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年をとると新しい挑戦は難しい。そんなときは自分のなかにある”鉱脈”を掘れば良い -第80回童門冬二氏(後編)


過去には都のブレーンを勤め上げた経験を持つ童門先生の賢人論。中編では、その経験に裏打ちされる現場改革のいろはを説明いただいた。後編は、現場改革に必要な”異見”を伝えるための書き方・話し方を、歴史上の人物からの叡智(えいち)を交えた童門節でご披露いただいた。

取材・文/青山敬子 撮影/公家勇人

特攻の前に戦争は終わりました。それでも故郷を守るために公務員になった

みんなの介護 先生は17歳の時に終戦を経験されています。

童門 はい。青森県の三沢基地にいました。1927年に生まれて1944年に予科練(海軍飛行予科練習生)に志願して茨城県の土浦海軍航空隊に入りました。自分で志願したというより、昔は町に志願を勧める人がいたんです。

死ぬつもりで特攻隊を志願して、硫黄島へ出撃する予定でしたが、その前に戦争は終わりました。少し上の世代には特攻で死んでいった人もいます。

「あのとき、突っ込んでおけば…」と今でも思うことがありますよ。

みんなの介護 当時はそのような虚無感のある元兵士が多かったと聞きます。

童門 私は、特攻隊員の苦悩を描いた阿川弘之さんの小説『雲の墓標』に出て来る主人公の辞世「雲こそ吾が墓標 落暉よ碑銘をかざれ」が好きでね。自分は突っ込む前に終わったから。

私はもともと空や星が好きで、今でも空を飛んでいる夢を見るんです。

一方で、子どもの頃から故郷(くに)のことは守りたいと思っていましたから、目黒の実家に戻ってしばらくしてから目黒区の職員になったんです。

みんなの介護 その後、都庁で美濃部亮吉知事(在任1967年―1979年)の秘書などを経験されます。

童門 美濃部さんは1967年に革新系の知事として都庁にやってきました。私は当時広報室にいて、1960年に芥川賞候補になった経歴があったので知事のスピーチ・ライターに登用されました。

みんなの介護 最初は大変だったそうですね…。

童門 はい。議会での所信表明演説の草案を頼まれて書いても、チラッと見て、ゴミ箱に捨てるんです。

「都民が耳でわかる文章に書き直したまえ」ということですね。正直、カッとなりましたけど、この経験が「わかりやすく書く」「聞いただけでわかる内容にする」というスタイルを作りました。これは今も私の原点なので、わからないものですね。

みんなの介護 歴史小説であっても現代風の言葉や箇条書きなどを織り込まれていて、かえって新鮮に思えます。

童門 はい。戦後の混乱も続いていて、ただでさえ暗い時代なのに、職場の雰囲気も暗かった。だから自分は前向きに明るく、誰もがわかるような話し方や書類の書き方を目指そうと思ったのです。

それで参考にしたのがアメリカのハーバード・ビジネス・スクールのテキストでした。

みんなの介護 経営学や会計学などのプログラムに定評があるハーバード大学の経営大学院ですね。

童門 そのテキストを読んで、アメリカ式の合理的な仕事の進め方や文章を作ろうと思ったのです。時代小説を書くときにビジネス書のように要点を箇条書きにして、言葉も現代語を使うようにしたのは、このテキストの影響もあります。

「カタカナを使ってわかりやすく」を心がけ、難しいことをやさしく解説することに気をつけましたが、その結果として、より多くの方に知ってもらうことが大事だと思っています。


