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原子力発電の是非をめぐり国民投票を求める声が方々であがる中、昨年12月に提出された原子力発電の継続についての国民投票を定める法案の中で、国民投票の結果が政府を拘束しないことが明記されていることがわかり、隠れた「国民投票潰しではないか」との声があがっている。
この法案は「エネルギー政策の見直し及びこれに関する原子力発電の継続についての国民投票に関する法律案」と呼ばれるもので、昨年12月7日にみんなの党の上野ひろし参院議員から提出されたもの。
このような法案が提出されていたこともあまり知られていなかったことに加え、この法案が第5条で「国民投票の結果は、政府においてエネルギーの需給に関する施策を講ずるに当たって尊重されるものとするほかは、国及びその機関を拘束しないものとする」と、国民投票の結果に強制力を持たせないことが明記されていることから、一部の国民投票推進派から拘束力のある国民投票の導入を潰すためにあらかじめ仕込まれた地雷ではないか、との声があがっていた。
確かに、せっかく国民投票を行っても、その結果に強制力がないようでは、その意味は半減してしまうようにも感じる。また、強制力の無い国民投票ではどれだけの市民が本気で関心を持つかがわからないので、マル激が主張する「国民投票のパブリックエデュケーション効果」も大幅に弱まってしまう可能性も否定できない。
しかし、その一方で、現行の憲法の下では、この第5条のような条文を含まない国民投票法案は、最初から違憲扱いされて却下されてしまう可能性が高いことも事実だ。それは、憲法41条が「国会が国権の最高機関」であることを定めているため、国会の議決を縛る国民投票法案は憲法違反と判断される可能性が非常に高いからだ。
また、仮に国民投票の結果が強制力を持たなくても、もし政府や国会が国民投票の結果に沿わない行動を取れば、その政権や議員たちが次の選挙で厳しい審判に晒されることは明らかだ。その意味では「尊重されるもの」であっても、事実上はその結果に政府も国会も縛られていると考えることもできる。
むしろ問題は日本に地域レベルでの住民投票の伝統や、そうした問題を地域社会で議論をしていくベースが無いことにあるのではないか。われわれがそのような伝統や習慣を獲得することができれば、法的な強制力を与えられていようがいなかろうが、ワークショップやタウンミーディングなどによって十分に議論を重ね、その問題に関する知識を蓄積した市民たちが投票によって明らかにした意思を、行政府や立法府が尊重しないなどということはあり得ないだろうし、それは政治的な自殺行為になるはずだ。
実際、あれだけの事故を経験していながら、エネルギー政策や原発のあり方を真剣に考え、議論し、国民としてのコンセンサスを得ていこうという機運は、日に日に弱くなっているように思えてならない。特に12月16日の事故収束宣言以来、原発に反対する意見を述べること自体がKY(空気が読めない)であるかのような受け止め方をされるような風潮が、強まっているようだ。
国民投票の真の意義はその結果だけではなく、そこに至る過程で市民の間にどれだけの議論が起き、どれだけのパブリック・エデュケーションが進むか、そしてまたわれわれが国民投票後の政府の行動をどう監視し、どう評価するかにあることは、これまで繰り返し議論してきた。今改めて国民投票の意味を、ジャーナリストの神保哲生と社会学者の宮台真司が議論した。