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- 2012年02月20日 10:48
障害者制度改革の重大な岐路 - 竹端寛
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■「あるべき姿」と「現実」の落差
問題とは、あるべき姿と現実との落差の間にこそ、捉えられるべきものであるはずだ。あるべき姿を見失って、現実と問題だけを見ていても、何も生産的な議論は生まれてこない。これは、震災復興や原発問題、あるいは社会保障改革など、日本社会が突き当たっている多くの課題に構造的に示されている。その多くが「あるべき姿」を見いだせず、あるいは「あるべき姿」が群雄割拠して統合されず、現実と照らし合わせた際の問題点の焦点化ができないまま放置されている。
そんななか、じつはその「あるべき姿」を具体的にビジョンとして示せたがゆえに、現実における問題が明確化された領域がある。それが、この論考の主題とした障害者制度改革である。
2011年8月30日、内閣府障がい者制度改革推進会議の総合福祉部会は、現行法の障害者自立支援法に代わる新法にどのような内容を盛り込むべきか、についての「骨格提言」を示した。この「骨格提言」は、現行法への賛成・反対の立場を超えて、国の審議会レベルで障害者制度改革に必要な「あるべき姿」をまとめ上げた画期的な内容である。
そして、去る2月8日、厚生労働省はこの「骨格提言」をどう具現化するか、を「厚生労働省案」として示した。その中身は、上記の「骨格提言」に対する実質的なゼロ回答、に近い内容であった。現在、この案は政府与党のワーキングチームで議論され、3月上旬には閣議決定の後、今年の通常国会に上程される予定である。だが、骨格提言をまとめた部会関係者だけでなく、多くの障害当事者や関係者は、この「あるべき姿」と「現実」の落差や厚労省の対応に、多くの「問題」を感じている。そしてこの問題の根は、深い。
■介護保険との統合議論をめぐって
2005年の介護保険法改正の議論で、焦点のひとつとなっていたのは、障害者福祉と介護保険との「結婚」話だった。人によっては前者の後者への吸収合併、と言う人もいる。
介護保険法が2000年にスタートして数年で、介護の社会化、は見事に成功した。それまで「福祉の世話になる」のはスティグマの烙印が押されていたが、保険料を払っているのだから必要なサービスを受けるのは当然の権利だ、という意識が、高齢者の間に数年で急速に広まった。それにつれ、要支援・要介護1などの軽度の利用者が爆発的に増加し、また団塊の世代の要介護年齢突入も目前に控え、介護保険財源がこのままでは破綻する、ということが言われはじめたのが、ちょうど介護保険法が施行された3年後の2003年頃からである。
その2003年は、障害者分野でも身体障害者と知的障害者の分野では制度改革が行われ、支援費制度がスタートした。これは、介護保険法と同じように、利用者が使いたいサービスを選択できる契約制度で、規制緩和を行いNPO法人や民間企業にもサービス参入を促進させることを目指したものであった。違うのは、介護保険制度は半分が保険料、半分が国費でその財源がまかなわれているのだが、支援費制度は全額国費である、という点である。この点について、元々稼得能力があり、貯金もしてきた高齢者は保険料を支払う能力があるが、障害者はその多くが先天的な障害を持ち、また中途障害者も人生なかばで稼得能力が大きく損なわれるなかで、その支払い能力はほとんどないため、能力に応じた負担(応能負担)にするのが適切だ、という認識であった。
ところが上記の前提が支援費スタート1年で、あっさり崩れ去る。支援費制度がスタートした直後、これまでサービス利用を控えていた(=利用抑制されていた)多くの障害当事者がサービスを使いはじめ、制度開始初年度だけで100億円を超す予算超過となった。2003年の10月段階では、厚労省の高官も「嬉しい誤算」と社会保障審議会で答弁していたが、2004年春になると一転、「きちんと供給のコントロールがきく予測のつく制度に変えていく」必要がある、と答弁の風向きが変わり、その後すぐに介護保険制度と障害者福祉制度の統合論が浮上する。