50代以降は自分のなかに仕込んだものを発酵、そして結実させることができる

みんなの介護 今も執筆や講演を続けられていますね。

童門 常に「人生、一寸先は闇」で、何が起こっても不思議ではないと思っています。もうここまできたらしょうがないという心境ですね。

少し前に講演に出かけて駅の階段でつまずいてしまったんですが、若い頃に習っていた柔道のおかげで受け身の姿勢がとれて、大事には至りませんでした。

見ていた人たちは「救急車を呼ぼう」と大騒ぎでしたが、私は無傷で「講演があるから、もう行きます」と(笑)。

これはたまたま自分が柔道をやっていたからで、誰もが同じことができるわけではないですが、自分のことは自分でしていくしかないんです。

みんなの介護 江戸中期の学者で上杉鷹山の師だった細井平洲(1728年―1801年)の記念館の名誉館長もされています。

童門 平洲はメジャーではないけれど、メジャーでないところが良いと思います。あんまりメジャーになったらつまらないですよ(笑)。

優秀で、吉田松陰も影響を受けていると言われる平洲の討論の方法は、松下村塾でも採用されていましたからね。

平洲の討論は後述のような流れで、門人の自主活動を重んじていました。

・まず課題について自分の考えをまとめる

・これを同門の友人と討論する(対話)

・次に門人全員の意見を聞く(討論)

また、平洲は今のJR両国駅に近い両国橋のたもとでしばしば演説をしています。

この橋のたもとには江戸の明暦の大火(1657年)の後、被災地の復興と活性化のために盛り場が設けられていて、落語や講談、ガマの油売りなどの芸人たちがやってきて、芸を競っていたのです。

そこに、いつの頃からか平洲も参加し、辻講釈を行うようになっています。

平洲の講話は生活に密着したわかりやすいテーマと言葉で、話し方もやさしく、多くの聴衆が集まったと言われています。

平洲は常に以下のように説きました。

・まず親や大人が子どもに手本を示す

・子どもには良い習慣を身に着けさせる

・最も大切なのは、譲り合い、相手を思いやる心

・自分から施す「先施」を心がける

・学んだことを生かす

特に人の成長を木にたとえ、「苗木のときは柔らかいので、まっすぐにも育てられるし、曲げて育てることもできる。苗木のときから心を尽くして育てれば、その後はあまり苦労せずに、良い木に成長させることができるが、無理に曲げたりすれば傷つく」としていました。

みんなの介護 鷹山とはどのような出会いが?

童門 たまたま平洲の講義を聞いていた藁科松柏(わらしなしょうはく)という出羽(山形県)米沢藩上杉家の藩医兼学者が鷹山の師にふさわしいとスカウトしたんです。

平洲と同様に、人前で話すことが上手だったのが福沢諭吉です。私は今でこそ講演でお話をさせていただいていますが、実は人前で話すのは苦手でした。

諭吉に出会い、学んだことで話すことが好きになりました。諭吉から学んだのは、「言文一致」です。

諭吉は、書くことが話すことより上位に考えられていた時代に、両者を同等に考えて、さらに「自分の意見は書くことによって求められ、話すこと(演説)によって確認される」と説きました。

この諭吉の考え方は、話すことの重要性を私に認識させ、その後の作家人生でずいぶん励みになりました。

例えば90分の講演の場合、私はだいたいの原稿を書いて実際に声に出して読んでみて、そこで原稿を推敲するのです。このときに話の大部分は暗記するようにしています。

みんなの介護 目黒の「名誉区民」として敬老の日や成人の日にもお話をされていますね。

童門 今は空前の高齢社会と言われます。

私もその一人なのですが、まだ掘るべき自分の「鉱脈」は残っていると思っています。この自分のなかの鉱脈は、皆さんもそれぞれが今まで蓄積していることです。

年をとると、若い頃のように新たなことに挑戦したり幅を広げたりするのは難しくなりますから、そんなときは自分のなかにある鉱脈を掘れば良いのです。

誰でも今までの人生には蓄積、深さがあります。50代以降は仕込んだものを「発酵」させ、「結実」させることができると思います。

「大日本沿海輿地全図」を完成させた伊能忠敬(1745年―1818年)だって、50歳を過ぎてから測量のために全国を歩き始めました。学びに「遅すぎる」ことはありませんよ。

私は人生を「起承転結」と考えず、「起承転々」だと思っているので、最後の「転」まで、一日の生命に感謝し、手を抜かずに生きましょうとお話しています。生きているうちには、「結」がないんです。

そして最近は、起承転々が「転々悶々」となっています。死ぬまでこの生命を完全燃焼させていきたいと思っていますよ。

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