記事
- 2012年03月21日 10:20
性の受け止め方、語り方 - 猪瀬優里
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■揺れる性的身体の受容
森岡正博は『感じない男』(2005、ちくま新書)において、射精する自分自身の身体、「男の体」について、基本的に否定的な調子で描いている。「まだ自分に男性ホルモンも、筋肉も、体毛も、精液も満ちていなかった、あの少年のころの体へと戻りたい」という思い、自分の男としての身体が汚れているという思いがつづられ、その思いが反転して、清らかなイメージのある年若い女性への性的欲望につながっているという説明がなされている。
ササキバラ・ゴウによる、「美少女」や「二次元のキャラクター」への性的なものを含んだ欲望(萌え)について述べた『〈美少女〉の現代史―「萌え」とキャラクター』(2004、講談社現代新書)でも、基本的に男性が自分自身の「傷つきやすさ」を、これらの「美少女」等に投影するという構図で「萌え」が説明されている。
当然ながら、すべての男性が自分自身の身体を否定的にとらえるわけではないだろう。逆に、女性の人権を否定するかたちの「男らしさ」に自身の身体の正統性の根拠を求めたり、女性の美を否定して男性の美を強調する場合などもあるだろう。
いずれにせよ、男性にとっては、子どもから大人へと移行する段階、自分自身の男性としての性のある身体を受け入れていく段階で、性的欲望という問題に関わらないでいることが難しいことが推測される。
しかし、現代日本社会では、基本的に公的空間では子どもは性的な存在であることが否定されている。また、私的な性的欲望のあり様について他者が知ろうとしたり、他者に話したりすることは通常は奨励されない。語ることが禁じられているのである。
とくに男性の射精にはその人自身の私的な性的欲求の発露や快楽が付随するため、公的な場で話題にしにくい。そして、性産業が主として喚起しようとしているのは男性の勃起・射精である。そのため、男性の性的欲望、勃起・射精をターゲットにしている性産業は、完全な公的空間として見なされず、あたかも私的空間のような扱いを受ける(公的であるのに公的に見えないふりをする)。
「過激な性教育」批判を行っている山谷が、「快楽の性」を教えることを「自己を卑下させるような教育」と評しているのは非常に象徴的である(山谷 2003)。「快楽の肯定=自己卑下」という図式がここには見出される。快楽は、基本的には肯定的な感覚のように思われるが、ある種の価値観の中では(たとえば、山谷が思うところの「よりよき」国をつくるための思想では)、何か一段低いもの、汚れたものと見なされる。そして、性が公的空間で語られにくいということは、少なからぬ人が全面的にではなくとも部分的には、その感覚を共有しているのだろう。
男性に対する性教育が不足していることについて、女性に対しては身を守るという観点から性教育が不可欠だが、男性の場合はそれほど必要性が高くないという説明がなされることがある(これは男性への性的被害を否認する効果を持つ説明でもある)。だが、男性への性教育があまりなされない理由には、必要性の多寡だけでなく、男性の性を正面から取り扱うには快楽や性的欲望が避けて通れない「やりにくさ」もあるのではないか。
面接調査に応じてくれた中学生は男女とも、性に関する話は「大事なこと」と思いながらも、「エロい」「グロい」「恥ずかしい」ものとも考えていた。このような一見矛盾した受け止め方は、学校性教育で「性」を知るのは、自他の命や身体につながる大事なことと伝えられ、それを受け止めながらも、「快楽」=「汚れている」という価値観も受け止め、どう整合性をつけたらよいかで迷っている姿のようにも見える。
とくに、男性の性的身体の男性自身にとっての受容のプロセスには、快楽や性的欲望をどう受け止めるかが避けて通れない。それに対する社会的評価は肯定的でもあり、否定的でもある混在・混乱した状況である。
子どもから大人になる段階で、性的なものを含めた身体的変化をいかなるかたちで受容し、その受容の仕方が周囲にどのように受け入れられていくのか。これまでの多くの大人たちは、子どもであったとき、この問題についてあまり多くの人には語らずに、ひそかに手に入れた情報を繋ぎ合わせるかたちでなんとかやってきたのではないだろうか。そして、筆者を含めて少なくない人が、じつは整理をつけきれていないままでいるようにも思われる。
