林信吾(作家・ジャーナリスト)
【まとめ】
・アジア太平洋戦争で、日本は物量の差ではなく、情報戦で完敗した。
・「作戦重視・情報軽視」の傾向は戦後の日本でも見られる。
・本来の「戦争を語り継ぐ意義」は反省を重ねていくことである。
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前にも述べた通り、アジア太平洋戦争については、「物量の差で負けた」とだけ考える人が、今でも多い。不幸なことである。これはもちろん嘘ではないが、そもそも当時の日米は、GDPの差が20倍以上もあった。こんな相手に戦争を仕掛けようという判断が、どうしてなされたのか。今となっては信じられないような話であるが、正解は、戦前は日米の国力差について、「よく分かっていなかった」というのが理由のひとつだったのだ。
つまり現在の我々だから、たとえば北朝鮮のGDPは鳥取県と同じ程度、と聞けば、それで核開発だミサイル実験だということを繰り返していたならば、国民が貧苦にあえぐのも当然だ、と感覚的に理解できる。しかし、戦前は鉄鋼生産高とか、意外と大雑把なデータでしか国力差というものをイメージできなかった。
この結果、「パナマ運河を通れないような巨大戦艦を揃えれば、アメリカも日本に戦争など仕掛けられまい」などという戦略を立てるに至ったのである。現実の戦争では、開戦劈頭、ハワイを空襲して、戦艦に対する航空戦力の優位を実証したのだが。
そのハワイ空襲=真珠湾攻撃に際して、米軍が日本側の暗号電報を解読していたことが戦後明らかとなり、ここから、ルーズヴェルト大統領は参戦反対(ヨーロッパではすでに戦争が始まっていた)の国内世論を転換させるために、「攻撃計画を知っていて、わざとやらせた」などという、一種の陰謀論が出現することとなった。
残念ながら(?)この時点で破られていたのは外交暗号のみで、そこには真珠湾攻撃を示唆する文言すら出てこない。海軍が何を考えているのか、外務官僚はまったく知らない、という状況であったために、宣戦布告文書を米国側に手渡すのが、真珠湾攻撃の後になるという不手際が生じ、この「だまし討ち」に米国民が激怒し、「リメンバー・パールハーバー」の大合唱となって、結果的にはルーズヴェルト大統領の思惑通りに事が運んだというのが事実である。
いずれにせよ、真珠湾攻撃を皮切りに、開戦当初の日本軍は連戦連勝であったのだが、その裏では、開戦前から情報戦で後れをとっていたというわけだ。