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- 2012年03月06日 07:55
特集・震災から1年 マスコミ学会で東大総長に会場から激しいヤジ 震災・原発報道で見えたマスコミの限界とは?
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3日、東京大学福武ホールにて、日本マス・コミュニケーション学会60周年記念シンポジウム『震災・原発報道検証―「3.11」と戦後日本社会』が開催された。
パネル・ディスカッションでは、アカデミズムの立場から震災・原発報道を検証している研究者だけでなく、現地取材も行ったニューヨーク・タイムズ東京支局長のマーティン・ファクラー氏、日本テレビ報道局で災害報道の陣頭指揮に当たった谷原和憲氏ら、マスメディアの最前線にいる関係者からの発表も行われ、マスメディアはその役割を果たしたのか、震災・原発報道の困難さや今後の課題が示された。また、質疑応答では、学会会長である浜田純一・東大総長の責任を問う質疑など、想定外の展開が繰り広げられた。(取材:BLOGOS編集部 大谷広太)

■全国紙の報道は横並びになっていった
私は海外メディアの記者として、日本という"外国"で起こった震災を報道したことになります。東北へ行って、茨城の大洗のあたりから岩手県の宮古の方まで、二ヶ月ほど取材を続けました。11月には福島第一原発の中にも入って取材しました。
発生後最初の数時間は自宅でテレビを見ながら記事を書いていましたが、日本メディアの津波や地震に関する初期の報道は評価できると思います。NHKを はじめとして、良い情報をいち早く提供していたし、各地の情報や津波予測など、あれだけの細かい報道はアメリカでもできるかどうかはわからないと思いましたし、海外のメディアはモデルにしてもいいくらいだと思います。
私はインドネシア大地震の際も現地へ取材に行きましたが、やはり日本は先進国ですから、マスメディアの分野も先進的ではあると思います。ところが現地では、場合によっては記者たちがスクラム状態になったり被災者から批判的な声が上がったり、暫定的な記者クラブのようなものを作ったことで、次第にどこの新聞も記事の内容が同じようなものになっていった。これらの報道は下手をすると、悪い影響を及ぼしたと言えなくもないと思います。主体性を持ち、誰もいない場所に行って、誰もしていないような取材をすることに関しては、大手のマスメディアよりも、フリーランスのジャーナリストのほうが頑張っていた印象がありますね。
それから震災報道では、今までの日本ではあまり感じられなかった、地方紙の活躍を感じることができました。地方紙は中央、政府に対して距離感を持っていて、全国紙が伝えないこと、全国紙とは違うことを報道しているということに気が付きました。中央マスコミに対する不信感が強まると、地方紙の役割の重要性も高まると思います。
私は震災が起こるまでは朝日、読売、産経、毎日、日経と全ての全国紙を読んでいたんですが、会場に日経の記者さんがいたら申し訳ないのですが(笑)、5月に東京に戻って、日経を購読するのをやめて、東京新聞にしてしまいました。普天間問題を通して、琉球新報を見直すきっかけにもなりましたが、震災に関しても、被災地の新聞や、東京で言えば東京新聞の方が、批評的でためになる印象があったと思います。
■国家的危機のときこそ権力監視を
ジャーナリズムの使命は「権力監視」だと思いますが、3.11後、日本政府と日本のマスメディアの関わりについて、自分の印象としては9.11後のアメリカ政府とアメリカのマスメディアの関係に似ているなと思いました。
アメリカのマスメディアの9.11後の報道は結論で言えば失敗だったと思います。国家的危機なのだから、政府の情報はすぐそのまま伝えないと行けないとか、"みんなで一緒に頑張ろう"という愛国主義的な考え方が支配していく中、「権力監視」という役割を果たしたか言えば、果たせなかったと言えると思います。大統領を支えなければ、という思いの中、結果、私たちニューヨーク・タイムズを含め、アメリカのマスメディアはイラク戦争という間違った戦争を止めることができませんでしたし。止めようともしなかったのではないでしょうか。
日本でも震災後、マスメディアが果たすべき「権力監視」、言い方を変えれば政府当局との距離を保つのが難しくなっていったと思います。原発報道でも、初期の段階で、専門家から聞いている話や現場で聞いている話と、中央のマスメディアの報じていることには開きがあったように思います。「メルトダウン」という言葉も、専門家は早くから使っていたと思うけれども、日本のマスメディアが最初に報じたのは5月の中旬ですよね。ニューヨーク・タイムズでは3月13日に最初に「メルトダウン」という言葉を使ったのですが、すぐに日本のマスメディアに批判されました。「過剰だ」とか「大げさだ」とか、そういう雰囲気でしたよね。
