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「一般意志2.0」を現在にインストールすることは可能か?(2) 東浩紀×荻上チキ 

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■「デモ権」と「スルー権」のある熟議

荻上 いまは、多くの人びとが、「集団」としてではなく「集合」として生きていると思うのです。「市民の政治」というモデルで想定するのは、何かしらの「集団」に所属している、参加意識のある者たちが、その「集団」をいかに代表したうえで、「集団」同士に折り合いをつけるのか、というものだったと思います。

でもいま、さまざまな「集合」のひとりとして参加させられ、なかば強いられた参加のなかで、いつの間にかその集合の行動原理に一票投じている、という場面が多くなっていますね。かつてのように「圧力団体」をつくって政治家に異議申し立てをする、というような「集団」をつくるのは不可能なほど、政治のレベルが細微に分化している。「集団」とか「圧力団体」という発想が機能しにくいタイプの政治が、これからどんどん出てくるでしょう。

これまでは、政治家がなんらかの代表であることを担保する装置として、新聞とテレビがありました。「国民の代表」として読者・視聴者から意見を吸い上げて、アリーナで議論をするという構図だったわけです。しかし、それでは限界もあり、これまでのテレビ的討論という議論のあり方とは別の方法をメディアが立ち上げないと、掬われずにこぼれてしまう声が放置されるでしょう。
これまでの議論では汲み上げられなかった論点として、東さんが真っ先に思い浮かべるものは何でしょうか? 

 あまり良い例ではないけど、いちばんわかりやすいのは尖閣諸島沖での中国漁船衝突事件のときの、右翼によるデモですよね。

テレビや新聞は、右翼デモを明らかに、システマティックにネグレクトしていた。ああいうやり方での政治的アリーナからの排除は、これからは無理になるでしょう。

ぼくが考えているシステムは、別の言葉で言い換えれば、委員会が熟議をしている建物の外でつねにデモが起こっている状態なんですよ。つまりバーチャルデモですね。

ニコ生のコメントはデモみたいなものなので、「反対」「反対」「賛成」「賛成」というのがずっと流れているわけですよね。デモを見ながら行われる熟議、これしかないんじゃないかと思うんですよね。

荻上 なるほど。

東 大事なことは、デモは無視してもいい。これはとても重要なことだと思う。つまりその権利が与えられているわけですよね。しかし、デモは存在する。

ここはいままでの「ネット民主主義」の議論がつねに間違えてきたところで、デモがあれば耳を傾けなければいけない、と思っている。コメントが流れてきたら読まなければいけないと思っている。でもそんなことはない。コメントは出させとけばいい、彼らは匿名で喋っているのだから。その距離感ですね。

荻上 ぼくらの世代、東さんの世代でもそうだと思いますが「なんでデモしないの?」というようなことをよく言われるじゃないですか。政治へのフラストレーションが溜まりに溜まった状態で、その無意識に穴を穿つことによって爆発させたらいいじゃない、と。ただ、どこかの街でデモをしても、沿道の人にしかアピールできないし、テレビで数秒のニュースが流れても、その影響力というのはよくわからない。

ただ、ネットによって、デモはひとつの完成形を迎えるとぼくは思っています。いままでは行進していても、その町にいない人にはテレビを経由しなければ見えなかった。それも取り上げられるかはわからない。それがリツイート一発で「見える」ようになったことで、デモの政治性は大きく変わったし、動員力も変わっただろうと思います。関心がある潜在的なクラスターにしっかりリーチし、無関心層にまで刹那的な動員を巻き起こすようなネットの役割は、デモの潜在能力を最大化してくれるだろうと。

そうなったときに、「一般意志2.0」への運動論側からの批判として、不満を爆発させる前に小さなガス抜きをすることによって、かえって政治参加の芽を摘むのではないか、「意見を吸い上げている」という既成事実をつくることによって、デモの意義を空中分解させるんじゃないか、というものもあるんじゃないでしょうか。

 そりゃあるでしょうね。しかしぼくはデモをもともとそのレベルのものとしてしか理解していないので、見解の相違というやつですね。そういうリベラルな方々は、デモ参加者一人ひとりを「人間」だと考えているのでしょう。しかしぼくはデモはあくまでも「群れ」でしかないと思っている。

