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NTTの株価総額が世界一だった時に、Microsoftに転職した理由

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6年勤めたNTTを退職しました」という記事が、注目を浴びているようですが、この筆者がNTTを辞めた理由が、私が32年前(1986年)にNTTを辞めた理由とあまり変わらないのに、少々驚きました。

私がNTTを辞めた件に関しては、これまで色々なところで話しては来たのですが、まとまって文章にしたことがなかったので、これを機会に書くことにしました。普段ならメルマガの読者限定で書くところですが、今回だけは、出来るだけ多くの人に読んで欲しいので、ブログ記事として公開します。

当時、NTTは電電公社から民営化したばかりで、1985年に入社した私は、NTTとしては第1期生でした。大学は、早稲田の理工学部電子通信学科で、修士課程まで行きました(当時は、情報学科はまだ独立しておらず、電子通信学科がソフトウェアとハードウェアの両方をカバーしていました)。

大学院は最初から行くことに決めていたので、そのまま修士課程に進みましたが、その時に教授と相談し、NTTから奨学金をもらうことにしました。当時、NTTの研究所は、技術系のエンジニアにとっては、エリート中のエリートでだったし、将来は博士号をとって、大学教授になることを目指していた私にとっては、とても良い選択肢に思えたのです。

奨学金は月5万円を2年間、卒業時にNTTに就職すれば返済しなくて良いという条件でした。その当時、私はCANDYというソフト(パソコン用のCADソフト)をアスキーから発売して荒稼ぎしていたので、月5万円などはどうでも良かったのですが、「奨学金を渡した学生を採用しない訳が無い」という計算から、奨学金をもらうことにしたのです。

CANDYでお世話になっていたアスキー出版の人たちには、「あんな大きな会社に就職しても良いことはない、うちに来れば良いのに」と言われていたのですが、そのころは、プログラミングは趣味にすぎないと考えていたし、「早稲田の大学院からNTTの研究所」というエリートコースに乗ることが、自分に相応しい道だと奢っていた部分が多分にあったと思います。

計画通りNTTから内定をもらい、入社後に配属されたのは、武蔵野通研で交換機向けのOSとCPUを設計する研究室でした。そのころは、今よりもハードウェアよりの人間だったので、CPUの設計は是非ともしてみたいと考えていたのです。

1ヶ月ほどの研修を終えて研究室に配属されたのですが、かなり自由度は高く、好き勝手な研究をして良い雰囲気だったので、まずは CPU の設計に取り掛かりました。

交換機は、大量の小さなトランザクションをリアルタイムで裁く必要があるため、通常のパソコンに使われているCPUを使うと、メモリキャッシュのヒット率が極端に低くなり、そこがボトルネックになってスループットが上げられなくなります。

そこで、今でいうハイパースレッドのような仕組みを使い、メモリー転送が起こっている間はCPUには別のスレッドの計算をさせることにより、スループットを上げるというアイデアをベースに CPU を設計しました。

サクサクと、資料を書き上げ、上司のところに持って行き、「特許を取るべきだし、論文も書きたい」というと、返って来た答えが、「まだ早い」でした。彼によると、特許なんかは新入社員がいきなり申請するものじゃあないし、論文に関しても「順番がある」というのです。

なんだかいきなり出鼻をくじかれた感があったのですが、この上司の「順番がある」という言葉の意味が理解できる事例が、そのすぐ後に起こりました。

同じ研究室の先輩(Aさん、入社4年目)が、素晴らしい研究をし、それをフランスの学会で発表することになったのですが、実際にその発表をするのは、その人の上司(Kさん、入社7年目)ということになったのです。Kさんは、たまたまその先輩の上司になっていましたが、全く分野の違う研究をしており、その先輩の研究内容に関しては、概略しか理解していなかったのです。

私の上司になぜそんなことをするのかを尋ねたところ、「Kさんはまだ海外での研究発表の経験がなく、彼のキャリアを考えるとそろそろしておくべき」だからとのことです。なんだか変な話ですが、それまさにが「順番がある」という話だったのです。

ちなみに、その上司(入社8年目)は、京大で博士号を取ったほどの人でしたが、日中は日経エレクトロニクスなどを読んで情報を集め(英語の論文はあまり読んでいなかったようです)、会社で夕ご飯を食べると、8時まではパソコンでゲームをして遊び(管理職は5時から8時の間は残業手当が出ない仕組みになっていました)、残業手当が出る8時からは彼の上司の資料作りを手伝う、という働き方をしていました。

私の上司の上司(入社18年目)は、とても良く頭の切れる人だったのですが、やっている仕事は、業界の動向を網羅するインダストリーレポートのような論文を書くことでした。後で分かったのですが、彼はすでに出世競争に敗れており、20年勤めた後の天下り先として大学教授のポストを狙っていたため、そんな論文を書くことが重要だったそうです。

別の先輩(入社5年目)は、とあるソフトウェアの開発担当だったのですが、自分自身はコードを書かず、フローチャートも含めた詳細な仕様書を書くのが仕事でした。私から見れば、どう考えてもその仕様書を書く時間でプログラムが書けるにもかかわらず、ソフトウェアの開発は、仕様書を書いて、下請けに発注するのが決まりになっていました。

その辺りから、だんだん「間違ったところに来た」という感覚が芽生えて来たのですが、極め付けは、研究所長が研究室に雑談に来た時でした。私の上司たちと話しているのを何気なく耳に挟んでいたのですが、私がショックを受けたのは、所長の「なぜ君たちの部署から MS-DOS のようなソフトウェアが出てこないのか」というセリフでした。

私は、アスキーがマイクロソフトの代理店をしていたこともあり、MS-DOS向けのデバイスドライバーなどの開発の経験もあり、MS-DOSのことはソースコードレベルで良く知っていました。その頃の MS-DOS は、どうしようもないコードで「私だったらもっと良いものが作れる」と常々感じていたのです。

その時、私の頭の中にあった、価値観がガラガラと崩れていく音が聞こえ始めました。それまで、私はNTTの研究所は、エリート中のエリートが集まる、エンジニア達にとっては孤高の存在で、逆に、アスキーやマイクロソフトは、大学も卒業できない落ちこぼれ連中の吹き溜まりだと感じていたのですが、それが大きな誤りだったことに、所長の一言は気がつかせてくれたのです。

その後しばらくして、上司の上司に「自分は間違ったところに来たのかも知れない」と正直な気持ちを伝えました。すると「一度NTTに入った限り、途中で辞めるのは損だ。僕らが安月給で働いているのは、20年働いた後に一生もらうことの出来る年金のためなんだ。つまり、最初の20年は、毎年、会社に貸しを作っていることになる。途中で辞めるという事は、その貸しを捨ててしまうことに相当するんだ」と言うのです。

勤続18年で、天下り先を探していた彼としては、彼なりの正直な気持ちを話し、私に「ここで20年頑張ろう」という覚悟をさせようとしたのでしょうが、あいにくなことに私の中には「辞めるなら早いほうが良い」という気持ちが生まれてしまいました。

そんな時に、新聞の朝刊で読んだのが、「マイクロソフト、日本法人を設立」というニュースでした。アスキーとの総代理店契約を解消し、アスキーから15人ほどの人を引き抜いて、日本法人を設立することになった、という報道です。

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