折り悪く、小泉政権下での三位一体の構造改革論の最中で、社会保障費の年間2200億円の圧縮が求められていたなかで、障害者福祉予算の増額を求めることなど、財務省が飲むはずもなかった。また前述のように、介護保険制度も中長期的に財源が逼迫する推計が出され、介護保険の被保険者(保険料を支払う人)を40歳以上から20歳以上へと下げることで、介護保険財源の安定化を図ろうとした。その目玉として「エイジレスな介護保障」というかたちで、障害者福祉を介護保険に取り込む構想が掲げられたのである。だが、その発想は、障害者運動から大きな反発を食らうことになる。
■障害者は何を求めたのか
介護保険への障害者福祉の統合にもっとも反発したのは、地域で自立生活を営む重度障害者たちだった。なぜ彼ら彼女らは、一見すると財源的にも安定する介護保険法への統合を拒んだのか。ここには、我が国の障害者福祉の運動の歴史を重ねてみる必要がある。
1970年代までの障害者福祉は、能力主義と隔離収容を前提としたモデルであった。リハビリして健常者並に近づければ地域生活が可能だが、稼得能力が低い(あるいはない)とみなされた障害者は、入所施設や精神病院に「社会的入院・入所」をさせる。このことが、国策として遂行されてきた。人里離れた山の中に精神病院や「社会福祉村」が急増していったのも、70年代である。一方、その70年代から、入所施設や精神科病院で一生を終えるのはオカシイ、と異議申立をした重度障害者たちが現れた。
1970年、横浜で障害児二人を育てる母親が、二歳の女児をエプロンの紐でしめ殺した。当時のマスコミは母親の犯行を日本の福祉施設の不備故に起きた「悲劇」であると報じ、地元では母親への減刑嘆願運動が起こった。これ対して、神奈川県の脳性マヒ者の当事者会「神奈川青い芝の会」は、強い異議申立をする。「この子はなおらない。こんな姿で生きているよりも死んだ方が幸せなのだ」という当時の支配的価値観自体を告発し、それと戦ったのである。これは、隔離収容への批判や告発、それに変わる地域自立生活を求める運動へと結実し、我が国での障害者の自立生活運動のうねりをつくり上げていった(注1)。
この国は入所施設や精神科病院には多額の国費を投入してきたが、障害者の地域自立生活を支える制度は、きわめて貧弱なままである。たとえば重度障害者の在宅生活を支える長時間介助は、最初は運動団体に共鳴したボランティアの介助者によって支えられ、その実態を地方自治体に突きつけて、自治体が単独の助成金を出すかたちで拡がっていった。障害者が声をあげ、自治体と粘り強く交渉するなかで、少しずつ長時間介護が財源的に保障されてきた、という歴史がある(注2)。
しかも、国はそれを横目で見ながらも、長時間介護に対しては財政制約を課している。月240時間(一日8時間ベース)については国費で面倒を見るが、それ以上に関しては、全額自治体で負担してほしい、という国庫負担基準なる実質的上限である。介護保険でも同じ論理が採用されたため、障害者運動側は、この上限が、重度障害者が地域で生活するための最大の足かせになる、と考えていた。ゆえに、介護保険への障害者福祉制度の吸収合併は、この上限を強固なものにする、と映ったのである。また、介護保険では入所施設や老人病院でのケアも前提となっている制度であるが、障害者運動が求めていたのは、隔離収容中心主義から、どんなに重い障害のある人でも地域生活が可能となる地域自立生活支援中心主義への構造転換であった。そして、この背後には、あるパラダイムシフトが連動している。
■社会モデルというパラダイムシフト