■多様な場で、多様な価値観のもとで、多様な人々によって
学校で性教育を受ける機会のなかった女性や男性にお話を伺うと、初経や精通のとき、男女とも自分の身に起こっていることが理解できず、病気で死ぬのではないかと恐れたり、訳が分からず下着を捨てたり隠したりした経験を持っている人が少なくない。事前に知識を得ている場合は、そこまでの衝撃を受けている人はおらず、学校性教育において、事前にそれぞれの身体に起こりうる可能性を知識として教える重要性が確認される。
しかし、それでも今回の調査に協力してくれた高校生の多くは、自分自身の身に初経や精通が生じたときには、「驚き」を持って迎えている。この「驚き」を伴った個々の身体の受け止め方をサポートしていくには、学校性教育を充実させるだけでは不十分であるし、限界もある。学校教育には個に対する教育機会もあるが、基本的には集団教育であり、また、政治的・社会的な要因も絡んで、学校の性教育で取り上げられる内容には制限が加えられてしまいがちである。
一方、性は性的欲望を喚起することを目的とした性産業の論理でのみ語られるものであってもならない。ただ、性産業といってもひとくくりにはできない。たとえば、「課題はマスターベーションの快楽の追及であって、セックスの模倣ではない」「性を表通りに、誰もが楽しめるものに変えていく」という自慰補助製品TENGAのコンセプトは、これまで他者の身体を利用するかたちで喚起されてきた「性的欲望」のあり方を、自分自身の身体の感覚に向き合うという方向、公的空間に正式に位置づける方向に転換する可能性を秘めている。
ある先生は「何をどう話すのかということ以上に、子どもたちに性について真面目に、真剣に話す大人がいるということを知ってもらうことが重要だ」と語った。重要なことは、その担い手が誰であれ、子どもたちを取り巻く多様な場で、多様な価値観のもとで、多様な人々によって、真面目に率直に性について語られる場が増えることである。
「性の常識」は長い間をかけて形成されてきた文化や制度のもとにあり、私たちはそれを参照して自分自身の性の捉え方をつくってきた。それゆえに、どれだけ大きな被害や問題があっても、性に関して他者の権利や身体を侵害するような価値観を持つ人々の考えや行動を、いきなり変えさせたりやめさせたりすることは不可能であるし、今すぐに性に悩むすべての人に適切なサポートが与えられるような環境をつくれるわけでもない。
また、一人ひとりが、「性の常識」に疑問を持ち、改めて考え直していくこと、自分自身の感じ方を語り合っていくことも、自分の弱さや見たくないところをさらけ出すようでなかなか簡単なことではなく、誰もが性について率直に語ることができるとも、語るべきだともいえない。だが、思想や立場が何であれ、「性」について真面目に率直に語る人が増えることは、性の置かれた曖昧で不安定な状況を明らかにし、たとえば孤独に精通を迎える少年のような、自身の「性」に人知れず悩む人の重荷を軽減するように思われる。
【文献】
猪瀬優理(2008)「性教育をめぐる政治と文化」『北海道大学文学研究科紀要』125,135-168
猪瀬優理(2010)「中学生・高校性の月経観・射精観とその文化的背景」『現代社会学研究』23,1-18
日本性教育協会編(2007)『「若者の性」白書―第6回青少年の性行動全国調査報告』小学館
山谷えり子(2003)「伝統・文化を破壊するジェンダーフリー教育」『日本文化』12,67-74
猪瀬優理(いのせ・ゆり)/ 記事一覧
龍谷大学社会学部社会学科講師。日本学術振興会特別研究員を経て、北海道大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(行動科学)。北海道大学院文学研究科助教を経て現職。櫻井義秀編『カルトとスピリチュアリティ』ミネルヴァ書房(2007年)には、「脱会過程の諸相―エホバの証人と脱会カウンセリング」として、エホバの証人の脱会者への調査結果を報告している。
