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「美しい顔」の「剽窃」問題から私たちが考えてみるべきこと

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1.剽窃がアウトなのは当然だが、問題の核心はそこにない

第159回芥川賞の候補作となった北条裕子「美しい顔」が、他人の作品から表現の「盗用」を行っているのではないかと指摘を受け、議論になっている。「美しい顔」は六月号で発表された群像新人文学賞の受賞作で、選評でも激賞とも言える高い評価をえていた。直後の文芸批評でも軒並み高い評価だったといっていい。私も現在担当している『文學界』の新人小説月評で、前半期の第一位に推した。

作品は、東日本大震災とその被災者の姿を直接的に描いている。主人公は津波で母を失うことになり、幼い弟とふたりで生きて行かざるをえなくなる女子高校生サノ・サナエである。地震の発生、町を襲う津波、押し流される家々と人(友達も)、避難所生活、そこに闖入してくるメディア、見つからない母とその遺体との対面、強いストレスにさらされながら必死で生きる弟、そして親戚のもとへの避難。

こうした一連の出来事が小説の主筋である。作品は、サナエの主観性の強い一人称語りで進行する。限界状況の中で暴れ馬のように疾走するサナエの自意識が、連綿と綴られていくところが本作の語りの特徴となっている。(ノンフィクションを「剽窃」した作品と聴いて本作を読み始めた読者は、面食らうことになるだろう。)

問題の外形は下に示す報道の通りなのでここでは省略する。本作品の中には、石井光太氏のルポルタージュ『遺体 震災、津波の果てに』(新潮社、2011年)や、金菱清氏らが編集した証言集『3・11 慟哭の記録』(新曜社、2012年)などから、小説の本文とまったく同一の文章や、類似した表現、物語のエピソードのヒント(モチーフ)をえたらしき箇所が、複数あるとされている。
www.sankei.com

関係者の主張や説明、謝罪などのリンクは末尾に掲げておいた。リンク先の文書には講談社と新潮社による時系列の説明もあり、事件の展開をたどることができる。

小説には石井氏の『遺体』と同一の表現がある。この部分(あくまで「同一の表現」のみを指す)に関しては、もちろん擁護することはできない。著者と講談社は非を認めているが、単行本など刊行を考えているのなら、修正を行って出す必要があるだろう。

だが、私が書いてみたいのは表現の盗用問題それ自体ではないし、関係者の対応についてでもない。今回の議論の広がりを見ていくうちに、私は次第に違和感が募ってきた。その違和感は「剽窃」疑惑を出発にしているが、むしろ表現の盗用の問題それ自体ではなく、そこを起点に繰り広げられた議論の展開に向いている。問題は大きくいって3つだ。

2.小説は他者の言葉を奪ってよいのか  〈論点1〉小説の表現

一つめは、「剽窃」「盗用」をめぐる小説の表現に関わる問題である。他人の書いた文章をことわりなくそのまま用いれば、たとえ小説と言えど盗用にあたる。では、内容はほぼ同じまま表現の文言を変えたらどうか。あるいは出来事の経緯を借用しながらそれを表す言葉は自分で作りだした場合には? 

小説の表現をめぐっては、こうしたテクニカルな論点以外に、もっと原理的な問題もある。金菱氏が主張しているのがその点である。

震災から7年が過ぎ、被災地に一回も足を運ばず、作家の想像力でディティールの優れた小説が生まれたこと。これが作品の評価のようです。北条さん自身もわざわざ被災地に足を運んでいない事実を書いています。

 しかし、小説は想像力で書かれたのではなく、彼らの言葉を奪うことで書かれたものでした。

 最初から明かしているならともかくーーその場合でも表現はかなり依拠していますがーー手記を使ったことを初出では明らかにせず、行ったことがないという事実を誇っている。これが「敬意を欠いている」と思う理由です。

