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ハンク・ウイリアムズを彷彿させる深夜放送のパイオニア・土居まさる - 田中秋夫

昨秋、立教大学の池袋キャンパス100周年記念式典事業の一環として、同大学出身の有名タレント・徳光和夫、関口宏、みのもんた、古館伊知郎の4人によるトークショーがタッカーホールで行われた。このニュースに接して私は土居まさる君のことを思い出した。彼が生きていれば当然このトークショーに参加していただろうと思ったのである。

1960年代は文化放送の深夜放送番組「セイ!ヤング」、ニッポン放送の「オールナイトニッポン」、TBSの「パックイン・ミュージック」の3番組が人気を競った結果、〝深夜放送ブーム〟と言われる社会現象を巻き起こしたが、我が友人だった土居まさる君こそが〝深夜放送ブーム〟のパイオニア的存在だったと言えよう。

土居まさる(本名・平川厳彦)は1940年8月生まれ。立教大学経済学部を経て1964年に文化放送に入社。新人アナ研修時代に彼のアナウンス部内での評価は高く、スポーツアナとしての将来を期待されていた。

しかし、同時に彼はディスクジョッキー番組にも興味を持っていた。学生時代にカントリーミュージックバンドの司会者として活躍した経験があり、カントリーのレコードを収集していた。特に大御所のハンク・ウイリアムズが好きで「ラブシックブルース」や「ジャンバラヤ」を口ずさむことが多かった。

彼は新人アナウンサー時代は努力家で、常に各局のラジオを聞いて人気のある出演者たちのトークを研究していた。

特に熱心に聞いていた番組がニッポン放送の人気番組「青島幸男のまだ宵のくち」だった。番組を聞きながら彼は青島の口調を真似ていた。「芸事は盗むことから始まる」と言われるが、土居まさるの軽妙洒脱なおしゃべり口調は正にそこから始まっている。

彼が入社した翌年、1965年の秋に制作部ディレクターの峰岸慎一氏(後の社長)が新番組「真夜中のリクエストコーナー」のDJに土井を指名する。年功序列のアナウンス部の中では異例の抜擢だった。

アナウンス部の上司はこの番組で彼がしゃべる口調が「アナウンサー的ではない」との理由で本名の「平川」は使わせないと主張した。その結果、芸名として立教大学の後輩だった巨人軍の土井正三選手から「土居」を拝借して「土居まさる」と名乗ることにした。

この番組のスポンサーは大学受験のE予備校で、リスナーターゲットが当時「みみずく族」と呼ばれた高校生や浪人生だった。そこで彼に求められたのは「話のわかる兄貴的存在」だった。この番組はリスナーからのリクエスト曲に加えてリスナーの投書によるコント、クイズ、人生相談等を土居まさるが紹介するという構成だった。若者にとっては「聴くラジオ」から「参加するラジオ」への変化であり、その後ブームとなる深夜放送の手法を先取りしていた。

「やぁやぁ君起きてるかい?オレ土居まさる。今夜もビヤーっといこう!」といった感性的な表現が若者の心を捉えて、急速にファンが広がっていった。ところが彼のこのトークがアナウンス部内で大問題になった。

上司をはじめ先輩たちが「アナウンサーとしてあの話し方は許されない」と批判し始めたのだ。当時は開局以来「NHK的アナウンスメントを基本とする」とされていた。しかし土居は負けなかった。

若いリスナーたちから圧倒的な人気を集めたという自信が彼を支えていた。しかも、担当ディレクターからの後ろ盾もあってその口調を頑として変えなかった。その結果、上司や先輩たちは振り上げた拳を下ろさざるを得なかった。その頃から「ラジオの喋り手がアナウンサー主体からパーソナリティ主体へ」の変革が始まった。

また、彼は私生活でも入社2年目に出身校だった静岡県立沼津東高校時代の同級生だったフィアンセと結婚し、同期入社組30人の中で先陣を切った。

その後、彼には制作部から次々に出演依頼が殺到し深夜放送の「セイ!ヤング」や公開生放送番組「ハローパーティー」等、若者層対象の時間帯を独占する勢いだった。私も彼の出演する「土居まさるのおかしなベストテン」という番組を担当したことがある。

さらに発足直後のエレックレコードから声が掛かりレコードデビューすることになった。デビューシングル「カレンダー」は彼の人気上昇に伴いヒットし、アナウンサーのレコードデビュー第1号になった。

やがて彼は文化放送を退社し、テレビ界に進出する。

「お昼のゴールデンショー」(フジテレビ)、「TVジョッキー」(日テレ)等にも出演し若者たちの兄貴的存在としてさらに人気者になっていった。

しかし、40代に入った頃から彼の意識の中では若者をターゲットとする番組を卒業したいと思うようになっていた。私は彼から「若者はもういいや!」という本音を聞いたことがある。恐らく年齢的にギャップがある若者を相手にすることに疲れていたと思われる。番組内でもギクシャクする場面が目につくようになっていた。

その後「クイズヒントでピント」(テレ朝)、「プロ野球ニュース」(フジ)、「岡本綾子のスーパーゴルフ」(テレ東)等アダルト層を視聴者とする番組に転出する。

1998年4月、彼は23年ぶりに古巣の文化放送でレギュラー番組「土居まさるのラジオデイズ」をスタートする。この番組の選曲は60年代から70年代の懐かしい洋楽で、かつて深夜放送を聞いていた世代に向けた番組だった。彼はその番組をセルフプロデュースしたいと希望した。「以前からラジオはホットなコミュニケーションの場所と思っていた。ラジオに戻れてうれしい。自然体でいきたい。大人の事をちゃんと考える番組をゆっくり、のんびり、豊かに…」と1回目の収録後に語っている。

ところが番組がスタートした半年後に体調不良を訴え、病院で検査を受けた結果すい頭部癌で余命半年と診断される。しかし、彼は番組の継続を希望し、収録のためにわざわざ病院を抜け出してスタジオまで通ったという。番組担当者が彼の病状を配慮して病院でのセリフ抜き録りを提案してもスタジオ収録にこだわったそうだ。この番組に対する彼の思い入れの強さが窺える。

しかし、番組がスタートして1年もたたない1999年1月18日、永眠。58歳の若さだった。何事も常に他人より先を行くその生き方は惜しまれつつ早世したハンク・ウイリアムズを彷彿させる人生だった。

田中秋夫
一般社団法人放送人の会・理事。元FM NACK5常務取締役。1940年生まれ。1964年、文化放送にアナウンサーとして入局、その後、制作部に配属。「セイ!ヤング」や「ミスDJリクエストパレード」など深夜番組の開発に尽力し、ラジオ界では「名物ディレクター」として知られる。1990年に埼玉県を中心に首都圏をエリアとするFM NACK5に制作責任者として転籍。ラジオ番組のコンクールでは「浦和ロック伝説」「イムジン河2001」「中津川フォークジャンボリー」等で日本民間放送連盟賞受賞。

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