実際、いまでもデモは、統治権力の側も報道する側も「群れ」としか認知していないんじゃないですかね。あれは、「群れがあった」という事実をつくるために群れているわけで、そこから吸いあげるべき固有の意見があるわけではない。だからニコ生のコメントでいいんですよ。

荻上 彼らは「個人」ではなく「党派」であり、いまは「集合」であると。

 というか、群れとしての「圧力」を吸い上げるのも、それはそれで政治のひとつのかたちだと思うんですけどね。そもそも、パブリックコメントを書くとか、公聴会に行って質問するといった行為に比べて、デモに参加してダラダラ街を練り歩くというのは楽な行為ですよ。ただ歩いているだけなんだから。

ニコ生のコメントもそうですよね。楽な行為なんです。だからみな参加する。それでいいけれど、それならそれで当然軽視もされるわけでね。コストと責任の分担の問題だと思うんですよね。匿名で「www」とか打っている状態で、同時にその意見をひとつひとつ重みをもって聞いてほしいと言われても、それはないでしょう、と。

繰り返し言うけど、ぼくは単純に人間の政治的意見表明の回路をふたつに分けて考えるべきだと主張しているんです。自分の固有の意見として聞かれたいのなら、しかるべき手続きを踏む。それは当然だし、50年後、100年後の世界においても、おそらくいまとそれほど変わらないシステムが残っているんだと思いますよ。

ただそれとは別に、動物的な政治参加があってもいいわけです。そのために一般意志を可視化するシステムが必要だと。ネットでは「デモ」はつねに開かれていて、それはある種の「圧力」として機能する。しかもいまのデモよりもはるかに包括的に。いまはそれこそ永田町でデモをしなければデモとして認知されないわけですが、ぼくのプランにおいてはすべての審議会が、すべての省庁の内部会議に至るまでが中継され、そのまわりをバーチャルデモが取り囲むことになる。

荻上 いま、オープンガバメントの実現を叫ぶ声は大きい。たとえば省庁の会議には、議事録さえ公開されてないものも多いので、その公開を求めるというのは、みんなが支持すると思います。でも時間軸で考えれば、議事録というのは出てくるのが遅くなる。タイムラグがある。

 そうです。

荻上 その速度を動画によって、まずはリアルタイムにしよう、と。

 そう、リアルタイムです。

荻上 これもやはり、多くの人が賛成するでしょう。で、アウトプットしたなら、今度はフィードバックが必要です。長期軸のフィードバックは、たとえばまとめサイトのようなかたちで出てくるだろうけど、即時のフィードバックが会議に反映する仕組みも豊かにしていいじゃないか。アウトプット、フィードバック、双方の時間の単位を長短でより重層化することによって、一般意志の反映精度を高めていく、という面もあるわけですね。

 おっしゃるとおりです。

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■リテラシーは高まらない?

荻上 ただそこで恐らく、どの議論にフィードバック装置を導入するのか、選択の問題が起こってきますよね。

東 そこは難しいよね。

荻上 たとえば尖閣問題が例としてあげられましたが、外交に関する議論は秘匿情報もあって、難しい。

 そうそう、当然そうなるよね。

荻上 それこそコメントをする人たちの「民度」にもよります。2ちゃんまとめサイトなんかの現状を見てもそうだけど、いまのネットは、「たまたま焦点を当てられた人」に私刑を行うとか、特定の発言を抜粋して「マスゴミ」も真っ青のミスリーディングを行うとか、「集合」をまとめた「暴力装置」として活用されてもいる。

となれば、ガバメントのあり方の構想も重要だけど、ガバナンスをどうやって「2.0」に近づけるのか。政府の透明性をいかに確保するのかなどとはまた別の問題として、コメント力をいかに高めていくのか、という課題がどうしても残ると思うんです。いまのままだと、ヘイトスピーチが溢れかえって散々になるのではないか。

