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- 2012年03月08日 10:22
もう一度「一般理論」に挑戦する(3・完) 山形浩生×飯田泰之
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飯田 山形さんにこんな話をするのは釈迦に説法ですが、ケインズの意義というと、経済学者以前にケインズの研究者みたいな人が、「ケインズは本当はこう思っていた」論を言い出したりするんですよね。でも、ケインズが"本当に"どう考えていたかはどうでもいい話で、ケインズの理論から現在的な意味で何をカンニングできるかが重要です。カンニングのネタ本のようにケインズを使うのが、ケインズの役立て方だと思うんですよね。
山形 そうですね。やっぱり『一般理論』の小難しくも面白いところは、彼がうねうねしながら議論を進めるところ。その中に、本筋とは外れるけれど注目に値する部分が書かれているんですよね。
飯田 その意味でいうと、ある人が若手の経済学者に向けて「ミルトン・フリードマンの本を全部読め」という話をしていました。ミルトン・フリードマンは数学で経済を語ることが大嫌いな人で、シカゴ大学の大学院で数理経済学部のコースを設置するのに大反対だったそうです。そのせいか彼の書く経済の本は全部言葉とグラフで書いてあるから、何だかわからない部分があるんですよ。そのせいで、フリードマンのアイデアを数式で書いたらそれだけで論文のトップジャーナル行きが決定していたような時代があったと言われます。
すでに言葉で書かれているものを数学モデルにするのは、検証のために計量モデルに乗せられるかどうかが非常に重要な意味をもつからです。DSGEが流行ったのも、計量モデルに乗っかるのがポイントです。かつてのIS-LMもそう。だから、『一般理論』の中から、「これって数式になるんじゃないか」とか、「計量可能なかたちにできるんじゃないか」という部分を見つけるといいかもしれない。
山形 『要約一般理論』の解説にも書いたんですけど、アカロフとシラーというすごく有名な経済学者が最近『アニマルスピリット』という本を書いています。
アニマルスピリットというのは、『一般理論』の中では「事業家って投資を決めるときに予想収益率とかを計算して、『これは利子率より高そうだから投資する』なんてこと実際はしないよね」という話。大半の事業家は何かを見て、「俺はこれをやるぞ!」と思って、とにかく勢いでガーッとやっちゃう。そういった、理屈にならない感情的な部分をアニマルスピリットと呼ぶことにして、それが経済に与える影響を考えなきゃいけないとケインズは言っている。
ところが、アカロフとシラーの本の中では、「人は理屈に合わないことでも、何となく周りの空気に流されてしまう」とか、4~5年いい状況がつづくと、「このままずっとそれがつづくよね」とつい言ってしまう心理のことが「アニマルスピリット」だと言われていて、ケインズが言っているのとかなり違う。
彼らとしては「理屈に合わないものも見ないといけないよな」というところを『一般理論』から読み取ったのだと言いたかったんだろうけど。
飯田 ケインズが書いているのは、シュンペーターのイノベーションの話に近いですよね。ただ、アカロフとシラーの気持ちを想像すると、数理モデルもなければ論理的なモデルもちょっと薄いというときに、論理の代わりにケインズの名前を持ってくるのは仕方がない部分もあったのかも。
今回解説を書くにあたって読み直して思ったのは、ケインズが言っていることは行動経済学に近いということです。ぼくの解説に対してTwitterで、「ケインズのやろうとしていることって動学一般均衡行動経済学だったんじゃないか」と書いている人がいて、まさにそれだと思いました。すごく非合理的というよりも、たとえば、働き手と雇う側、貯金する側とそれを使って投資する側は、それぞれ別の論理で動いているんだということを強調している。ここがIS-LMにはあまり入ってないところで、なおかつ最近の行動経済学がよく研究していそうなところなので、この辺りにヒントがあるのかもしれない。
飯田 たしかにIS-LMは比較静学モデルなんです。ぼくはいまだにIS-LMをどう評価していいのかわからないんですが、こういう思い出話があるんです。