2006年に決議された国連障害者権利条約では、障害の定義も大きく変更された。「障害が機能障害のある人と態度及び環境に関する障壁との相互作用であって、機能障害のある人が他の者との平等を基礎として社会に完全かつ効果的に参加することを妨げるものから生ずること」というのがその定義である。
我が国だけでなく、世界中で20世紀に主流であった障害者支援の考え方に、「障害の医学モデル」というのがある。これは、障害を個人の不幸であり治療の対象と捉え、健常者に戻ることが目標とされた。一方、1980年代から世界各国の障害当事者が声をあげ、唱えつづけてきたのが、障害を持ったままでの自立や社会参加を求め、変わるべきは当事者ではなく社会である、という「障害の社会モデル」であった。障害者権利条約は、この「社会モデル」を取り込んだ画期的な条約である。
ちなみにこの権利条約制定過程では、知的障害や精神障害、盲ろう者の世界代表など、これまで政策形成過程から排除されてきた当事者代表も、国連の場で議論に参加し、各国政府と互角の立場で議論をして、権利条約は制定にこぎ着けた。また、日本国政府も車いす弁護士の東俊裕さんを特別顧問に置き、当事者参画に大きく力を注いだ。「私たち抜きで、私たちのことを決めないで(Nothing about us without us!)というキーワードは、ニューヨークの国連議場でも、何度も何度も繰り返し叫ばれ、共通語になっていた。
このように、国連の場では、障害当事者の政策形成過程への参画が当たり前となり、その成果である障害者権利条約も、医学モデルから社会モデルへの転換を果たした、画期的な条約になった。ところが我が国では、介護保険制度と障害者福祉の統合論は、前述のように、当時の財政制約を解決するための、厚労省が突然発表した案であり、そこには当事者からの同意もなかった。
制度の持続的安定のためには「これしかない」と押し切る厚労省の説得に、支援者団体や障害者家族会などでは「仕方ない」と賛同する論調もある一方、地域自立生活を切り拓いてきた、また権利条約制定過程を横目で見ている障害当事者達は、この改革は社会モデルではなく、医学モデル型の抑圧的な改正であり、当事者が政策形成過程から排除されている、と猛烈に抗議をした。
結果、介護保険法との2005年段階での統合はなくなったが、2006年に施行された障害者自立支援法は、介護保険との統合を将来的に見込んだ制度設計であり、サービス利用者の1割負担の導入や、要介護認定にきわめて近い障害程度区分認定にもとづく支給決定制度など、「介護保険に似せすぎた」とも揶揄される法律であった。また、当事者の声にもとづかない制度改革についての批判もかなり強かった。そして最大の不幸は、制度の持続可能性や安心安全を求める支援者団体や障害者家族団体と、当事者の声にもとづく政策を求める障害当事者団体の間で、自立支援法賛成派と反対派に分かれてしまったことだ。これは、医学モデルと社会モデルとの、パラダイム間の相克とも重なる対立であった。
■自立支援法違憲訴訟
自立支援法は、スタートする前から批判にさらされたが、スタート後も大混乱がつづいた。1割負担が重くのしかかり、サービス利用控えや、さらには将来を悲観した無理心中まで起こってしまった。結局、国は実質的に1割負担制度を撤回する改正を重ねていくが、それであればなぜ自立支援法にそれほどまでに拘るのか、という障害者側からの異議申立には応えないままであった。そこで、2008年10月、全国8地裁29名の障害当事者らが、障害を理由とした支援サービスの1割を強要する「応益」負担は、生存権や幸福追求権の侵害であり、憲法に違反すると一斉に提訴した。いわゆる自立支援法違憲訴訟である。
この訴訟が大きな原動力になり、2009年8月の総選挙では、民主党のマニフェストにも自立支援法廃止と新法の制定が盛り込まれた。その後、政権交代後の2010年1月、当時の長妻厚生労働大臣の下で、自立支援法違憲訴訟団と厚生労働省は裁判所で和解し、基本合意文章を取り交わす。この基本合意文章のなかで、障害者自立支援法を廃止するとともに、現行の介護保険制度との統合を前提としない新たな新法を、平成25年8月までにつくることを、政府は約束したのであった。
