もし、定信が田安家を出ずに部屋住みのままでいたならば、治察(田安家の嫡男だった兄)の跡を継ぎ、将軍家を継ぐ可能性もありました。というのも、治察が没してからわずか5年後の安永八(1779)年、十代将軍家治の嫡子家基が没し、徳川宗家に跡取りがいなくなる事態が起こったからです。定信は幼少期から聡明で知られ、将来を嘱望されており、また田安家は一橋家よりも席次が上なので、十分その可能性はありました。しかし、白河藩に出されたことで将軍への道を失ってしまったのでした。
寛政の改革を行った松平定信には、こんな半生があったんですね。
これを読んで、「それなら、白河のほうは他の人に任せて、田安家に戻ればよかったのに」と思ったのですが、定信自身も養子の解消を願い出たものの、許されなかったのだとか。
結果的に、定信は老中として改革に乗り出すことになったのです。
こういう流れを知ると、松平定信という人が周囲から一目置かれていた理由もわかります。
また、安政の大獄を起し、桜田門外で暗殺された井伊直弼も、本来の世継ぎだった兄が急死したために、三百石の捨て扶持をもらう庶子の立場から、譜代大名の代表格である36万石の井伊家の後継者となった人なのだそうです。
江戸に出た直弼は、しばらくは将軍に拝謁したり、老中の屋敷を御礼訪問したりと、一日も休む暇もない生活が続きました。彦根藩世子として、外出する際には乗物に乗り、大勢の供を連れて門を出ます。直弼はあまりの境遇の変化に、「誠に不思議に思うほどのことで、将軍の御高恩、身に余るほどで、乗物の中で思わず落涙に及びました」と感激を書き記しています。
こうした思いが、直弼に強い忠誠心を与えたようです。それは、正室の子で、三男でありながら兄を退けて嫡子となり、藩主となった養父直亮と違うところです。(中略)
若い頃不遇をかこったからこそ、直弼には、他の殿様政治家とは違う決断力や覚悟が備わっていました。ちなみに有名な「一期一会」という言葉は、直弼の茶書『茶湯一会集』に記された心得です。直弼の決断を支えたのは、二度とないこの一瞬にすべてをかけようという「一期一会」の気概だったのではないでしょうか。
幕末もののドラマでは敵役として描かれることが多い井伊直弼なのですが、こういう話を読むと、人生の運不運というのは、わからないものだよなあ、と考えさせられます。
井伊直弼には、彼の正義があったからこそ、ああいう強い姿勢を示し、結果的に、命を落とすことになってしまった。
部屋住みのままだったら、暗殺されずにすんだのに、っていうのも、ちょっと違いますよね……
「側室あり、血縁の養子あり」でも、こんなに家督をつなげていくのは難しいのだから、いまの時代の天皇家の後継者が「直系男子」限定っていうのは、あまりにもハードルが高すぎます。
よっぽどの幸運がないと、近い将来、次代に受け継ぐのが難しくなるはず。
しかしこれ、当事者は、すごいプレッシャーだろうな……

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