- 2019年01月11日 17:37
「忘れられる権利」に弱い「日本」闘う「欧米」違いの本質 - 澤康臣
2/2「書かれた人を傷つけない」
欧州の「忘れられる権利」騒動に対し、米メディアは、米国には表現の自由を保障した憲法修正第1条があり、そんなものは到底認められない――と"対岸の火事"視していた。そこに冷や水を浴びせる出来事が起きた。欧州司法裁が「忘れられる権利」を認めた約1年後の2015年6月、フランス当局は同じような訴えに基づき、検索結果削除をフランス版グーグル(google.fr)など欧州だけでなく、世界中のグーグル検索に求める命令を発したのだ。米国で世界版グーグル(google.com)を使い検索しても、日本版(google.co.jp)でも、検索結果に表示されないことになる。
こうなると話が違ってくる。『ワシントンポスト』の同年8月28日付社説は、「検索エンジン規制を、もしも米当局がするなら違憲となる」と警告した。米有力NPO「報道の自由のための記者委員会」は翌月、『AP通信』や『ワシントンポスト』、『CNN』、『バズフィード』といった、全米の報道機関など29組織と連名で、フランス当局「情報処理と自由に関する国家委員会」(CNIL)に抗議書簡を送った。「他国の人々がネットに何を書き、読むかに対する、容認できない介入」と非難し、「世界中の抑圧・独裁政権に、自国の表現の自由に対する締め付けを世界中で強行するきっかけを与える」と指摘した。確かに、フランス政府が「不適切な情報」を世界中のネットから検索不能にできるなら、中国やロシア、サウジアラビアも同じことができるということになりかねない。
このフランス当局の命令も、欧州司法裁に持ち込まれた。欧米のメディア界は代表者を法廷に送ったり意見書を出したりし、現在も闘っている。結論は2019年に出される見通しだ。
こうした闘いぶりに比べ、日本メディアには「忘れられる権利」に弱い空気がある。欧米などと違い、報道倫理を「読者、市民に尽くす」ことよりも「書かれた人を傷つけない」と解釈しがちなお国柄である。「報道被害」として非難される範囲も広く、報道で得た情報を悪用し、差別やハラスメントをする者たちの行為まで含むことがある。そんなトラブルを避けようと、メディアが防衛的、保守的な対応、すなわち情報の抑制や削除に追い込まれる。社会もまた、情報や記録が制限されることに抵抗を感じなくなる。社会史の貴重な記録である過去記事データベースから、報道後一定期間を過ぎると、実名が自主的に削除される事例も出てきた。
「忘れられる権利」の嚆矢、スペイン市民ゴンザレスのケースでさえ、同国当局は検索結果除外を越えて、新聞社のウェブサイト自体から過去記事を消す要求までは認められないとしりぞけているのだから、日本のメディアの方が情報の自主的な抑制では先を行っている面がある。
英語の「プライバシー」概念
世界各国で表現の自由を擁護する国際人権団体「アーティクル19」(事務局ロンドン)は、「忘れられる権利」に関する報告書において、「デジタル時代、プライバシーの保護は重要だということには賛成する」とした上で、ある人に関する情報の所有者はその人ではないと指摘した。例えば、山田一郎に関する情報は山田一郎のものということにはならず、ゆえに山田一郎がその情報を自由に消したり変えたりしていいということにはならない。とくにいったん公刊、公表された情報は、不当に名誉を傷つけたり、プライバシーを侵害するものでない限り、「パブリック(みんな)のもの」だと強調する。
問題は、カタカナ日本語の「プライバシー」と英語の「プライバシー」概念とのねじれがあることだ。英語の「プライバシー」とは本来「私的な秘密」。単に「知られたくない」「個人のこと」というより、相当絞り込まれた概念である。当事者の方々にとり知られたくない、つらい事柄であったとしても、犯罪事件や事故の情報の多くは社会的な公共情報と言わざるを得ず、中でもひとたび公表されたこと、まして公開の刑事法廷で審理されたり、宣告されたりしたことは、英語圏では原則として「パブリック・インフォメーション」(公開情報)として扱われる。英語でのパブリックとは「官」ではなく「民」。みんなの、公共公開の、ということだ。
アーティクル19は、一部の情報を検索表示できなくする権利は、「その人が誰であるかについて、ゆがんだ像を示す機会」になると懸念する。私たちは社会人として、物事も人物も有利不利を問わず、幅広い情報で判断しなければならないのに、都合が良い物だけ見せられるのはフェアではないというわけだ。
そして都合の悪い過去、不名誉な歴史が記録に残され、誰もが知ることができることと、その人を「赦す」「受け入れる」ことは全く別で、そして両立するという。報告書は「その意味で人は、過去の過ちに対し、赦され、気にしないでもらえる機会を与えられるべきだ。過ちを犯した人の意思で『忘れられる』のではなく」と訴えるのである。
情報を得れば、人は人を色眼鏡で見る。だから忘れ、知らずにいるべきだ。それが一番良いことなのだ――と、私たちは言うべきなのか。それは人間の弱さを踏まえた現実的な対応とも言える。それとも、同じ社会に生きる人々をよく知り、その中で暗い過去を知ろうとも人への態度を変えないという、いささか理想論にも聞こえる在り方を追求するべきなのか。「忘れられる権利」をめぐる議論はそのことをもまた、問う。