ぼくの事実上の師匠である岡田靖さんがよく言っていたのは、「IS-LMは(「攻殻機動隊」に出てくる)村井ワクチンのようなものだ」ということでした。村井ワクチンは、もともとは丸山ワクチンをモデルにしたと言われている、「何だかわからないけど効く薬」です。IS-LMはそれに近くて、最終的に論理の部分で、どうして成り立っているのか微妙にわからないんですね。だけどIS-LMを使うと非常にクリアな説明を与えてくれたりする。それがIS-LMの怪しい魅力であり、使っていて怖くなっちゃうところでもあるんですよ。
山形 先ほどからぼくはDSGEについて話したりしていますが、実際は実務エコノミストなので、DSGEを使う場なんてほとんどないんです。途上国に行って「この橋を造りますか」とか、「あんたらの財政施策はどうしなきゃいけないですか」という話をするときは、だいたいIS-LMで用が足りるし、IS-LMでもちょっと難しいので、それをどう簡単に説明するのかが問題だったりするんですね。だからぼくはIS-LMについては、「あんなに使い勝手がいいものはないのに、何で学者さんたちはみんな悪口を言うんだろうな。もっと認めてほしいな」と思うんですよね。
飯田 ひとつは学者の性なんですが、教科書に載っていることを100本論文に書いてもまったく昇進や就職に結びつかないんですよ。だから新しいことを何か書かないといけない。新しいものを書きやすいのはフロンティア分野なので、どんどんマニアックな方向にいってしまうのはそのせいです。
もうひとつ、日本人の経済学者が論文を書く場合、英語の壁があることが多い。英語が下手なので、数学的に細かいところ、統計的に細かいところを打たないと、なかなかジャーナルに載らない。だから、どんどん細かく、マニアックなことをやる。
そして気がついたら実務エコノミストと学者がまるでコミュニケーションできない状態までいってしまっていた。そういうことがあるんです。
山形 その難しさは物理学も同じで、物理学ではガリレオの理論があって、ニュートンが一般化して、それをさらにアインシュタインが出てきて、だんだん広げてできたものです。でも現実の社会では、物理学が必要とされる大概の部分、たとえば建物を建てたり、ミサイルを撃つくらいはニュートン力学でこと足ります。ニュートン力学から外れる部分が問題になってくるのは、素粒子を加速器でぶつけるといったような特殊な状況に限られている。
経済学もそうで、最初にアダム・スミスが「見えざる手」と言ったところで世の中の8割くらいはカタがついちゃった。それ以降の経済学は、それに当てはまらない部分、どんどん特殊なところに注目していかざるを得なかったんです。
とことが、人々が経済学者のほうをたまに振り返るのは、何かすごく変なことが起きちゃって、「どうしたんでしょうか?」と聞きたいときです。そうすると、「見えざる手だ」と言うだけじゃ話にならない。そうでない場合の話をみんな求めているわけですから。
山形 「サイコヒステリック」ね。
飯田 天才なのか気違いなのかわからない歴史心理学者です。それにあこがれている。経済学者には、「将来を見通したい」という思いで経済学者になった人と、文系学問の中では一番緻密だという意味での「知的パズルが好き」だからなっている人がいるんです。知的パズルもときにすごく面白いし重要なこともあると思うけど、知的パズル組の人は必ずしも現実経済に興味がなかったりする。極端に言うとリーマンショックですら興味がなかったりするんですよね。
山形 経済をやるからにはどこかで理論と現実との対応を見なきゃいけないから、まったく現実を見ないことにはできないと思うんですが。
飯田 それが不思議で、たとえば、ある優秀な理論経済学者の方はかつて、「マネーが物価を動かさない」というモデルをつくったんですね。「なぜならば、日本はまだデフレにならないじゃないか」と。「もう2年以上にわたって物価が低下しています」と言ったら、「それは違うんだ。物価指数は低下しているけど、物価は低下していない」と。純粋な理論の人は、理論に合わない現実のほうをシャットダウンする人もいます。そういう人のほうが格の高いジャーナルに載っていたりすると、なかなか話がややこしくなります。
山形 なるほど、なるほど。美しい理論がある場合と、現実はぐちゃぐちゃしていてなかなか説明つかないよという場合と、どっちが世間的に感心されるかというと、やっぱり美しい理論のほうだ、という話かもしれませんね。