国家的な危機に対して皆で頑張ろうというのは悪いことではありませんし、"距離を保つ"ということは実際には大変難しいことなのですが、そういうときこそ、行政は正しいことをやっているのか、というチェック機能を果たさなければならないと思います。
パネル・ディスカッションでは、アカデミズムの立場から震災・原発報道を検証している研究者だけでなく、現地取材も行ったニューヨーク・タイムズ東京支局長のマーティン・ファクラー氏、日本テレビ報道局で災害報道の陣頭指揮に当たった谷原和憲氏ら、マスメディアの最前線にいる関係者からの発表も行われ、マスメディアはその役割を果たしたのか、震災・原発報道の困難さや今後の課題が示された。また、質疑応答では、学会会長である浜田純一・東大総長の責任を問う質疑など、想定外の展開が繰り広げられた。(取材:BLOGOS編集部 大谷広太)
マーティン・ファクラー氏(ニューヨーク・タイムズ東京支局長)

ニューヨーク・タイムズ東京支局長のマーティン・ファクラー氏。(撮影:大谷広太) 写真一覧
■全国紙の報道は横並びになっていった
私は海外メディアの記者として、日本という"外国"で起こった震災を報道したことになります。東北へ行って、茨城の大洗のあたりから岩手県の宮古の方まで、二ヶ月ほど取材を続けました。11月には福島第一原発の中にも入って取材しました。
発生後最初の数時間は自宅でテレビを見ながら記事を書いていましたが、日本メディアの津波や地震に関する初期の報道は評価できると思います。NHKを はじめとして、良い情報をいち早く提供していたし、各地の情報や津波予測など、あれだけの細かい報道はアメリカでもできるかどうかはわからないと思いましたし、海外のメディアはモデルにしてもいいくらいだと思います。
私はインドネシア大地震の際も現地へ取材に行きましたが、やはり日本は先進国ですから、マスメディアの分野も先進的ではあると思います。ところが現地では、場合によっては記者たちがスクラム状態になったり被災者から批判的な声が上がったり、暫定的な記者クラブのようなものを作ったことで、次第にどこの新聞も記事の内容が同じようなものになっていった。これらの報道は下手をすると、悪い影響を及ぼしたと言えなくもないと思います。主体性を持ち、誰もいない場所に行って、誰もしていないような取材をすることに関しては、大手のマスメディアよりも、フリーランスのジャーナリストのほうが頑張っていた印象がありますね。
それから震災報道では、今までの日本ではあまり感じられなかった、地方紙の活躍を感じることができました。地方紙は中央、政府に対して距離感を持っていて、全国紙が伝えないこと、全国紙とは違うことを報道しているということに気が付きました。中央マスコミに対する不信感が強まると、地方紙の役割の重要性も高まると思います。
私は震災が起こるまでは朝日、読売、産経、毎日、日経と全ての全国紙を読んでいたんですが、会場に日経の記者さんがいたら申し訳ないのですが(笑)、5月に東京に戻って、日経を購読するのをやめて、東京新聞にしてしまいました。普天間問題を通して、琉球新報を見直すきっかけにもなりましたが、震災に関しても、被災地の新聞や、東京で言えば東京新聞の方が、批評的でためになる印象があったと思います。
■国家的危機のときこそ権力監視を
ジャーナリズムの使命は「権力監視」だと思いますが、3.11後、日本政府と日本のマスメディアの関わりについて、自分の印象としては9.11後のアメリカ政府とアメリカのマスメディアの関係に似ているなと思いました。
アメリカのマスメディアの9.11後の報道は結論で言えば失敗だったと思います。国家的危機なのだから、政府の情報はすぐそのまま伝えないと行けないとか、"みんなで一緒に頑張ろう"という愛国主義的な考え方が支配していく中、「権力監視」という役割を果たしたか言えば、果たせなかったと言えると思います。大統領を支えなければ、という思いの中、結果、私たちニューヨーク・タイムズを含め、アメリカのマスメディアはイラク戦争という間違った戦争を止めることができませんでしたし。止めようともしなかったのではないでしょうか。
日本でも震災後、マスメディアが果たすべき「権力監視」、言い方を変えれば政府当局との距離を保つのが難しくなっていったと思います。原発報道でも、初期の段階で、専門家から聞いている話や現場で聞いている話と、中央のマスメディアの報じていることには開きがあったように思います。「メルトダウン」という言葉も、専門家は早くから使っていたと思うけれども、日本のマスメディアが最初に報じたのは5月の中旬ですよね。ニューヨーク・タイムズでは3月13日に最初に「メルトダウン」という言葉を使ったのですが、すぐに日本のマスメディアに批判されました。「過剰だ」とか「大げさだ」とか、そういう雰囲気でしたよね。
国家的な危機に対して皆で頑張ろうというのは悪いことではありませんし、"距離を保つ"ということは実際には大変難しいことなのですが、そういうときこそ、行政は正しいことをやっているのか、というチェック機能を果たさなければならないと思います。