リンク先を見る信仰はどのように継承されるか-創価学会にみる次世代育成
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森岡正博は『感じない男』(2005、ちくま新書)において、射精する自分自身の身体、「男の体」について、基本的に否定的な調子で描いている。「まだ自分に男性ホルモンも、筋肉も、体毛も、精液も満ちていなかった、あの少年のころの体へと戻りたい」という思い、自分の男としての身体が汚れているという思いがつづられ、その思いが反転して、清らかなイメージのある年若い女性への性的欲望につながっているという説明がなされている。
ササキバラ・ゴウによる、「美少女」や「二次元のキャラクター」への性的なものを含んだ欲望(萌え)について述べた『〈美少女〉の現代史―「萌え」とキャラクター』(2004、講談社現代新書)でも、基本的に男性が自分自身の「傷つきやすさ」を、これらの「美少女」等に投影するという構図で「萌え」が説明されている。
当然ながら、すべての男性が自分自身の身体を否定的にとらえるわけではないだろう。逆に、女性の人権を否定するかたちの「男らしさ」に自身の身体の正統性の根拠を求めたり、女性の美を否定して男性の美を強調する場合などもあるだろう。
いずれにせよ、男性にとっては、子どもから大人へと移行する段階、自分自身の男性としての性のある身体を受け入れていく段階で、性的欲望という問題に関わらないでいることが難しいことが推測される。
しかし、現代日本社会では、基本的に公的空間では子どもは性的な存在であることが否定されている。また、私的な性的欲望のあり様について他者が知ろうとしたり、他者に話したりすることは通常は奨励されない。語ることが禁じられているのである。
とくに男性の射精にはその人自身の私的な性的欲求の発露や快楽が付随するため、公的な場で話題にしにくい。そして、性産業が主として喚起しようとしているのは男性の勃起・射精である。そのため、男性の性的欲望、勃起・射精をターゲットにしている性産業は、完全な公的空間として見なされず、あたかも私的空間のような扱いを受ける(公的であるのに公的に見えないふりをする)。
「過激な性教育」批判を行っている山谷が、「快楽の性」を教えることを「自己を卑下させるような教育」と評しているのは非常に象徴的である(山谷 2003)。「快楽の肯定=自己卑下」という図式がここには見出される。快楽は、基本的には肯定的な感覚のように思われるが、ある種の価値観の中では(たとえば、山谷が思うところの「よりよき」国をつくるための思想では)、何か一段低いもの、汚れたものと見なされる。そして、性が公的空間で語られにくいということは、少なからぬ人が全面的にではなくとも部分的には、その感覚を共有しているのだろう。
男性に対する性教育が不足していることについて、女性に対しては身を守るという観点から性教育が不可欠だが、男性の場合はそれほど必要性が高くないという説明がなされることがある(これは男性への性的被害を否認する効果を持つ説明でもある)。だが、男性への性教育があまりなされない理由には、必要性の多寡だけでなく、男性の性を正面から取り扱うには快楽や性的欲望が避けて通れない「やりにくさ」もあるのではないか。
面接調査に応じてくれた中学生は男女とも、性に関する話は「大事なこと」と思いながらも、「エロい」「グロい」「恥ずかしい」ものとも考えていた。このような一見矛盾した受け止め方は、学校性教育で「性」を知るのは、自他の命や身体につながる大事なことと伝えられ、それを受け止めながらも、「快楽」=「汚れている」という価値観も受け止め、どう整合性をつけたらよいかで迷っている姿のようにも見える。
とくに、男性の性的身体の男性自身にとっての受容のプロセスには、快楽や性的欲望をどう受け止めるかが避けて通れない。それに対する社会的評価は肯定的でもあり、否定的でもある混在・混乱した状況である。
子どもから大人になる段階で、性的なものを含めた身体的変化をいかなるかたちで受容し、その受容の仕方が周囲にどのように受け入れられていくのか。これまでの多くの大人たちは、子どもであったとき、この問題についてあまり多くの人には語らずに、ひそかに手に入れた情報を繋ぎ合わせるかたちでなんとかやってきたのではないだろうか。そして、筆者を含めて少なくない人が、じつは整理をつけきれていないままでいるようにも思われる。
