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捕鯨はそもそも文化なのか?

昨年12月21日、日本政府はIWC(国際捕鯨委員会)から脱退、本年七月から商業捕鯨を再開すると宣言した。これが国内外で波紋を広げている。ただ、以前は「海外(捕鯨反対国)=日本の捕鯨反対」、「国内=捕鯨容認」という図式が強かったのだけれど、最近はどうも様子が違うように思える。テレビを見ていても、コメンテーターたちの論調は、ゆっくりとではあるが次第に捕鯨反対の方向にシフトしているように僕には思える。

その際、捕鯨を反対する理由の一つに

「果たして、そもそも捕鯨って文化なのか?」

という、ちゃぶ台返し的なモノノイイがある。そしてこの論調、若手の論客に顕著なのだ。「そもそも、そんなものがうまいのか?」的な発言すら登場する。何のことはない、この世代は子ども時代の学校給食で鯨の竜田揚げのようなメニューを目にすることがなかった。だから食文化としての鯨の経験が無い。言い換えれば食文化=鯨肉という図式、リアリティを持ちあわせていないのである(年配の鯨肉給食経験者の捕鯨文化否定者の中には「あんなもの、旨くないでしょ!」と一刀両断していた者もあったが、これじゃコメンテーターは失格。好みで判断しているだけだからだ。これじゃ辛子蓮根、くさやの干物がうまくないといって文化ではないと否定するのとまったく同じことになる。このしゃれが通じるのは喝!おじさんだけだ)。

文化論的に考えると、こうしたモノノイイは極めて危険な主張と判断しざるを得ない。捕鯨にまつわる文化は様々あるが、ここではわかりやすいように食文化に限定して考えてみたい

捕鯨文化否定の危険性

捕鯨文化否定の危険性は二つの点から指摘できる。

その①:マイノリティー化したものは、もはや文化ではない

国際的な批判が高まる中、それでも調査捕鯨という、わけのわからないイクスキューズをもって捕鯨し、少量販売を続行し続けたが、当然のことながら鯨肉は次第に大衆の食卓には姿を現さなくなった。かつての鯨大和煮缶詰、鯨ベーコン、さらし鯨、前述の鯨の竜田揚げといった食文化はマイノリティーに押しやられた。そして、気がつけば、その存在をほとんど知らない世代がマジョリティーに。で、その結果のモノノイイが「果たして、そもそも捕鯨って文化なの?」なのだ。

これは、かつて文化であったものが、いったんマイノリティ化したら、それはもはや文化ではないという立ち位置だ。だったら、世界遺産に名を連ねようとするような文化のそのほとんどは、もはや全て文化ではない。富岡製糸工場?稼働してないよ!、アイヌ?ほとんど混血化してしまってるよ、能?そんなの誰が見るの?、講談師?どこでやってんの?。つまり、捕鯨文化を文化として疑問視、あるいは否定する立場は、同じ論法でこれらのマイノリティ文化も同様に疑問視、あるいは否定する必要がある。言い換えれば文化財保護法など不要、弱者は切り捨てろというわけだ。捕鯨のように否定されないのは、それらの存在そのものではなく、それらを巡るポリティックスに基づいているからに他ならない。

その②:文化をマイノリティー化する環境管理型権力

そして、もっと恐ろしいのが、この捕鯨文化の弱者化が権力によって作動されていることだ。もっとも別に政府が高圧的に権力を作動させているわけでは無い。これは社会学者の大澤真幸や哲学者の東浩紀が提唱している環境管理型権力/アーキテクチャーの作動に基づくものだ。

環境管理型権力の作動はM.フーコーの提唱した規律訓練型権力の次の段階にやってくる。規律訓練型権力は、有無を言わさず、ある行動を権力を媒介に強要することだ。その行動の判断基準について受け入れる側の立場は考慮されない。たとえば日本人のほぼ全員がこの権力によって身体に刻印されたしぐさが「体育座り」だ。あの座り方では背が丸まってしまう、大きな声が出せない、手が動かせない、手で足をロックしているために足を動かせない。当然、自然な着座の姿勢ではないし、日本人以外はほとんどやらない。だが、これは狭いスペースに人間を押し込め黙らせておく、つまり管理するためには最適の姿勢なのだ。しかし、我々はこれをいつ、どこで学んだかを知らない。無意識のうちに、自然とこのような姿勢を取るようになってしまったのだ。

もちろん、このような行為を最初に取らされた人間は、この着座スタイルに違和感を覚えたはずだ。だが、何度も繰り返す内に馴れた。ところが、である。この規律訓練が何世代にもわたって続くと、それは環境管理型権力へと転じていく。周辺が皆このような姿勢を取っているので、無意識のうちに自分も同様のポーズを取るようになるのだ。そしてそれ以外のオプションはない。しかもこれを受け入れる側は、何ら違和感を感じることなく、自然とそのような身体、行動、思考パターンを身につけていく。現在、大学の学祭では、そのほとんどがアルコールフリーになっている。そんな学祭に馴染んでいる学生たちにかつての、いわば「フリーアルコール状態」だった学祭の話をすると「へぇ―、昔は学祭でみんな酒飲んでたんだ」みたいな返事が返ってくるのだけれど、これはこのタイプの権力作動の典型だ。

コメンテーターに求められる文化を相対化して観る視点

若手論者の「捕鯨、そもそも文化?」のモノノイイはこの環境管理型権力が完成された彼岸としての発言だろう。つまり権力によって捕鯨文化が否定され続け、次第に、この規律訓練によって多くの人間が馴化し、やがて次の世代が「捕鯨≠文化」という認識を何ら存在論的問い、つまり捕鯨文化に対する議論を振り返ることなく作動させる。

だが、コメンテーターって、そもそもこうした見えない権力に警鐘を与えるのが、その役割ではないのか?

もし、世界がこれと違っていて「クジラは海産物を大量に摂取していて、その量は漁獲高を遙かに超えているのだから、間引きし、海洋の生態系バランスを維持するべきで、商業捕鯨は、そのために好ましいこと」という認識であったとしたら?そしてそれが認められていたとしたら?当然、鯨は相変わらず日本人の重要なタンパク源として現在も重宝され続けているだろうし(つまり給食に鯨の竜田揚げがそのままラインナップ化する)、環境管理型権力によるマイノリティー化が進んでいないので、「そもそも捕鯨は文化なのか?」と疑問を呈するような若手も登場してはいないだろう。それは「たこ焼きはそもそも文化なのか?」という疑問と同じくらいナンセンスな問いになっているはずだ。

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