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松田聖子や桜田淳子はどうやってスターの座を射止めたのか

【サンミュージック名誉顧問の福田時雄さん(撮影/山崎力夫)】

【香坂みゆき(『別冊BIG GORO 素足のアイドルたち』小学館 撮影/渡辺達生)】

 桜田淳子や松田聖子など芸能史に残るアイドルを輩出してきたサンミュージックが11月27日、50周年を迎える。事務所の創立者で長らく芸能界を支えた故・相澤秀禎会長とともに、創業時から事務所を支えた福田時雄名誉顧問が半世紀を振り返る──。

「福ちゃん、そろそろ2人で会社作ろうや。誰か連れてこいや」

 1968年、西郷輝彦のマネージャーである相澤は、バックバンドのドラマーから西郷の現場マネージャーに転身していた福田を誘った。

「十数人スカウトしましたが、相澤のお眼鏡に適わない。そんな時、知人の日劇のダンサーに尋ねたところ『仲間のダンサーの弟で踊り子たちが夢中になってる可愛い男の子が遊びにくるわよ』と教えてくれた。それがサンミュージックのタレント第1号となった森田健作でした。外交官志望でしたが、ステーキや寿司を食べさせたりして、半年かけて何とか説得しましたよ。食べ物で釣ったわけです」(福田氏、以下同)

 11月、松竹の正月映画『夕月』で黛ジュンの相手役オーディションに合格。翌々日にクランクインする慌ただしい日程だった。

「刑事である父親が大反対。『今から断われないから1作だけ』と何とか押し切った。12月に試写会に連れて行くと、『学業優先ならば』と認めてくれました」

 相澤が森田を「太陽みたいに明るい奴だ」と評したこと、自身がミュージシャン出身であることから「サンミュージックプロダクション」と名付けた。 立ち上げたばかりの事務所には資金がなかった。

「ダイレクトメールを出すための便箋や封筒は松竹からもらってきました。長距離電話は高いので、レコード会社に行った時に借りていましたね(笑い)」

 映画はヒットし、森田には1日1000通ものファンレターが届くようになる。6畳1間の事務所は足の踏み場に困るほどだった。相澤はさらに攻勢を仕掛け、新宿で靴店の店員だった野村真樹を口説き落とす。1970年、『一度だけなら』でデビューさせると同年、憧れの「NHK紅白歌合戦」初出場を果たした。

「その後、手狭になり移った事務所は陽当たりも悪くて、昼でも電気をつけないと字が読めないほど暗かった。その場所でオーディションもしましたよ。審査員が5人いるのに、台風で2人しか来ませんでした(笑い)。その1人が演歌歌手の牧村三枝子だったんです」

◆松田聖子は自分で運を掴んだ

 1972年、福田は『スター誕生!』(日本テレビ系)の秋田県予選で原石を発見する。阿久悠が「かわいいだけで天才だ」と評した桜田淳子である。

「決戦大会では、番組史上最多の25社がプラカードを一斉に挙げた。後楽園ホールの下にある中華料理店で1社3分、お金の話はしないという条件で両親と交渉しました」

 淳子は「森田健作の妹役があるかもしれない」という福田の言葉に惹かれ、サンミュージックを選択。1973年に日本レコード大賞最優秀新人賞を獲得した。

「1975年『はじめての出来事』で初のオリコンチャート1位を獲得するなどトップスターになっていた淳子に、相澤が『なんでもいいから食べたいもの言ってごらん』と聞いたら、淳子が『ステーキを1人前食べたい』と言ったんです。高いからいつもマネージャーと半分ずつにしていたそうです。感心しましたね」

 福田はスカウトの時だけでなく、デビュー後も両親と密に連絡を取った。時間を見つけては実家を訪れ、行けない時は手紙でテレビ出演の日時を伝えた。タレント本人から「どうして私の考えていることがわかるの?」と不思議がられることもあった。

「相澤から、相手の気持ちに寄り添って物事を考えろと教わりました。たとえば、タレントが何も食べてない時は、マネージャーも食事をしてはいけない。人のお腹の空き具合まではわからない。自分が空腹なら、相手もそうだとわかるんです」

 1970年代後半、子役だった香坂みゆきをスカウトする。

「彼女は小さい頃から手のかからないしっかり者でしたね。子供ながらに鉛筆をナイフできれいに削って揃えていた。大人になってからも仕事はもちろん、結婚式も全て自分で準備してしまい、彼女の母親を寂しがらせてしまうほどでした」

 事務所はその頃、新たなスターを生み出せずにいた。

「5人くらいデビューさせた年もありましたが、なかなか上手くいかない。知人に頼まれて義理で預かる場合もあった」

 そんな中、牧村三枝子が渡哲也のカバー曲となる『みちづれ』を発売する。

「デビュー8年目でようやく売れたのですが、同時に本家本元のレコードも伸び始め、牧村の売り上げが止まった。すると、渡さんが『俺は役者だから別に売れなくていい。あの子は8年も苦労してきたんだから』と自分の出荷を止めてくれました」

『みちづれ』が98万枚の大ヒットとなる1979年、17歳の女子高生がオーディションを受けにきた。前年の「ミス・セブンティーンコンテスト」の九州地区大会で優勝していた蒲池法子(のちの松田聖子)である。ソニー・ミュージックの若松宗雄ディレクターの熱心な勧めで会うことになったが、当時事務所は乗り気ではなかった。

「1980年春にソニー制作1部で郷ひろみや山口百恵を育てた酒井政利ディレクターのもと別の歌手のデビューが決まっていたんです。同じレコード会社から同時期に2人は難しいと。でも、聖子の歌声を聴いて、これはイケるなと」

 その後、猛反対する父親を説得するため、福田が実家の久留米に赴くと、厳格な家庭像が垣間見えた。

「聖子は、紅茶を出した後も、お盆を持って板の間に正座したままでいました。父親が許すまではテコでも動かないぞという顔をしていた。しっかりしているなと。『高校卒業後に東京に出ていらっしゃい』と伝え、1980年秋のデビューを考えていました。ところが、1979年の夏休みには出てきてしまい、仕方なく相澤の家に下宿することになりました。もし1980年3月の上京だったらと考えると……。聖子は、自分で運を掴んだんです」

 1980年2月、CMタイアップ予定の別の歌手のデビュー曲は商品の事情からCM自体が延期になったこともあり、聖子のデビューは4月1日に繰り上げられた。折しも、山口百恵が三浦友和との婚約を発表し、10月限りでの引退を表明。2曲目『青い珊瑚礁』が大ヒットした聖子は、「ポスト百恵」の座を射止めた。

取材・文■岡野誠

※週刊ポスト2018年11月30日号

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