
■「可能な限り説明するのが私の責任」
シリアで武装勢力に拘束され、3年4カ月ぶりに解放された44歳のフリージャーナリストの安田純平さんが11月2日、解放後初めての記者会見を行った。会場の日本記者クラブ(東京・内幸町)には約390人の報道陣が詰めかけ、テレビカメラだけで約40台が並んだ。
ブラックスーツに濃紺のネクタイを締めた安田さんは、少し痩せたように見えたが、「可能な限り説明するのが私の責任」と当時の模様を毅然と話した。
安田さんは冒頭、次のように述べて深々と頭を下げた。
「解放に向けてご尽力いただいた皆さん、ご心配いただいた皆さんにお詫びしますとともに、深く感謝申し上げたいと思います」
「私自身の行動によって、日本政府が当事者になってしまった点について、大変申し訳ないと思っています」
安田さんは会見中、言葉を選ぶように話し、その態度は終始、丁寧で謙虚だった。
■「もう駄目だ。殺してくれ」と叫んだこともあった
約2時間半にわたった記者会見の最後、安田さんが日本記者クラブのサイン帳に書いた「あきらめたら試合終了」という一言が紹介された。安田さんはこう説明した。
「何度も絶望して拘束された部屋の壁を蹴って『もう駄目だ。殺してくれ』と叫んだこともあったが、希望は最後まで捨てなかった」
「あきらめたら、精神的にも肉体的にも弱くなってしまう」
「いつかは帰れるとずっと考え続けた」
■生命力の強さとジャーナリスト魂には頭が下がる
いつ殺されてもおかしくない状況だった。そんななか、安田さんは「あきらめたら試合終了」の精神でよくがんばった。
もし自分が安田さんだったら、劣悪な環境での3年4カ月もの長い拘束に耐えられただろうか。いやできないだろう。舌を噛み切って自殺するか、そのまま狂い死んでいただろう。安田さんの生命力の強さとジャーナリスト魂には頭が下がる。
危険な紛争地取材について安田さんは「紛争地で何が起きているのか。それを見に行くジャーナリストの存在が必要だ」と語る。
当事国や関係国、関係者の発表だけでは真実が見えないことが多い。ましてや紛争や戦争となると、嘘の発表も横行する。
■「日本政府に金を要求する。人質だ」と告げられた
安田さんは過激派組織のイスラム国(IS)の情報を入手したことで、ISと対立する他の反体制組織が統治するシリアのイドリブで取材しようと考え、2015年6月22日の深夜にトルコからシリアに入ったが、途中でガイドとはぐれて拘束された。
「拘束は私の凡ミスだ」と言う。
当初はゲスト扱いでテレビを見ることもできたが、1カ月ほどたってから「日本政府に金を要求する。人質だ」と告げられた。ただノートを渡されメモを書くことは許された。
アパートの地下室、戸建ての民家、巨大収容施設など約10カ所で拘束され続け、ときには幅1メートル、奥行き2メートルほどの独房に入れられ、身動きや音を立てることを禁じられ、寝返りも許されない拷問を受けた。
イスラム教に改宗すれば、1日5回の礼拝が許され、体が動かせるということで、名前を「ウマル」と変えた。日本人と名乗ることは禁じられた。
■「批判があるのは当然だ。自業自得だと考えている」
「殺されても文句は言えない」
「政府にお尻を拭いてもらった」
安田さん解放のニュースに対して、ネット上では「自己責任ではないか」との批判が噴出した。テレビのワイドショーでもコメンテーターらが、危険を顧みず、国の制止を振り切って紛争地のシリアに入った取材の是非を問題視した。
こうした批判に対し、安田さんは「私自身に対して批判があるのは当然だ。紛争地に行くのは自己責任だと考えている。日本政府が紛争地から拘束された日本人を救い出すのは難しい。相応の準備をして自分の身に起きるものについては、自業自得だと考えている」と述べた。家族には「何もしないように。放置するように」とのメッセージを残したという。
こうした発言を聞き、自分の信念を持った男だと、沙鴎一歩は感じた。
安田さんは埼玉県の出身で一橋大を卒業後、1997年4月に信濃毎日新聞社に入った。2002年3月に休暇を取って米軍のアルカイダ掃討作戦が続くアフガニスタンを訪れた。同年12月には開戦前のイラクに10日間滞在した。翌2003年1月には信濃毎日新聞社を退職し、フリージャーナリスに転身した。
安田さんはこれまでもイラクで2回、身柄を拘束された経験があり、今回は3度目の拘束だった。