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「全部捨てて日本に来た」アメ横の誕生と在日外国人 ~ヤミ市から続く、リアリズム~ - フリート横田

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まず、この狭く、うねる高架下空間に漂う匂い。この匂いが好きか苦手か。これでこの街が好きかどうかもわかる。匂いとは、生魚、カレーやケバブ、炊いた米、モツ焼きの煙など食い物の匂い、酒やたばこの匂い、そしてガード下とビルのすき間を行き来する、大勢の人間の匂いだ。

年末になると、それまで全く別の商品を売っていた店までもが、正月用の海産物を突如売り出す。もちろん売れるからだ。この商売の機敏さ、したたかさが今も多くの人を惹きつける品揃えにつながっている。 撮影:フリート横田

それがもっとも強さを増すのが、年の瀬。そう、ここはアメヤ横丁。通称、アメ横。この匂いが好きな人は、どこに焦点を合わせていいか分からなくなるほど多種多様な商品とその色彩に圧倒されながら、その前を流れていく雑踏の一つとなって、自分も流されるように歩くのがたまらないだろう。私などが美点だと思うこれらの点が、苦手な人にはもっとも苦手な点であるところも面白い。好悪がわかれるほど強烈な個性を持つ横丁、東京にいくつ残っているだろうか。

「ノガミのヤミ市」がアメ横になるまで

さて、このアメ横はどうやって生まれたのか。ここで73年前までタイムスリップしよう。

昭和20年8月15日終戦。省線(現JR)上野駅から御徒町駅にかけての高架橋周辺は、戦前はしょんべん横丁なんて揶揄される薄暗い一角だったが、このときはすでに更地になっていた。高架下にあった変電設備を米軍の空襲から守るため、戦中に建物疎開(あらかじめ建物を壊し火災の延焼を防ぐ措置)が行われていたのだ。

間もなく、ここに人が群がり集まりだした。上野駅の高架橋はカーブして御徒町駅へと向かう。この曲線が、両駅前それぞれにあった交番からの視線を隠した。このブラックスポットであるガード下とその周辺の狭い一角には人間が流入し続けた。焼け出された人々、復員兵、引揚者、娼婦、戦災孤児、テキヤ、暴力団。物資統制のあった時代に、そういう人々が大勢集まり、政府の決める公定価格を無視してさまざまなヤミ物資を持ち寄って売り買いする青空市場が立った。

ヤミ市の誕生である。それは「上野」の文字をひっくりかえして「ノガミのヤミ市」と呼ばれ、あっという間に都内最大規模にまで膨れ上がった。

終戦翌年、昭和21年頃撮影の「ノガミのヤミ市」。露店やバラックの間に大勢の人が行き来する。阿部徹雄撮影/毎日新聞社提供

とにかくなんでも飛ぶように売れた。上野駅は当時もターミナル駅。東北本線を使って、「カツギヤ」が米や食料を東北から運び込み、進駐軍のPX(軍用の売店)からはタバコや酒なども大量に持ち込まれた。もちろん全て統制を逃れるか、流通してはいけないはずのヤミ物資である。

このときガード下を借り受けた人々は、ほとんどが引揚者だった。それも、元々中国大陸や朝鮮半島の鉄道会社(南満州鉄道、朝鮮鉄道、華北交通など)にいた人々であった。帰国して、古巣国鉄(この時点では厳密には鉄道総局)の縁を頼ったのである。ここで大量にイモアメなどの菓子を売り、それが評判をよんだことから、いつしか「飴屋横丁」と呼ばれ、現在のアメ横の呼称が定着した。

「全部捨てて日本に来た」一大勢力だった在日朝鮮人グループ

さてこの時、いろいろな境遇の人々に交じって、一つの勢力を成すグループがあった。それが在日外国人である。

台湾省民や中国人などの華僑、そして特に存在感が際立っていたのが、在日朝鮮人である(以後、「在日」と表記)。終戦後、それまで抑圧されていた在日は“解放国民”とされ、彼らもまた我が世の春がきたと感じていた。終戦直後の統制経済下でも、日本人ではないためにあらゆる物資が入手しやすかった。進駐軍からタバコ、洋酒などの横流し品を買い入れ、また米や穀物をカツギヤに運ばせ地方から集め、密造のどぶろくを作り、ヤミ市でおおっぴらに売っていた。

外国人観光客も増えている。現金を多く持ち歩かない中国人向けに、モバイル決済サービスを早くから導入する店もあり、柔軟な商売人が多いのもアメ横の特徴だ。 撮影:フリート横田

カツギヤといえば、私には忘れられない言葉がある。前に、とある老人の話を聞いたときのこと。彼は朝鮮半島最南部の沖に浮かぶ済州島の出身。第二次大戦が終わり、朝鮮半島が南北に分断しつつあったころの話をしてくれた。彼は、住民弾圧の起こった四・三事件(※1)発生の真っ只中、昭和23年に日本に密航し、カツギヤとなった。17歳だった。済州島時代は、混乱する島内で、「北」の「先輩たち」(朝鮮労働党の影響下にある左派の学生グループだったという)に感化され、ビラ配りや学生運動のようなことをしていたというから、過激派学生だったとも言えるかもしれない。旧日本軍が戦中に置いていった手榴弾で、先輩たちが交番を襲撃するのについていったことさえあると言っていた。

でも、「全部捨てて日本に来たんだ」。

彼は、長い物語りの最後に、ぽつりと言った。そして言葉を継いだ。思想も、家族も、全てを捨てて「乞食同然の格好で海を渡ったんだ」と。事件の後、関係者の多くが処刑され、知人も何人も行方不明になったり、「銃殺された」という状況下、単身海を渡りカツギヤになったのだった。数十キロの米を背負い、連日脂汗を流して荷を運ぶつらさは半端なものではなかったと、老人は小さく笑った。カツギヤの後はタクシー運転手、雀荘など仕事を変えながらもこの国で働きに働き、自分の店(焼肉店)を持ち、子も孫もでき、引退した今は、静かな余生を送っている。だが、一度として、故郷には帰っていない。

少々話がそれたが、日本人以外にもこういう境遇の外国人も集まり、物資も大量に集積され、同時に一大販売地でもあったのが、ヤミ市だったのだ。あらゆるモノが欠乏していた時代、本来世に出回っていないはずのモノが並ぶわけだから、それはそれは大きく売れた。特に外国人の店は、最初期はほとんど取り締まられることもなかった。日本人ではないわけだから、日本の法に従う必要はないと彼らが主張し、実際にそうなったのだ。

それに、そもそもこの国から一時警察力が失われていて取り締まりも不十分だった。敗戦により弱体化した警察は、この時期ピストルさえ持たされていない。外国人の一部には我が物顔にふる舞う者もいて、日本人との対立を引き起こした。日本のあちこちで同様のことが起こっていたが、外国人たちの対抗力になったのが、テキヤ組織だった。強力な指導力を持つ親分のもと、ヤミ市そのものをテキヤが運営し、腕っぷしの強い子分たちが横暴な一部外国人たちをけん制することが多かったが、上野はそうはいかなかった。テキヤ、暴力団ともにいくつかのグループにわかれていて、求心力が弱かったのだ。

結局、新宿のテキヤの大親分・関東尾津組、尾津喜之助の力を借りている。尾津親分の主導により下谷神社にて「手打ち」が行われたが、そこにはいくつかのテキヤ組織幹部と在日朝鮮人グループのリーダーたちとともに、上野警察署長や台東区長など行政関係者までが集まっている。

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