 作家も、記者も、学者も言葉を扱う職業です。法的な問題以上に、「被災者、個々人の言葉」を利用する姿勢そのものが問われています。 (強調は日比による)

https://news.yahoo.co.jp/byline/ishidosatoru/20180707-00088468/

小説は、他者の声を奪って許されるのか、というマイノリティ表象やポストコロニアル的問題につながる論点である。

小説家が小説を書くときには、さまざまな文献を読み込み、人や事件を観察し、聞き取りを行い、そうした材料をもとに創作行為を行う。種のない小説はありえない。ただ、金菱氏が指摘している問題は、こうした「程度問題」とは別の次元にある悩ましい論点だ。

小説は、いやあらゆる表現は、表象=代行である。現実の人や実際の事件や言葉を置き換えて、表現行為は行われる。その置き換えの際に、収奪が起こっていないか?ということだ。具体的今回の場合についていえば、小説「美しい顔」は被災者の言葉を奪ったのか。奪ったとして、それは許されるのか許されないのか。

現実の存在を相手にする限り、収奪は必ず起こる。それは小説だけにはかぎらない。ルポルタージュであろうが研究論文であろうが新聞記事であろうが、何か「について」の言葉は原理的に収奪から自由ではない。

では、問題は「敬意」だろうか。収奪は必ず起こるとして、「敬意」のあるなしが――その具体的表現として、出典明示や謝辞の表記、あるいは事前の相談など――問題だろうか。職業的な礼儀としても、現実の処世術としても、それは重要だろう。

だが、言ってみればそれは当たり前のことだ。新人小説家が、新人賞に応募し、当選し、世に出て行くときの、目まぐるしい急流の中で、その「当たり前」をやりそこねた。編集担当者も、気を回せなかった。それは、反省するしかないし、作家はその失敗をこれから引き受けるしかない。

しかし、本当の問題はそんな礼儀や仁義云々ではない。表象の言葉はどうやっても他者の言葉を奪う。それは「必要悪」なのだろうか。私はそういう必然的な収奪を指して、「小説は罪深い」などというロマンチックな物言いをして終わりにしたくはない。

小説の言葉は奪うが、奪ったままにはしない。小説がそこで行うのは、奪ったものを再編集し、意味を与え直し、別の社会的文脈へと差し戻していく作業だ。小説とノンフィクションの言葉は、事実性をめぐる言葉の指向が違うが、それだけではない。社会に向かって戻されていく道すじが違う。具体的には、メディアが違い、読者が違い、関心領域が違う。

小説の言葉は奪うが、自分自身のために奪うのではない。「収奪」は、社会的な意味変換装置としての小説の機能の、ほんの一面でしかない。小説は収奪するかもしれないが、その先で放ち直している。

3.小説は現地に行かなければ書いてはならないのか  〈論点2〉当事者性、現場性

巨大な大地の揺れの恐ろしさは、経験した者にしかわからない。故郷が放射能で汚染された者の怒りは、そこに住んでいる(いた)ものにしかわからない。津波で家を押し流され家族を失った者の苦しみは、遺族にしかわからない。そのとおりだ。異論の余地はない。

原発のことを語りたいのなら、一度は福島の被災地に行け。震災後の復興のことを語りたいのならば、岩手の、宮城の、町々を訪ねよ。新聞やテレビだけではなく、直接、そこに住む人々の声に耳を傾け、自からの目で見、肌で感じよ。たしかに、それが望ましい、と私も思う。

経験の力は強い。そして私たちの社会は、それに重きを置いている。当事者が一番知っていて、当事者の思いや感覚こそがもっとも尊重されるべきである。その次には、当事者に寄り添っている人たちが、当事者を代弁する権利を持つ。距離は近ければ近いほど、捧げた献身は、深ければ深いほど、強い。そして強い者ほど発言力を持つ。

このような序列が機能する理由はよくわかる。当事者こそがもっとも苦しんでおり、もっとも切実に困難の解消を望んでいるからである。そして彼らを身近でサポートする人たちは、その苦しみと困難の形をよく理解している。

だが、この「当事者性」「現場性」の重視は、それが強くなりすぎた時に、反作用を引き起こす。一つには、問題構成の限定化と硬直化をもたらす。豊田正之は次のように言っている。