飯田 あともうひとつ。純粋理論だけやっていた人の中には、日銀や財務省の役人に「現実はそんなもんじゃないよ。ずるずるべったりですよ」と言われて、とつぜん「なるほど」と全面的に納得しちゃう人も結構いるんです(笑)。全然知らない世界の話だから何かすごいことを言われているように感じてしまう。「実務家が全部正しくて、経済学は全部間違えているんだ」というところまで、いきなり変わっちゃう人さえいます。たしかに官僚は「これは何とか法で、これは何年に何とか内閣で法律を通して」ということには詳しくて、「うわ、すごい頭いい」と思うけど、よく考えると大した話じゃないことが多い。でも、それにやられてしまう経済学者がいるんです。
山形 「緻密な理論と雑な現実」ということでいうと、『ルワンダ中央銀行総裁日記』という本があります。この本は、日銀の人がルワンダの中央銀行の総裁になり、非常に基本的な理論を使いつつも、現実には合わないことは裁量で調整するという美しいことをやって見事に成功したというものです。自分で書いているから、どこまで手前みそなのかというのはどこかで検証しなきゃ思っているんですが、そんなに外れたことは書いていません。学者としての成功と、現場として何を使うべきかのバランスは、その場にいないとわかりにくいところがあるので、非常に難しいところではありますよね。
飯田 このあたりは海外のほうが、まだ上手くいっているイメージですね。向こうでは、エコノミストという肩書きの人の数が日本の100倍以上いる。そうすると、ちょうどいいバランスの人から、ものすごく変な人まで、いろんな人がいる。
山形 そうですね。まともな経済学者がちゃんとブログとかで発言してくれるし、分析も提示してくれるし、経済学者同士の議論がわれわれの読めるところで展開される。とくにアメリカを中心としたそういった状況は、幸せだし、うらやましいですよね。日本では本当に偉い人やもう少しきちんと発言してほしい人はあまり発言しないで、ちょっとおかしいんじゃないか、ゆがんでいるんじゃないかと思う人がかなり大きな声で発言していたりする。誰かもう少しこの人たちを押さえてもらえないものかと思いつつ、たまにぼくが出てケンカとかしていますけれども、もう少し援軍が欲しいなという気はします。
飯田 そういう不思議な自信家って、日本ではどうしても目立ってしまうんですね。たとえば最近でも、3.11が起きて3日後に原子力の専門家になっている人みたいな(笑)。Twitterでも、「10年間原子力のことを考えていました」というノリの人が急に増えたのは不思議です。
ただ、ちょっと話を戻すと、データにべったりつき合っている実証の人は、純粋な理論学の人と比べて、コロッといってしまうことは少ないです。理論系の人は、一気に突っ走って突き抜けちゃうから理論家をやれるところがあるのかもしれませんね。
山形 それは建築家の世界でもある話で、黒川紀章先生は晩年都知事選に出たりして、ちょっとどうかしてしまった感じでしたよね。それがたまたま何を間違えたのか六本木にある国立新美術館を取ってしまったので、「やばい、何ができるか」とみんなヒヤヒヤして見ていたら、意外とまともだったので、晩年を汚さなかった。
飯田 晩年ということでいうと、ケインズは早めに亡くなっていますよね。ケインズが80歳まで生きていたら経済学の歴史がすごく変わっていたか、本当に頭のおかしい人になっていたか、どっちかだと思うんです。若いころから突き抜けている感じがあった人ですもんね。
山形 彼はバレー団に入れ揚げて、そこのバレリーナと結婚しちゃったわけですが、ある人に言わせると、当時のバレー団を追っ掛けるという趣味は超ミーハーで、今でいうとAKBの追っかけになってメンバーの誰かと結婚するようなものだということです。そういう変なことを平気でやっていた。当時イギリスの文化人は多少奇矯なことをやるのがいいことだとされてたということもありますが、変なやつではあったんですよね。
数学をやって官僚になって、その後経済学をやって、経歴的にもいろいろな分野を押さえてるし、あれこれエッセイを残している。そういう意味では非常に総合的な文化人だし、主要ではない変なところに手を出していた人ではありますよね。
飯田 当時のイギリス社会で自覚的な無神論はかなり勇気が要ったことだと思うけど、それも平気ですしね。だから、お年寄りまで生きていたら、かなりめちゃくちゃなことを言って終わったんじゃないかなと。
山形 どうでしょう。最後に老成したかもしれないし、わからないですよね。
ケインズは、どう利用できるか?
