3年以上も身柄を拘束され、いつ殺されるかもわからない状況の中で、よくぞ無事に帰られました。安田さんが再び戦場に赴くのかどうかは、これから考えることなのでしょうが、こうした官製でないジャーナリストが直接、現場の状況を伝えてくれるからこそ、わかってくるものがあります。私たちは、その価値を再認識する必要があります。
その昔、ベトナム戦争の頃は、米国でも報道は自由に行われていました。戦地での状況が直接、米国民も知るところとなっていました。そのため反戦活動が大きなうねりとなり、米国政府を追い詰め、ベトナムからの撤退の要因の1つともなりました。
米国の中でも反戦活動が大きくなったというのは非常に特筆すべきことでした。
それがイラク戦争になると完全な報道管制を行い、米軍情報の垂れ流しとなりました。戦場での実態が知られることによってベトナム戦争のときのような反戦運動が起きることを懸念したためです。米軍は、イラクでもかなりひどいこと、非人道的なことをやっていました。そんなことがそのまま報道されてしまっては米国国内の反戦運動が大きくなるのは目に見えていました。いくらイラク・フセイン大統領(当時)を悪者に仕立て上げようとしても、戦争の実態を知られてしまえば誰もがこのままでいいなんて思いません。反戦運動が大きくなっていくことは必然なのです。
それ故に戦争をする国家は情報を統制するのです。戦前の日本も同様であり、大本営発表しか報道できなかったことを思い起こせばすぐにわかることです。
平和は黙っていてやってくることはない

いらすとや
だからこそ官製報道ではなく、直接、真実(実態)を伝えてくれるジャーナリストの勇気ある行動が必要なのです。
私にはとてもまねはできません。多くの人たちにできないことを自ら率先して行動を起こすことは勇気がいるだけでなく、実際にも生命を落としかねない危険があり、実際に命を落としたジャーナリストも大勢いることを考えれば勇気というだけでは言い表せないものがあります。
にもかかわらず、未だに日本は「自己責任」論が幅を利かせています。日本国家に迷惑を掛けたかのごとく誹謗する論調は、全体主義的な発想でしかなく、官製報道だけを賞賛するようなものです。
「日本人拘束、繰り返される「自己責任論」背景に何が」(朝日新聞2018年10月25日)
「解放の可能性が伝えられた23日夜から、ツイッターの安田さんのアカウントには、「どれだけ国に迷惑をかけたのか」「何があっても自己責任の覚悟で行ってくれ」と突き放す書き込みが寄せられた。紛争地での取材にこだわってきた安田さんを「エセ戦場ジャーナリスト」と揶揄(やゆ)するものも。」安田さんに謝罪を要求するものまであります。
「高須克弥院長が帰国する安田純平さんに「まず謝りなさい」!!再び問う。日本社会はこの人に「自己責任」を求めるのか!」(Everyone says I love you !)
謝罪なんてする必要は全くありません。むしろ私たちが感謝することこそ求められています。こうしてもたらされる情報こそが私たち民主主義社会を成り立たせている基礎になるものだからです。