3.宗教や哲学を忌避しすぎて空洞化してしまった思想
実のところ、1. 2. と比べて、この点はほとんど注目されていないし、一部識者を除けば、重要視もされていない。だが、私に言わせれば、この点での劣化こそ、実は最も深刻な問題で、私は、来るべき未来に日本が本格的な復活を遂げることがあるとすると、思想の重要性が再認識されて、日本の思想に骨格ができて血が通った時だと確信している。
『大きな物語の終焉』というのは、フランスの哲学者のリオタールが1979年に著書『ポストモダンの条件』において提唱した言葉であり、科学が自らの依拠する規則を正当化する際に用いる『物語』のことを意味したが、これは後に、もう少し語義を広げて使用されるようになった。
やや俗化された解釈と言う気もするが、はてなキーワードにある定義がわかりやすいと思う。
マスターナラティブ。神、ユートピア、イデオロギー等、皆がそれに巻き込まれており、その価値観を共有していると信じるに足る筋書きを提供してくれるもの。
これにより個人や全体の行動・思考を方向付けられ、人はこのもとで、無意識のうちに自分の行動を正当化している。
ポストモダン論によって使用された言葉。大きな物語の崩壊によりポストモダンと呼ばれる社会構造が生まれたとされる。
大きな物語とは-はてなキーワード
特に平成が始まった1989年以降、社会主義イデオロギーの失敗/幻滅が日本でも強く意識されるようになる。バブル崩壊もあり、資本主義も社会主義も、日本で言えば、日本的経営も信じるに値しないと考えられるようになっていった。
物語を信じて学歴社会を生き残って来た一部のエリートは挫折に身悶えして、オウム真理教のように、架空ではあれ、大きな物語を与えてくれる団体に活動の場を見つけるようなことも起きた。
これはオウム真理教について扱ったときにも書いたことだが*2、資本主義のオルタナティブ(代替物)としての、『ニューサイエンス』『ニューエイジ』そして、まさにリオタールが言及した『ポストモダン』を主として標榜する『ニューアカデミズム』等非常に盛んだったのが80年代だった。
日本では学生運動が廃れて、いわゆる大きな物語としての地位を失い、これらが方向を見失ったいわゆる『意識高い系』の学生の受け皿の一つになろうとしていた。オウム真理教はその一部がグロテスクに突出した形で現れ出た存在とも言える。
ところが、あまりに衝撃的かつ醜悪だったこの団体に対する嫌悪感は非常に強く日本人の意識を根底から揺さぶり、宗教全般への忌避感はもちろん、このころまでに盛り上がっていたスピリチュアルな関心も、スピリチュアルな気配が感じられるニューサイエンスやニューエイジまでひっくるめて忌避され、排除されていった。
加えて、オウム事件とほぼ同時期に、世界の思想界を揺るがすソーカル事件が起きる。
1996年4月に、ニューヨーク大学の教授であった物理学者のアラン・ソーカルが、「境界を侵犯すること―量子重力の変形解釈学に向けて」という論文を作成し、それを「カルチュラルスタディーズ」の論集として知られる『ソーシャル・テクスト』誌に投稿したところ、その論文が同誌に掲載された。
内容は、フランスの現代思想関連の学者の文章を引用しつつ、そこに自然科学の用語を用いて論述したものであり、そのデタラメの内容も、自然科学系の高等教育を十分に受けた者なら指摘できるようなお粗末なものであった。
この事件の発覚により、当時のフランス現代思想に対して批判が浴びせられることとなった。
しかし、ソーカル自身は、現代思想の批判自体が目的なのではなく、批判の対象は、浅薄な知識と理解に基づいて専門用語を用いて権威づける行為であり、ポストモダンのみならず、その他の分野においても批判している。
ソーカル自身も述べているように、これはフランス現代思想自体の批判ではないとはいえ、少なくとも日本では、ポストモダン等の思想が空っぽで、こうした分野を研究している教授や学生も内容もわかりもせずに知的遊戯をやっているだけ、という批判を誘発したことは確かで、日本ではポストモダン等の思想系に限らず人文系のアカデミズム全体の衰退の契機となったことは否めない。
19世紀末から20世紀初頭にかけて、米国の哲学者リチャード・ローティーの言う『言語論的転回』という哲学上の大転換が起きた。ソシュールやヤコブソンの言語学、それに影響を受けた構造主義、それ以降のポスト構造主義、さらにはハーバーマスが提唱する『コミュニケーション理論』に至るまで、非常に大きな流れとなり、ポストモダンの思想もその潮流を引き継いでいる。
ポストモダンを標榜する思想家が特に強調したのは、『言語構築主義』と『相対主義』だが、これは思想や哲学の枠を超えて、文化全般にまで浸透することになり、道徳的な善悪や法的な正義についても、普遍的な真理はなく、多様な意見があるにすぎないとする考えが、いわば現代人の常識となり、日本でも、特に『ニューアカデミズム』以降、広く浸透した。
その思想の多くは、生きる糧として人を鼓舞する思想ではなく、普通の人にはただの高尚な遊戯にしか見えず、遠からず流行は去るであろうことを予測する人も少なくなかった。そういう意味では、ソーカル事件は単なるきっかけにすぎなかったというべきかもしれない。
このような動向を総合した結果、日本では思想すること、宗教や道徳、倫理について議論することが、それ以前と比較しても、本当に少なくなってしまった。同時並行で、コミュニティの崩壊も進んだこともあって、人々の行動の動機も、『金銭的な多寡』や『損得勘定』しかなくなり、『損得勘定を超えた止むに止まれぬ行動』とか『価値や大切な人のために命をかける』というような規範的な行動を目にすることは滅多になくなってしまった。利他主義に基づく社会規範的行動は、どんどん後退して、互恵性に基づく市場規範的な行動ばかりが前景化した。
金銭的な損得勘定は、ある程度経済的に満たされると(あるいは満たされたと感じると)、それ以上のインセンティブにはならないし、そもそも金銭的な損得勘定からは、内発的な動機は生まれない。
普遍的な共通の価値観もなく、そこに多様な意見があるに過ぎないということになると、社会の分断化は否が応でも進まざるをえない。結果として、人をまとめたり動員できるのは、劣化した感情のみ、ということになってしまった。ヘイトスピーチやネットの炎上等はその典型的な現れと言える。
太平洋戦争の終結時でもそうだったように、日本人には大きな災害や戦争、挫折等で全て押し流された後の方が、むしろすっきりと切り替えて次の構築に意欲を持って立ち向かえる心理構造があり、またそのための性根も据わっていたと言える。
ところが、政治改革に失敗し、世界のIT/デジタル化についていけずに経済でも負け、ギリギリ維持してきた安定が維持できなくなりそうな状態になった今でも、いっこうに反攻の気配がないのは、思想も宗教も倫理も空白状態になっていることが実のところ第一の原因だと思う。この状態では、オウムのような擬似的な、ハリボテのような物語に再び釣られる恐れがあることは前にも述べたが。
バラバラになった人々を動員するのが、劣化した感情か、ハリボテのような物語か、というのは本当に困った状態で、これこそ、一番の危機というべきだろう。