山形 そういったことを踏まえたうえで、今、ケインズを読み直したほうがいいのかしら。それともケインズと全然違うところで何かをしたほうがいいのかしら。今回の危機に対してIS-LMもそこそこうまく動いたし、アメリカのやったいろんな資金注入や公共的な支援もだいたいそれで説明がつきそうな感じではある。大学のマクロ経済学の一番最初で学ぶような話ですべてが片付いちゃったんだから、それをもう少し頑張るということでいいのか。ここらへんでケインズの今の意義というのを話さなきゃいけないかなって。飯田 山形さんにこんな話をするのは釈迦に説法ですが、ケインズの意義というと、経済学者以前にケインズの研究者みたいな人が、「ケインズは本当はこう思っていた」論を言い出したりするんですよね。でも、ケインズが"本当に"どう考えていたかはどうでもいい話で、ケインズの理論から現在的な意味で何をカンニングできるかが重要です。カンニングのネタ本のようにケインズを使うのが、ケインズの役立て方だと思うんですよね。
山形 そうですね。やっぱり『一般理論』の小難しくも面白いところは、彼がうねうねしながら議論を進めるところ。その中に、本筋とは外れるけれど注目に値する部分が書かれているんですよね。
飯田 その意味でいうと、ある人が若手の経済学者に向けて「ミルトン・フリードマンの本を全部読め」という話をしていました。ミルトン・フリードマンは数学で経済を語ることが大嫌いな人で、シカゴ大学の大学院で数理経済学部のコースを設置するのに大反対だったそうです。そのせいか彼の書く経済の本は全部言葉とグラフで書いてあるから、何だかわからない部分があるんですよ。そのせいで、フリードマンのアイデアを数式で書いたらそれだけで論文のトップジャーナル行きが決定していたような時代があったと言われます。
すでに言葉で書かれているものを数学モデルにするのは、検証のために計量モデルに乗せられるかどうかが非常に重要な意味をもつからです。DSGEが流行ったのも、計量モデルに乗っかるのがポイントです。かつてのIS-LMもそう。だから、『一般理論』の中から、「これって数式になるんじゃないか」とか、「計量可能なかたちにできるんじゃないか」という部分を見つけるといいかもしれない。
山形 『要約一般理論』の解説にも書いたんですけど、アカロフとシラーというすごく有名な経済学者が最近『アニマルスピリット』という本を書いています。
アニマルスピリットというのは、『一般理論』の中では「事業家って投資を決めるときに予想収益率とかを計算して、『これは利子率より高そうだから投資する』なんてこと実際はしないよね」という話。大半の事業家は何かを見て、「俺はこれをやるぞ!」と思って、とにかく勢いでガーッとやっちゃう。そういった、理屈にならない感情的な部分をアニマルスピリットと呼ぶことにして、それが経済に与える影響を考えなきゃいけないとケインズは言っている。
ところが、アカロフとシラーの本の中では、「人は理屈に合わないことでも、何となく周りの空気に流されてしまう」とか、4~5年いい状況がつづくと、「このままずっとそれがつづくよね」とつい言ってしまう心理のことが「アニマルスピリット」だと言われていて、ケインズが言っているのとかなり違う。
彼らとしては「理屈に合わないものも見ないといけないよな」というところを『一般理論』から読み取ったのだと言いたかったんだろうけど。
飯田 ケインズが書いているのは、シュンペーターのイノベーションの話に近いですよね。ただ、アカロフとシラーの気持ちを想像すると、数理モデルもなければ論理的なモデルもちょっと薄いというときに、論理の代わりにケインズの名前を持ってくるのは仕方がない部分もあったのかも。
今回解説を書くにあたって読み直して思ったのは、ケインズが言っていることは行動経済学に近いということです。ぼくの解説に対してTwitterで、「ケインズのやろうとしていることって動学一般均衡行動経済学だったんじゃないか」と書いている人がいて、まさにそれだと思いました。すごく非合理的というよりも、たとえば、働き手と雇う側、貯金する側とそれを使って投資する側は、それぞれ別の論理で動いているんだということを強調している。ここがIS-LMにはあまり入ってないところで、なおかつ最近の行動経済学がよく研究していそうなところなので、この辺りにヒントがあるのかもしれない。
経済学が袋小路へ進む理由
山形 一方で、クルーグマンは『一般理論』の本質は静的なモデルであって、動学的な部分に注目するのは違うんじゃないかと言っていたりしますね。飯田 たしかにIS-LMは比較静学モデルなんです。ぼくはいまだにIS-LMをどう評価していいのかわからないんですが、こういう思い出話があるんです。
