5歳児の虐待死、22歳の青年による新幹線での凶行……。いずれに対しても「無念」の二文字しかない。「無念」とは思考停止ともいえるのかもしれない。こんなときこそ思考のエンジンを早くかけ直し、自分にできることを考えるべきなのかもしれないが、一方で、しばらく「無念」を噛みしめ、自らの心と向き合うことも大切だと思う。そのプロセスを経てこそ見えてくるものもあるはずだ。
凄惨な事件を知り、しばらく「無念」に浸ったあとで、自分なりにうっすら感じるに至ったことを、ここに書き留めておきたいと思う。
******
5歳児の「反省文」はあまりに衝撃的だった。彼女はたくさんの「約束」をさせられており、それを破ると暴行を受けていたようだ。多すぎる「約束」は生活の中に張り巡らされた「罠」でしかない。少しでも動けば「罠」が作動し、痛い目に遭う。子供を伸ばすのではなく萎縮させるほうに機能する。
子供に過度なしつけや教育的指導を行う「教育虐待」にもよく見られるパターンだ。「親」としては、「ただ感情的に怒っているのではない。この子が約束を破ったから叱っているのだ」と常に自分自身にエクスキューズしているので、虐待している自覚がない。「約束」が破られるとそれを防ぐためにまた新たな「約束」がつくられる。そうして生活が「罠」だらけになっていく。子供との「約束」が増えてきたら、教育虐待への危険信号だ。
22歳の加害者の家族の発言も衝撃だった。わが子、わが孫を全否定するような発言の数々。これもある種の心理的虐待といえるかもしれず、そういう意味での劣悪な親子関係が背景にあった可能性を感じさせる。
どんな不遇にあったにせよ、凶行が許される筋合いは微塵もない。しかし、そのような凶行を未然に防ぐ意味で、劣悪な親子関係をなんとかすることはできなかったのかと思うと悔しい。
そうとらえたとき、幼子の虐待死と青年の凶行との間に、劣悪な親子関係という結節点が見えてくる。
劣悪な生育環境から子供たちを保護するために何ができるのか。児童相談所に関わるひとやお金を増やすべきであることは間違いないだろう。ただ、警察との全件情報共有がいいのかとか、離婚後の共同親権を検討する必要もあるのではないかとか、そのあたりになると、効果と副作用のバランスが正直わからない。この点については現時点で私は自分の考えをうまくまとめられない。
おそらく児童虐待という問題に、鮮やかな解決策などない。状況はどれもケースバイケースで、法律や制度での対応だけではエアポケットが多すぎる。最後はどうしても属人的な判断が不可欠となる。そのとき、この社会全体を覆う通念のようなものが、その判断を大きく左右する。そして社会通念とは、普段私たちが無自覚に浸っているものであり、客観的にとらえ直しにくい。
今回の悲しい事件を機に、法律や制度の改善検討は進めつつ、一方で、私たちが普段無意識に浸って違和感を覚えない社会通念についても、いまいちど意識的に吟味してみる必要があるのではないだろうか。
ここで、ある言葉を紹介したい。
「あのひとはちゃんと見てくれてる、わかってくれてる。そう思える大人がいれば、子供は決してねじ曲がらない」
近著の取材の中で、某名門校の先生が語ってくれた言葉だ。「見てくれてる、わかってくれてる大人」は必ずしも親でなくてもいい。逆に言えば、子供がねじ曲がってしまったということは、そういう大人がこの広い社会の中に誰もいなかったということ。重い言葉だ。
「無念」を噛みしめたあとで、この言葉が頭に浮かび、いまうっすらと、次のような思いがこみ上げてきている。
現代は、「親」という概念を過大評価しているのではないか。