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宗教/スピリチュアルで語る平成30年

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■ 尽きない平成に関する視点/論点

これまで2度にわたって、平成の総括について書いて来たわけだが、続々と出て来る、平成に関する書籍や記事を拝読していると、まだ自分が気づいていない、あるいは気づいていても必ずしも十分にカバーしきれていない重要な論点や視点がたくさんあることを痛感する。当面、そのようなものを見つけるごとに、備忘録の意味でもその論点にコメントを付記してブログにも書き残しておきつつ、ある程度溜まって来た時点で、あらためて『平成総括』を書いておきたいと思う。

今回特にそのように考えるきっかけを与えてくれたのは、少し前のことになるが、2017年8月に東京工業大学で行われた公開シンポジウムをベースにまとめられた『平成論「生きづらさ」の30年を考える』*1だ。シンポジウムのテーマは宗教/スピリチュアリティであり、いずれも同大学のリベラルアーツ研究教育院に所属する、池上彰、弓山竜也、上田紀行、中島岳志の各氏が『世界の動きのなかの日本』『宗教教団の活動と個人のスピリチュアリティへの関心』『伝統仏教のなかのあらたな動き』『ナショナリズムと宗教』というように、異なる視点から平成に起きた当該のテーマについて語っている。

一般的にはこのテーマにはあまり馴染みがない人の方が多いと思われるが、日本社会の構造、そして、平成という時代を理解するにあたっては誰もが避けて通れない重要なテーマだ。特定の個人や宗教団体だけの問題ではない。本書は、各氏の問題意識がコンパクトに提示されており、初学者にも取りつきやすいと思う。ご一読をおすすめしておく。

■注目した3つの論点

ただ、私自身は、本書を自分の『平成の総括』のためのマテリアルとして読んだため、各氏のご意見の紹介ではなく、これまで私が気づかなかった視点、あまり取り上げて来なかった論点、あるいは、取り上げてきたが、あまり深掘りできなかった論点等について注目し、その点に絞って述べてみたい。今回は次の3点に注目し、ストーリーとしてつなげてみた。

1. 日本人の本心の清浄性の確信が揺らいでいること

2. ネオ・ナショナリズムの台頭とスピリチュアリティの融合

3. 活発に活動を開始し始めた宗教者個人

1. 日本人の本心の清浄性の確信が揺らいでいること

上田紀行氏は、2011年3月に行われた『高校生の体と健康に関する意識調査』の調査結果(韓国、中国、アメリカ、日本の各国で実施)に基づき、海外の高校生と比較して、日本の高校生の自己肯定感が著しく低くなっていることを紹介している。これと同種の調査データについては私も過去ブログで取り上げて語ったことがあり、この現象については熟知とは言わないまでも、承知しているつもりではいる。

平成の間に、大きな物語は消失(日本の復興、共産革命等)し、一方宗教団体に対する嫌悪感/忌避感は強くなって、夢や希望も持てなくなり信仰にも頼れなくなった。しかも戦後地域共同体の代わりに機能していた会社共同体も崩壊し始め、日本人は不安で弱い存在になってしまった。

調査によれば、平成を生きる高校生にまでこのトレンドが及んでいるように見える。他国と比較して日本の高校生は、極端なほど自信を喪失してしまっているようだ。紹介されている質疑の数値を見ればそれが一目瞭然だ。

質問:私は先生に優秀だと認められている

回答:全くそうだ/まあそうだ

韓国 40%

中国 55%

米国 91%

日本 33%



質問:自分が優秀だと思う

回答:全くそうだ/まあそうだ

韓国 44%

中国 67%

米国 88%

日本 15%



質問:私は価値のある人間だと思う

回答:全くそうだ/まあそうだ

韓国 75%

中国 88%

米国 89%

日本 36%

過去の歴史に照らしても、このようなマインドが広がる行く末には、社会が扇動にさらされやすくなり、人々は挑戦を恐れて過度に保守的になる等の恐れがあることは、私も何度か述べておいた。ただ、上田氏の見解が正しければ、事態は私の認識よりずっと厳しいということになりそうだ。