東 いや、それは違いますね。ぼくは単純に人のコメント力は高まらないと考えている。そもそもデモって欲求不満解消のためのようなものでね。そんなところで「リテラシーを高める」とか言っても、高まるわけがない(笑)。

コメントに関してもそう思っていて、それはシステムで対処するしかない。たとえばヘイトスピーチが一定の頻度で出てくるようになったら自動的にアカウントをブロックするとか、そうやってノイジーで粘着的な人たちを自動的に検出し、ある程度までに抑えるようなコントロールは検討してもいいかもしれない。

荻上 なるほど。

 ただ、それよりも大事なのは、ヘイトスピーチがあっても「見なければいい」ということです。結局のところ決めるのは熟議の参加者たちだから、その人たちが「うーん、この議題ってヘイトスピーチばっかりだよねー」「ま、無視していきますか」と一貫して無視していけば、それはそれでいいわけです。「あいつら無視しやがって」というコメントはずっと流れているでしょうけど、それもまた無視できる。権限としてはそれでいい。

荻上 「外れ値」を残すかどうかは参加者、プレイヤーたちの判断で決めるということですね。『一般意志2.0』ではアーレントなどにも言及されていて、そこで提示される熟議モデルの限界性も指摘されています。ただ一方でアーレントなどは、強大な差別、ときとしてジェノサイドなどを生み出してしまう人間へのブレーキとして、反実仮想としての熟議を提示していた面もありますよね。

 それはもちろんそうですよね。

荻上 差別のブレーキとして、ノイズの歯止めをつくりたいという欲求は必ず出てくるだろうと思うのですが、それはいかがですか。

 いや、だからおそらくは段階論だと思いますよ。やはり人類はそれなりに進歩しているわけで、100年、150年前に比べれば人権意識や平等意識は人類全体にずいぶん浸透したと考えていい、とぼくは思う。

荻上 ぼくも基本的にはそう思います。

 人間が他人を完全にモノとしてみなし、奴隷を酷使して殺してしまったり、子供を鉱山に送り込むといったことは、「減っている」という前提の上で……

荻上 もちろん「それでもまだある」ということもまた前提の上で……

東 そう、そのうえで、「それはなくなるべきだ」という理念くらいは全世界に行き渡っているという前提のもとで、はじめて成立する議論だと思いますよ。だから、どの国でも通用する提案だとは思わない。人間が他の人間を動物のように扱っていた時代が終わって、人間はすべて人間なんだ、お互い尊重するべきだという理念が非常に大事だ、というのは当然の話です。

しかし、人間がお互いに人間として最大限に尊重することは社会にとって、あるいは個人にとってもあまりにも大きな負担でもあり、それにより身動きできなくなっているような段階もある。というか、最初の「無限の他者」の話に戻るけれど、ぼくは現代はそういう時代だと思うんですよ。ぼくの『一般意志2.0』は、その前提のうえで今度はそれをどうやって逆側に解除するかという話でもあるので、そこは単純に段階を踏んで受け取ってもらいたいですね。

■「小さな公共」のアポリア

荻上 この世にはまだたくさんの不幸があり、それを最小化するための議論と、社会の枠=パイをどうやって広げるのかという議論は、両軸で議論をする必要がありますね。「夢」を語るのと同時に、無意識にある「悪夢」の根源を取り除いていく作業が必要になる。

繰り返しになりますが、政治を透明化するためにすべての審議会を中継しよう、という意見には多くの方が賛同されると思うんですね。そして、議論を見ている市民が「それ、おかしくね?」という違和感を届ける仕組みが必要にもなる。その両方を用意しうるひとつが、ニコ生のようなものなんじゃない? というように整理すれば、すっと理解できますね。もちろん、コメント装置はニコ生のような匿名性の強いものだけではなくて、たとえばツイッターのようなもう少し顕名性の強いものも含まれるでしょう。

 むろんそれはあっていい。

荻上 ぼくはTBSラジオで、「ニュース探究ラジオDIG」というツイッター連動のラジオ番組のパーソナリティをやっていますが、そこでもやはり、かつてのハガキ職人のような名物ツイート投稿者が生まれるんですよね。「この人、いいなぁ」っていう。

東 そう、それがすごく大事です。

荻上 一方で、匿名のヘイトスピーチもある。その両端をどう扱い、育てればいいのか。それがいわば「ガバナンス2.0」の問題であって、東さんは「動物として扱う」とおっしゃられたのですが、とはいえそのなかでも、取捨選択というか、ふるい分けが自生的になされるようになるのではないか、という期待もあるのですが、その点はどうでしょうか?