ぼくの事実上の師匠である岡田靖さんがよく言っていたのは、「IS-LMは(「攻殻機動隊」に出てくる)村井ワクチンのようなものだ」ということでした。村井ワクチンは、もともとは丸山ワクチンをモデルにしたと言われている、「何だかわからないけど効く薬」です。IS-LMはそれに近くて、最終的に論理の部分で、どうして成り立っているのか微妙にわからないんですね。だけどIS-LMを使うと非常にクリアな説明を与えてくれたりする。それがIS-LMの怪しい魅力であり、使っていて怖くなっちゃうところでもあるんですよ。
山形 先ほどからぼくはDSGEについて話したりしていますが、実際は実務エコノミストなので、DSGEを使う場なんてほとんどないんです。途上国に行って「この橋を造りますか」とか、「あんたらの財政施策はどうしなきゃいけないですか」という話をするときは、だいたいIS-LMで用が足りるし、IS-LMでもちょっと難しいので、それをどう簡単に説明するのかが問題だったりするんですね。だからぼくはIS-LMについては、「あんなに使い勝手がいいものはないのに、何で学者さんたちはみんな悪口を言うんだろうな。もっと認めてほしいな」と思うんですよね。
飯田 ひとつは学者の性なんですが、教科書に載っていることを100本論文に書いてもまったく昇進や就職に結びつかないんですよ。だから新しいことを何か書かないといけない。新しいものを書きやすいのはフロンティア分野なので、どんどんマニアックな方向にいってしまうのはそのせいです。
もうひとつ、日本人の経済学者が論文を書く場合、英語の壁があることが多い。英語が下手なので、数学的に細かいところ、統計的に細かいところを打たないと、なかなかジャーナルに載らない。だから、どんどん細かく、マニアックなことをやる。
そして気がついたら実務エコノミストと学者がまるでコミュニケーションできない状態までいってしまっていた。そういうことがあるんです。
山形 その難しさは物理学も同じで、物理学ではガリレオの理論があって、ニュートンが一般化して、それをさらにアインシュタインが出てきて、だんだん広げてできたものです。でも現実の社会では、物理学が必要とされる大概の部分、たとえば建物を建てたり、ミサイルを撃つくらいはニュートン力学でこと足ります。ニュートン力学から外れる部分が問題になってくるのは、素粒子を加速器でぶつけるといったような特殊な状況に限られている。
経済学もそうで、最初にアダム・スミスが「見えざる手」と言ったところで世の中の8割くらいはカタがついちゃった。それ以降の経済学は、それに当てはまらない部分、どんどん特殊なところに注目していかざるを得なかったんです。
とことが、人々が経済学者のほうをたまに振り返るのは、何かすごく変なことが起きちゃって、「どうしたんでしょうか?」と聞きたいときです。そうすると、「見えざる手だ」と言うだけじゃ話にならない。そうでない場合の話をみんな求めているわけですから。
理論と現実のバランス
飯田 ぼくの友達の統計学者の矢野浩一氏は、自分のブログに「ハリ・セルダンになりたくて」というタイトルをつけてるんですが、これはアシモフの小説、ファウンデーションシリーズに出てくる天才歴史心理学者の名前です。山形 「サイコヒステリック」ね。
飯田 天才なのか気違いなのかわからない歴史心理学者です。それにあこがれている。経済学者には、「将来を見通したい」という思いで経済学者になった人と、文系学問の中では一番緻密だという意味での「知的パズルが好き」だからなっている人がいるんです。知的パズルもときにすごく面白いし重要なこともあると思うけど、知的パズル組の人は必ずしも現実経済に興味がなかったりする。極端に言うとリーマンショックですら興味がなかったりするんですよね。
山形 経済をやるからにはどこかで理論と現実との対応を見なきゃいけないから、まったく現実を見ないことにはできないと思うんですが。
飯田 それが不思議で、たとえば、ある優秀な理論経済学者の方はかつて、「マネーが物価を動かさない」というモデルをつくったんですね。「なぜならば、日本はまだデフレにならないじゃないか」と。「もう2年以上にわたって物価が低下しています」と言ったら、「それは違うんだ。物価指数は低下しているけど、物価は低下していない」と。純粋な理論の人は、理論に合わない現実のほうをシャットダウンする人もいます。そういう人のほうが格の高いジャーナルに載っていたりすると、なかなか話がややこしくなります。