■「あるべき姿」と「現実」の落差
問題とは、あるべき姿と現実との落差の間にこそ、捉えられるべきものであるはずだ。あるべき姿を見失って、現実と問題だけを見ていても、何も生産的な議論は生まれてこない。これは、震災復興や原発問題、あるいは社会保障改革など、日本社会が突き当たっている多くの課題に構造的に示されている。その多くが「あるべき姿」を見いだせず、あるいは「あるべき姿」が群雄割拠して統合されず、現実と照らし合わせた際の問題点の焦点化ができないまま放置されている。
そんななか、じつはその「あるべき姿」を具体的にビジョンとして示せたがゆえに、現実における問題が明確化された領域がある。それが、この論考の主題とした障害者制度改革である。
2011年8月30日、内閣府障がい者制度改革推進会議の総合福祉部会は、現行法の障害者自立支援法に代わる新法にどのような内容を盛り込むべきか、についての「骨格提言」を示した。この「骨格提言」は、現行法への賛成・反対の立場を超えて、国の審議会レベルで障害者制度改革に必要な「あるべき姿」をまとめ上げた画期的な内容である。
そして、去る2月8日、厚生労働省はこの「骨格提言」をどう具現化するか、を「厚生労働省案」として示した。その中身は、上記の「骨格提言」に対する実質的なゼロ回答、に近い内容であった。現在、この案は政府与党のワーキングチームで議論され、3月上旬には閣議決定の後、今年の通常国会に上程される予定である。だが、骨格提言をまとめた部会関係者だけでなく、多くの障害当事者や関係者は、この「あるべき姿」と「現実」の落差や厚労省の対応に、多くの「問題」を感じている。そしてこの問題の根は、深い。
■介護保険との統合議論をめぐって
2005年の介護保険法改正の議論で、焦点のひとつとなっていたのは、障害者福祉と介護保険との「結婚」話だった。人によっては前者の後者への吸収合併、と言う人もいる。
介護保険法が2000年にスタートして数年で、介護の社会化、は見事に成功した。それまで「福祉の世話になる」のはスティグマの烙印が押されていたが、保険料を払っているのだから必要なサービスを受けるのは当然の権利だ、という意識が、高齢者の間に数年で急速に広まった。それにつれ、要支援・要介護1などの軽度の利用者が爆発的に増加し、また団塊の世代の要介護年齢突入も目前に控え、介護保険財源がこのままでは破綻する、ということが言われはじめたのが、ちょうど介護保険法が施行された3年後の2003年頃からである。
その2003年は、障害者分野でも身体障害者と知的障害者の分野では制度改革が行われ、支援費制度がスタートした。これは、介護保険法と同じように、利用者が使いたいサービスを選択できる契約制度で、規制緩和を行いNPO法人や民間企業にもサービス参入を促進させることを目指したものであった。違うのは、介護保険制度は半分が保険料、半分が国費でその財源がまかなわれているのだが、支援費制度は全額国費である、という点である。この点について、元々稼得能力があり、貯金もしてきた高齢者は保険料を支払う能力があるが、障害者はその多くが先天的な障害を持ち、また中途障害者も人生なかばで稼得能力が大きく損なわれるなかで、その支払い能力はほとんどないため、能力に応じた負担(応能負担)にするのが適切だ、という認識であった。
ところが上記の前提が支援費スタート1年で、あっさり崩れ去る。支援費制度がスタートした直後、これまでサービス利用を控えていた(=利用抑制されていた)多くの障害当事者がサービスを使いはじめ、制度開始初年度だけで100億円を超す予算超過となった。2003年の10月段階では、厚労省の高官も「嬉しい誤算」と社会保障審議会で答弁していたが、2004年春になると一転、「きちんと供給のコントロールがきく予測のつく制度に変えていく」必要がある、と答弁の風向きが変わり、その後すぐに介護保険制度と障害者福祉制度の統合論が浮上する。