 特に問題の質が社会的性質を色濃く持つ問題においては、安易に当事者を限定することは危険である。問題が具体的に取り上げられることによって、その背景に横たわる、時には根幹をなす社会問題を見えにくくしてしまうからである。

問題に対する当事者概念の規定は、それがなされることによって問われている問題の性質を逆規定する。問われている問題が明らかに社会問題である場合においても、問題の当事者を個別具体的に特定することによって、問題の領域さえ限定されてしまうのである。

(豊田正之「当事者幻想論――あるいはマイノリティの運動における共同幻想の論理」『現代思想』26巻2号、1998年2月)

被災地・被災者を厳密に、限定的に考えれば考えるほど、その範囲は狭くなる。そしてそのことは問題の意識を先鋭にするかもしれないが、逆に副作用として問題のあり方を固定的にし、関係の及ぶ範囲を狭め、はては問題そのものを外部から見えにくくしていってしまう。

心理的な悪影響もある。「当事者」性を強調すればするほど、「非・当事者」を遠ざける効果を生む。被災の苦しみは「当事者」にしかわからない、喪失の悲しみは「当事者」にしかわからない、ということが強調され、「当事者」とその身近な者たちだけが発言の権利を持つような雰囲気が支配的になったらどうなるか。「関係のない者」「距離を感じた者」たちは、身を引き離し、問題の周囲から遠ざかっていくだろう。あるいは遠ざからないまでも、ひたすら聞く側、受け取る側の受動的姿勢を取り始めるだろう。

ここで起こるのは、分断である。本来、手を結ぶべき当事者と非当事者が、「当事者性」の過度の強調により、かえって疎遠になっていく。それはとても残念なことだし、それどころか現実的な不利益や、支援活動の弱体化までも生んでしまうだろう。

当事者と、非当事者は、二項対立的にすっぱりと分かれるべきではないし、そうあるものではない。当事者と非当事者は、苦しみや痛みを、分かち持つ(分有する)ことができる。何かのきっかけで接点が設けられたとき、その接点を通じて、共有しうる互いの地盤が開かれることがある。分断は、だから固定的ではありえない。当事者と非当事者の間には、分断ではなく、可変的な「関わり」の濃度の差がグラデーション状に広がっていると考えた時、被災と非・被災に単純に分割する思考がほどけはじめる。

北条裕子氏は今からでも津波の被災地を訪ねればよいと思うが、そしてその訪問は必ずや作家をより実り多い複雑な現実へと誘うことになるだろうが、もし訪ねなかったとしても、震災を描いてなんら問題はない。「行かずに書けるわけないだろう」などという単純な批判は、ダンテに「お前は地獄へ行ったのか」とか、漱石に「お前は猫じゃないだろ」などと言うのと同じレベルであるから、無視すればいい。

テレビやYoutubeでしか津波や地震を見なかった人も、それを俳句や短歌にしてもいい。被災地を訪ねなかった作家も、それを作品に描いてもいい。そしてそのようにして生み出された作品を、被災地の人も、それ以外の地域にいる人も、読めばよいと思う。

論点1において私は、小説は奪った言葉を、変換した上で、社会に再放流すると述べた。そして再放流した言葉は、その先でうまくいけば社会のかたちを変えていく。迂遠かもしれないが、言葉の力で変えていく。その変化の一つのあり方が、たとえば「当事者」の範囲をちょっとだけ、あるいは読者によっては大きく、ずらすということだ。

「美しい顔」の読者になることは、震災を「経験」することだ。それはもちろん、フィクションの震災であり、虚構の震災である。だが、震災を「本物の震災」にだけ限定し、それ以外は無価値だとすることは、被災地とそれ以外の分断を強め、当事者と被当事者の溝を固定化し、ひいては我々の社会の共感力を過小に評価することにもつながる。

小説の言葉は虚構かもしれないが、当事者とそれ以外の人々との間の関心と関係を、結び直す可能性を秘めているのだ。

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