が想定されます。そこでは、生徒の主体性も人格も必要とされません。日本人の普通の若者が海外の教育現場で面食らうのは、そんな教育の中ですっかり「銀行口座」と化したからかもしれません。
この銀行型教育が機能する時代はかつての「組織」が重視される時代です。規律こそ全てだった戦時中の軍隊はもちろん、大量生産・大量消費の右肩上がりにの経済成長期もまた、所得倍増を目指して「護送船団方式」的にみんなで、隊列をなして歩みを進めいていたのかもしれない。そんな「組織」の時代から「個」の時代になったのが今日です。
SDGsや市民社会の分野では、ワークショップやファシリテーションを用いて緩やかな「個」を重視し「多数⇄多数」の学びの場の積み重ねがあります。最近ではビジネス現場でも、重視されてきた印象がありますが、参加型教育指数みる感じだと教育現場ではまだまだなのかなと、考えさせられてしまいます。実社会では、「多数↔︎多数」のコミュニケーションが圧倒的に多いのに「1→多数」に教育が偏重してきたのが日本です。
古くは社会教育の分野で共同学習の名の下に、参加型の教育は日本でも注目されてきました。最近では、アクティ・ブラーニング、問題解決型学習(PBL)という形で様々な実践がされています。
参加型、トップダウン型の教育のどちらの良し悪しも踏まえ、教育現場に携わっていく必要がありそうです。
なぜ日本では教育が参加型ではないのでしょうか。
どんな参加型の教育のやり方があるでしょうか。
そもそも参加型の教育の意義とは何で、参加型の教育の良し悪しとは何でしょうか。
ご意見おまちしています。