 動物の群れとしてあるコメントのなかで、光っているコメントが現れて、そのコメント主たちがいつのまにか熟議の参加者になっていたというフィードバックのプロセスは好ましいですよね。

つまらない例ですが、昨日、自転車についてちょっとツイートしたら「お前は自転車について詳しいのか」と絡まれてしまったんです。しかしながら自転車の安全性について、きっちり調べ上げた上でないと何も言ってはいけないのか? ぼくも昔は自転車乗っていたのに? とか思うわけです。現代ではこういうこと多いですよね。

たとえば「小さな公共」を推し進めたときに、この種の問題があちこちで出てくると思うんですよ。当事者と専門家、ステークホルダーだけが集まって議論すると、その緊密な空間から一見すると最適解に映るものが出てくる。けれど、その方向性そのものが世の中の空気とはまったくズレている、というようなことが。

むかしはその全体を調整する役割として「大文字の政治」というのがあったはずなんだけど、それはもうぶっ壊れていて、これからいわば「小委員会林立制」みたいになってくると、絶対にそのようなことが起こる。

自転車行政の話にしても、先進的な評論家やサイクリストから話を聞いていれば、いかにも先進的な結論になるのかもしれない。そしてこれからはそのような「小さな公共」しかないわけですが、だからこそ、その「小さな公共」に大衆の空気、素朴な疑問をどうやって挿み込んでいくのかというのが重要になる。ぼくの「一般意志2.0」はそこに呼応しているんですね。

荻上 自転車問題を複雑化させるのは、ぼくらは自転車にも乗れば歩行者でもあり、車も運転する、つまりすべてのプレイヤーになりえて、そのときどきのライフスタイルがたまたまそのいずれかに寄っているか、それで利害が変わってしまうという構図ですよね。そんな恣意的な政治性について無自覚に議論に参加してしまうことが、議論をまとまりのつかないものにさせている。

たとえばこれが車椅子の障害者や、電動シニアカーで移動せざるを得ない高齢者をどうするかということであれば、ブレは少ないと思うんですよ。「そういう人たちのケアをしなければいけない」と合意は得られる。

でも「ルール無視で自転車を乗り回していたおばちゃんを轢いたら俺が悪いのか」といったイレギュラーなヤジの飛びやすいテーマはまとまりにくい。でも、その「ヤジ」こそが、しばらく「夢」をみることを忘れていたこの社会に欠けていた面である、とも言えるかもしれない。

そこでツッコミとして思うのは、東さん自身はどちらかというとそういったヤジに苛立ちつづけてきた側の人なので、そういう装置をむしろ導入しようと呼びかけるのは意外というか……

 いや、だから粛々とブロックしつづけながら、粛々と記憶し参考にしつづけているわけですよ(笑)。実際問題、それでいいと思うんですよね。真面目に答えていたら気がおかしくなりますよ。ブロックするしかないと思う。

でもまあ、「こういう反応が来るんだ」ということだけ覚えておけばいいわけじゃないですか。それをやるとやらないでは大違いということですよね。

(つづく)
構成:柳瀬徹(シノドス編集部)
(2011年11月22日 五反田 コンテクチュアズ オフィスにて収録)

東浩紀(あずま・ひろき)
1971 年東京生まれ。哲学者・作家。現代思想、表象文化論、情報社会論など幅広いジャンルでの思索を続け、近年は小説も執筆。東京工業大学世界文化センター特任教授。早稲田大学文化構想学部教授。合同会社コンテクチュアズ代表、同社発行『思想地図β』編集長。『存在論的、郵便的』『クォンタム・ファミリーズ』(新潮社)、『郵便的不安たち』(朝日新聞社)、『動物化するポストモダン』(講談社現代新書)など著書多数。

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