折り悪く、小泉政権下での三位一体の構造改革論の最中で、社会保障費の年間2200億円の圧縮が求められていたなかで、障害者福祉予算の増額を求めることなど、財務省が飲むはずもなかった。また前述のように、介護保険制度も中長期的に財源が逼迫する推計が出され、介護保険の被保険者(保険料を支払う人)を40歳以上から20歳以上へと下げることで、介護保険財源の安定化を図ろうとした。その目玉として「エイジレスな介護保障」というかたちで、障害者福祉を介護保険に取り込む構想が掲げられたのである。だが、その発想は、障害者運動から大きな反発を食らうことになる。
■障害者は何を求めたのか
介護保険への障害者福祉の統合にもっとも反発したのは、地域で自立生活を営む重度障害者たちだった。なぜ彼ら彼女らは、一見すると財源的にも安定する介護保険法への統合を拒んだのか。ここには、我が国の障害者福祉の運動の歴史を重ねてみる必要がある。
1970年代までの障害者福祉は、能力主義と隔離収容を前提としたモデルであった。リハビリして健常者並に近づければ地域生活が可能だが、稼得能力が低い(あるいはない)とみなされた障害者は、入所施設や精神病院に「社会的入院・入所」をさせる。このことが、国策として遂行されてきた。人里離れた山の中に精神病院や「社会福祉村」が急増していったのも、70年代である。一方、その70年代から、入所施設や精神科病院で一生を終えるのはオカシイ、と異議申立をした重度障害者たちが現れた。
1970年、横浜で障害児二人を育てる母親が、二歳の女児をエプロンの紐でしめ殺した。当時のマスコミは母親の犯行を日本の福祉施設の不備故に起きた「悲劇」であると報じ、地元では母親への減刑嘆願運動が起こった。これ対して、神奈川県の脳性マヒ者の当事者会「神奈川青い芝の会」は、強い異議申立をする。「この子はなおらない。こんな姿で生きているよりも死んだ方が幸せなのだ」という当時の支配的価値観自体を告発し、それと戦ったのである。これは、隔離収容への批判や告発、それに変わる地域自立生活を求める運動へと結実し、我が国での障害者の自立生活運動のうねりをつくり上げていった(注1)。
この国は入所施設や精神科病院には多額の国費を投入してきたが、障害者の地域自立生活を支える制度は、きわめて貧弱なままである。たとえば重度障害者の在宅生活を支える長時間介助は、最初は運動団体に共鳴したボランティアの介助者によって支えられ、その実態を地方自治体に突きつけて、自治体が単独の助成金を出すかたちで拡がっていった。障害者が声をあげ、自治体と粘り強く交渉するなかで、少しずつ長時間介護が財源的に保障されてきた、という歴史がある(注2)。
しかも、国はそれを横目で見ながらも、長時間介護に対しては財政制約を課している。月240時間(一日8時間ベース)については国費で面倒を見るが、それ以上に関しては、全額自治体で負担してほしい、という国庫負担基準なる実質的上限である。介護保険でも同じ論理が採用されたため、障害者運動側は、この上限が、重度障害者が地域で生活するための最大の足かせになる、と考えていた。ゆえに、介護保険への障害者福祉制度の吸収合併は、この上限を強固なものにする、と映ったのである。また、介護保険では入所施設や老人病院でのケアも前提となっている制度であるが、障害者運動が求めていたのは、隔離収容中心主義から、どんなに重い障害のある人でも地域生活が可能となる地域自立生活支援中心主義への構造転換であった。そして、この背後には、あるパラダイムシフトが連動している。
■社会モデルというパラダイムシフト
2006年に決議された国連障害者権利条約では、障害の定義も大きく変更された。「障害が機能障害のある人と態度及び環境に関する障壁との相互作用であって、機能障害のある人が他の者との平等を基礎として社会に完全かつ効果的に参加することを妨げるものから生ずること」というのがその定義である。