上田氏は、1990年代から2000年代のどこかで、『本当の自分の転換』が起こったと述べる。旧来の、『本当の自分は美しいが世俗にまみれてしまった』というものから、『本当の自分自体が汚れていて、それを出すと人との軋轢を産んだり、人に暴力を振るったりするかもしれないから、本音は語れない』というものになったと言うのだ。上田氏の言う『転換』は、私には、にわかには信じられない気もするのだが、これが本当なら大変深刻な事態だ。

本当の自分が美しいという確信があれば、表面の汚れを一念発起して取り除くなり、社会改革に本気で取り組むなり、比較的速やかに、ポジティブな意識や行動を呼び起こすことが可能と考えられる。自分の所属する組織が不正に手を染めたりしている場合、思い切って告発したり組織を飛び出すことは、通常社会的な立場を厳しくするリスクがあるから、特に日本の企業社会ではハードルが高いが、それでも、本当の自分の美しさを信じることができれば、それに耐える力が湧いてくるはずだ。あるいは、そのような行動に踏み切ることで自尊心は高まるかもしれない。そして、そのような自分に共感する人を見つけることができれば、真の連帯感を持てる仲間になれるはずだ。ハードルを乗り越える強い個人が増えれば、社会が今より健全になることも期待できる。

だが、本当の自分が汚れていると考えているとすると、他人も誰も信じられないだろうし、『合意』や『決定』はその場での多数意見、日本の場合『空気』しかないことになってしまう。考えて見れば、日本社会はずっと以前から『空気』の支配下にあり、『日本社会における決定』は正義でも経典でも法律でもなく、その場の『空気』が決めてきたわけだが(この点については、評論家の山本七平氏の『空気の研究』等をご参照いただきたい)、ますます頼るべき何者か(社会正義、物語、自らが所属する共同体の規範等)がなくなり、本当の自分さえ信じられないとなると、まさに『空気』しか頼るものがなくなってしまう。だが、これでは社会の不正は正されず、日本の組織は相変わらず合理的な決定ができず、日本企業もますます沈んで行くしかなくなる

近代的自我を確立することが近代市民社会(特権や身分的支配・隷属関係を廃し、自由・平等な個人によって構成される近代社会)の前提であり、長い間日本の課題とされながら、まったく実現できていないことはしばし指摘されてきた。確かに『空気』の支配を諾々と受け入れているようでは、近代的自我の確立など程遠い。だが、それ以前に、社会から不正や不合理の支配を排除し、日本人がのびのびと新しいことにチャレンジしてくためにも、本当の自分に対する自信や確信を持つことは不可欠だ。

上田氏の言う転換前の『本当の自分は美しいが世俗にまみれてしまった』というのは、言うまでもなく神道の思想に連なるものであり、日本人の古来の心のあり方(信仰心)でもある。これは原罪意識を抱えるキリスト教文化圏とは対象的だ。実際、歴史的に見た日本人の楽観性、あるいは、日本が性悪説より性善説が馴染む土壌であることは多くの研究者が述べているところでもあり、私もそう思う。これを日本人に恵まれた『資産』の一つと受け止めて、誰もが参照できるように『空気』にあらがう『本当の自分』を定義していくことが必要になってきているように思える。

2. ネオ・ナショナリズムの台頭とスピリチュアリティの融合

中島岳志氏の言説は、これまでかなりの量の著書や記事等を拝読していることもあり、今回新たな発見があったというわけではないが、平成という時代を語るにあたっては、中島氏が指摘する問題に言及しないわけにはいかないことを再認識した。

上記に述べたような、日本人の強い不安感と自己肯定感の弱体化について、中島氏は、特に新自由主義化と自己責任化による、自己責任化された個人のアイデンティティの揺らぎ、および生涯雇用も家族の福利厚生も全部丸抱えしてくれていた会社共同体の解体について特に強調しているが、いずれにしても、この頃から、ネット右翼の台頭や、『右傾化』現象が激しくなってきたと述べる。昨今の社会学者の調査の結果を見ても、90年代後半に若者だった人たちで、比較的高学歴・高収入の人たちがこの担い手であることが見えて来ているとも言う。(オウム真理教に集まったのも高学歴なエリートが多かったこととも呼応する。)