山形 なるほど、なるほど。美しい理論がある場合と、現実はぐちゃぐちゃしていてなかなか説明つかないよという場合と、どっちが世間的に感心されるかというと、やっぱり美しい理論のほうだ、という話かもしれませんね。
飯田 あともうひとつ。純粋理論だけやっていた人の中には、日銀や財務省の役人に「現実はそんなもんじゃないよ。ずるずるべったりですよ」と言われて、とつぜん「なるほど」と全面的に納得しちゃう人も結構いるんです(笑)。全然知らない世界の話だから何かすごいことを言われているように感じてしまう。「実務家が全部正しくて、経済学は全部間違えているんだ」というところまで、いきなり変わっちゃう人さえいます。たしかに官僚は「これは何とか法で、これは何年に何とか内閣で法律を通して」ということには詳しくて、「うわ、すごい頭いい」と思うけど、よく考えると大した話じゃないことが多い。でも、それにやられてしまう経済学者がいるんです。
山形 「緻密な理論と雑な現実」ということでいうと、『ルワンダ中央銀行総裁日記』という本があります。この本は、日銀の人がルワンダの中央銀行の総裁になり、非常に基本的な理論を使いつつも、現実には合わないことは裁量で調整するという美しいことをやって見事に成功したというものです。自分で書いているから、どこまで手前みそなのかというのはどこかで検証しなきゃ思っているんですが、そんなに外れたことは書いていません。学者としての成功と、現場として何を使うべきかのバランスは、その場にいないとわかりにくいところがあるので、非常に難しいところではありますよね。
飯田 このあたりは海外のほうが、まだ上手くいっているイメージですね。向こうでは、エコノミストという肩書きの人の数が日本の100倍以上いる。そうすると、ちょうどいいバランスの人から、ものすごく変な人まで、いろんな人がいる。
山形 そうですね。まともな経済学者がちゃんとブログとかで発言してくれるし、分析も提示してくれるし、経済学者同士の議論がわれわれの読めるところで展開される。とくにアメリカを中心としたそういった状況は、幸せだし、うらやましいですよね。日本では本当に偉い人やもう少しきちんと発言してほしい人はあまり発言しないで、ちょっとおかしいんじゃないか、ゆがんでいるんじゃないかと思う人がかなり大きな声で発言していたりする。誰かもう少しこの人たちを押さえてもらえないものかと思いつつ、たまにぼくが出てケンカとかしていますけれども、もう少し援軍が欲しいなという気はします。
飯田 そういう不思議な自信家って、日本ではどうしても目立ってしまうんですね。たとえば最近でも、3.11が起きて3日後に原子力の専門家になっている人みたいな(笑)。Twitterでも、「10年間原子力のことを考えていました」というノリの人が急に増えたのは不思議です。
ただ、ちょっと話を戻すと、データにべったりつき合っている実証の人は、純粋な理論学の人と比べて、コロッといってしまうことは少ないです。理論系の人は、一気に突っ走って突き抜けちゃうから理論家をやれるところがあるのかもしれませんね。
山形 それは建築家の世界でもある話で、黒川紀章先生は晩年都知事選に出たりして、ちょっとどうかしてしまった感じでしたよね。それがたまたま何を間違えたのか六本木にある国立新美術館を取ってしまったので、「やばい、何ができるか」とみんなヒヤヒヤして見ていたら、意外とまともだったので、晩年を汚さなかった。
飯田 晩年ということでいうと、ケインズは早めに亡くなっていますよね。ケインズが80歳まで生きていたら経済学の歴史がすごく変わっていたか、本当に頭のおかしい人になっていたか、どっちかだと思うんです。若いころから突き抜けている感じがあった人ですもんね。
山形 彼はバレー団に入れ揚げて、そこのバレリーナと結婚しちゃったわけですが、ある人に言わせると、当時のバレー団を追っ掛けるという趣味は超ミーハーで、今でいうとAKBの追っかけになってメンバーの誰かと結婚するようなものだということです。そういう変なことを平気でやっていた。当時イギリスの文化人は多少奇矯なことをやるのがいいことだとされてたということもありますが、変なやつではあったんですよね。
数学をやって官僚になって、その後経済学をやって、経歴的にもいろいろな分野を押さえてるし、あれこれエッセイを残している。そういう意味では非常に総合的な文化人だし、主要ではない変なところに手を出していた人ではありますよね。
飯田 当時のイギリス社会で自覚的な無神論はかなり勇気が要ったことだと思うけど、それも平気ですしね。だから、お年寄りまで生きていたら、かなりめちゃくちゃなことを言って終わったんじゃないかなと。
山形 どうでしょう。最後に老成したかもしれないし、わからないですよね。