■多様な場で、多様な価値観のもとで、多様な人々によって
学校で性教育を受ける機会のなかった女性や男性にお話を伺うと、初経や精通のとき、男女とも自分の身に起こっていることが理解できず、病気で死ぬのではないかと恐れたり、訳が分からず下着を捨てたり隠したりした経験を持っている人が少なくない。事前に知識を得ている場合は、そこまでの衝撃を受けている人はおらず、学校性教育において、事前にそれぞれの身体に起こりうる可能性を知識として教える重要性が確認される。
しかし、それでも今回の調査に協力してくれた高校生の多くは、自分自身の身に初経や精通が生じたときには、「驚き」を持って迎えている。この「驚き」を伴った個々の身体の受け止め方をサポートしていくには、学校性教育を充実させるだけでは不十分であるし、限界もある。学校教育には個に対する教育機会もあるが、基本的には集団教育であり、また、政治的・社会的な要因も絡んで、学校の性教育で取り上げられる内容には制限が加えられてしまいがちである。
一方、性は性的欲望を喚起することを目的とした性産業の論理でのみ語られるものであってもならない。ただ、性産業といってもひとくくりにはできない。たとえば、「課題はマスターベーションの快楽の追及であって、セックスの模倣ではない」「性を表通りに、誰もが楽しめるものに変えていく」という自慰補助製品TENGAのコンセプトは、これまで他者の身体を利用するかたちで喚起されてきた「性的欲望」のあり方を、自分自身の身体の感覚に向き合うという方向、公的空間に正式に位置づける方向に転換する可能性を秘めている。
ある先生は「何をどう話すのかということ以上に、子どもたちに性について真面目に、真剣に話す大人がいるということを知ってもらうことが重要だ」と語った。重要なことは、その担い手が誰であれ、子どもたちを取り巻く多様な場で、多様な価値観のもとで、多様な人々によって、真面目に率直に性について語られる場が増えることである。
「性の常識」は長い間をかけて形成されてきた文化や制度のもとにあり、私たちはそれを参照して自分自身の性の捉え方をつくってきた。それゆえに、どれだけ大きな被害や問題があっても、性に関して他者の権利や身体を侵害するような価値観を持つ人々の考えや行動を、いきなり変えさせたりやめさせたりすることは不可能であるし、今すぐに性に悩むすべての人に適切なサポートが与えられるような環境をつくれるわけでもない。
また、一人ひとりが、「性の常識」に疑問を持ち、改めて考え直していくこと、自分自身の感じ方を語り合っていくことも、自分の弱さや見たくないところをさらけ出すようでなかなか簡単なことではなく、誰もが性について率直に語ることができるとも、語るべきだともいえない。だが、思想や立場が何であれ、「性」について真面目に率直に語る人が増えることは、性の置かれた曖昧で不安定な状況を明らかにし、たとえば孤独に精通を迎える少年のような、自身の「性」に人知れず悩む人の重荷を軽減するように思われる。
【文献】
猪瀬優理(2008)「性教育をめぐる政治と文化」『北海道大学文学研究科紀要』125,135-168
猪瀬優理(2010)「中学生・高校性の月経観・射精観とその文化的背景」『現代社会学研究』23,1-18
日本性教育協会編(2007)『「若者の性」白書―第6回青少年の性行動全国調査報告』小学館
山谷えり子(2003)「伝統・文化を破壊するジェンダーフリー教育」『日本文化』12,67-74
猪瀬優理(いのせ・ゆり)/ 記事一覧
龍谷大学社会学部社会学科講師。日本学術振興会特別研究員を経て、北海道大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(行動科学)。北海道大学院文学研究科助教を経て現職。櫻井義秀編『カルトとスピリチュアリティ』ミネルヴァ書房(2007年)には、「脱会過程の諸相―エホバの証人と脱会カウンセリング」として、エホバの証人の脱会者への調査結果を報告している。
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