オウム真理教も、物語が消失したこの時代に、荒唐無稽とはいえ壮大な物語を提供し、多くのエリートを引きつけたが、この頃『右傾化』をリードして物語を提供しようとしていたのは、『先の戦争は悪くなかった、アジア解放のための戦いであった』と述べた、小林よりのり氏の『戦争論』*2だったことを中島氏は指摘する。私自身も本書は読んだし、当時、左翼的な言説が過剰に強く、一方で、それにほころびが目立ち始めていたことも知っているから、小林氏だけではなく、当時の右翼論客が説く『理』に一定の説得力があったことは十分に承知している。

だが、困ったことに、右翼の主張が強くなっても、日本社会の議論のバランスが取れていったわけではなく、その後は、小林氏のような右翼イデオローグでさえ辟易するような劣化した『右翼』(ネトウヨ等)が大量に現れ、しかも、右と左が健全な議論をかわすのではなく、それぞれの蛸壺で自らの意見を先鋭化していったため、日本社会はすっかり『分断』されてしまった

ここまでは誰もが異口同音に指摘しているところだが、中島氏がもう一歩踏み込んでいるのは、彼が『スピリチュアル右派』と呼ぶスピリチュアリティとナショナリズムの融合だ。『スピリチュアル右派』(およびそれに近い思想を持つ人)は、土着世界への回帰を志向し、民衆の生活世界のなかに、近代都市文明を凌駕する価値観の存在を探り、これが日本のアイヌの生活世界や縄文時代等へのプリミティブな平等性への共感を生みだしていったと語る

60年代に近代を超えたオルタナティブな精神世界を求めた潮流は、古代の原始共産制を礼賛し、天皇制以前の日本の本源へと接近しようとするムーヴメントとなり、80年代のオカルトや偽史、陰謀論等と融合して、スピリチュアルなナショナリズムを生み出したとする。そして、それは、中島氏が別の場でも述べている、戦前、テロや狂信的な行動を扇動した、超国家主義の論理に酷似してきているという。

本書でも紹介されている通り、首相夫人の安倍昭恵氏がこのスピリチュアルなナショナリズムの信奉者であることは関連する発言を一読すればすぐにわかる。彼女にはほとんど悪気も邪心もないことは明らかだが、インタビュー記事等を読んでも、普通の理性的な議論がまったく通じなくなっている様子には、非常な危うさを感じざるをえない。一女性の立場では無害でも、影響力の大きな彼女の立場を利用しようとして集まってくる有象無象の求心力になりかねないし、実際そうなっている。

この思想の中にある要素の一つ一つは、近代西洋文明のアンチテーゼとして参照しうるものも少なくないし、中には思想的にも非常に洗練されたものもある。だが、他の新興宗教でもそうだが、理性的な議論を真摯に求める人と議論がかみ合わなくなるのは、たいていの場合、『自分を絶えず見つめ、改めるべきところは改め、常に向上を求める姿勢』を喪失したことを意味している。それが、絶対の帰依を求める教団の教祖の要請であれ、自らが理解できる信仰の整合性を守ろうとしている潜在意識の抵抗であれ、そのような状態に陥っている人は、必ずと言っていいほど、どこかで方向感覚がおかしくなり、現実に対応できなくなり、果ては邪悪なものまで丸呑みして正邪の区別がつかなくなってしまう。最近では、宗教団体に乗り込んで、論争を挑んでいる様子をYoutube等で公開するような人も出て来ているから探して見てみるとよい。私が何を言いたいのか、ご理解いただけるはずだ。

だから、危ないのは、中島氏が指摘する『スピリチュアル右派』だけではないが、『スピリチュアル右派』についていえば特に、イスラム原理主義、オウム真理教、あるいは戦前の超国家主義等、と同様、いずれも呪術的な、あるいは悪魔的な要素が混ざり込みやすいとは言えそうだ。宗教に関する正しい議論ができなくなっている今の日本では、このようなものに尾ひれがついて、一層奇怪なものになっている例が非常に多い。そうしているうちに、暴力革命だの、集団自殺だの、暗殺だの、邪悪な要素を腹一杯取り込んでしまう。その結果、もっと真剣に自己と対峙することをすすめるレベルの高い宗教家まで一緒くたに世間から批判され、ただでさえ正しい議論ができない日本の宗教に関わる環境を一層厳しくしている。だから普通の人は宗教的なものに近寄らないし、一方、腰が引けながらでも受け入れた人の多くが、魔境に引き摺り込まれてしまう。

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