我が国だけでなく、世界中で20世紀に主流であった障害者支援の考え方に、「障害の医学モデル」というのがある。これは、障害を個人の不幸であり治療の対象と捉え、健常者に戻ることが目標とされた。一方、1980年代から世界各国の障害当事者が声をあげ、唱えつづけてきたのが、障害を持ったままでの自立や社会参加を求め、変わるべきは当事者ではなく社会である、という「障害の社会モデル」であった。障害者権利条約は、この「社会モデル」を取り込んだ画期的な条約である。
ちなみにこの権利条約制定過程では、知的障害や精神障害、盲ろう者の世界代表など、これまで政策形成過程から排除されてきた当事者代表も、国連の場で議論に参加し、各国政府と互角の立場で議論をして、権利条約は制定にこぎ着けた。また、日本国政府も車いす弁護士の東俊裕さんを特別顧問に置き、当事者参画に大きく力を注いだ。「私たち抜きで、私たちのことを決めないで(Nothing about us without us!)というキーワードは、ニューヨークの国連議場でも、何度も何度も繰り返し叫ばれ、共通語になっていた。
このように、国連の場では、障害当事者の政策形成過程への参画が当たり前となり、その成果である障害者権利条約も、医学モデルから社会モデルへの転換を果たした、画期的な条約になった。ところが我が国では、介護保険制度と障害者福祉の統合論は、前述のように、当時の財政制約を解決するための、厚労省が突然発表した案であり、そこには当事者からの同意もなかった。
制度の持続的安定のためには「これしかない」と押し切る厚労省の説得に、支援者団体や障害者家族会などでは「仕方ない」と賛同する論調もある一方、地域自立生活を切り拓いてきた、また権利条約制定過程を横目で見ている障害当事者達は、この改革は社会モデルではなく、医学モデル型の抑圧的な改正であり、当事者が政策形成過程から排除されている、と猛烈に抗議をした。
結果、介護保険法との2005年段階での統合はなくなったが、2006年に施行された障害者自立支援法は、介護保険との統合を将来的に見込んだ制度設計であり、サービス利用者の1割負担の導入や、要介護認定にきわめて近い障害程度区分認定にもとづく支給決定制度など、「介護保険に似せすぎた」とも揶揄される法律であった。また、当事者の声にもとづかない制度改革についての批判もかなり強かった。そして最大の不幸は、制度の持続可能性や安心安全を求める支援者団体や障害者家族団体と、当事者の声にもとづく政策を求める障害当事者団体の間で、自立支援法賛成派と反対派に分かれてしまったことだ。これは、医学モデルと社会モデルとの、パラダイム間の相克とも重なる対立であった。
■自立支援法違憲訴訟
自立支援法は、スタートする前から批判にさらされたが、スタート後も大混乱がつづいた。1割負担が重くのしかかり、サービス利用控えや、さらには将来を悲観した無理心中まで起こってしまった。結局、国は実質的に1割負担制度を撤回する改正を重ねていくが、それであればなぜ自立支援法にそれほどまでに拘るのか、という障害者側からの異議申立には応えないままであった。そこで、2008年10月、全国8地裁29名の障害当事者らが、障害を理由とした支援サービスの1割を強要する「応益」負担は、生存権や幸福追求権の侵害であり、憲法に違反すると一斉に提訴した。いわゆる自立支援法違憲訴訟である。
この訴訟が大きな原動力になり、2009年8月の総選挙では、民主党のマニフェストにも自立支援法廃止と新法の制定が盛り込まれた。その後、政権交代後の2010年1月、当時の長妻厚生労働大臣の下で、自立支援法違憲訴訟団と厚生労働省は裁判所で和解し、基本合意文章を取り交わす。この基本合意文章のなかで、障害者自立支援法を廃止するとともに、現行の介護保険制度との統合を前提としない新たな新法を、平成25年8月までにつくることを、政府は約束したのであった。



