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- 2011年12月15日 00:05
「一般意志2.0」を現在にインストールすることは可能か?(1)東浩紀× 荻上チキ
リンク先を見る一般意志2.0 ルソー、フロイト、グーグル
著者:東 浩紀
販売元:講談社
(2011-11-22)
販売元:Amazon.co.jp
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しかしながら、著者の思惑を超えて、すでにこの本は発売当初から大きな反響を呼び、著者を含んだインタラクティブな環境での「夢」の成形が始まりつつあります。
同時に、著者が杞憂するように、そこで語られる構想のみならず、哲学者自身の「伝統的な思想人への回帰」を示す書物ではないかとの誤解を招きかねないほど、可能性と裏表をなす危険を秘めた本であるともいえます。
そこで、シノドスジャーナル編集長・荻上チキが、『一般意志2.0』の射程と可能性について、著者との対話から真意を探ります。
構成:柳瀬徹(シノドス編集部)
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■物語回帰する空気のなかで
荻上 急な依頼でしたが、どうぞよろしくお願いします。
東 よろしくお願いいたします。
荻上 最後にお会いしたのは1年前でしたね。それにしても、東日本大震災と原発事故の経験に――表現への反映の有無はともかくとして――多くの人が影響されたかと思うのですが、東さんにとっての3.11以降とはどんな日々でしたか?
東 そうですね。ご存じのように、ぼくは放射線の低線量被曝については、専門家ではないから「わからない」という立場をとり続けています。そのうえでリスクを考えて行動する。この立場が理解されなかったのは辛かったですかね。
荻上 たとえば柄谷行人さんをはじめ、多くの書き手たちも運動化していきましたね。
東 そうですね。
荻上 社会が、可能なる脱原発へと舵をとることは大賛成です。一方で、震災後、「物語」を叫ぶ声があちこちでひびきわたり、すぐに立場を決めなければいけないという空気が濃かった気がしますね。
そんな状況にあって東さんは、震災以前の雑誌連載を、あえて大きな加筆をせずに刊行するという決断をされたわけですが、とはいえ3.11を経て『一般意志2.0』の読まれ方のモードも変わっただろうと思います。そこで、読者からの反響を少しだけ先回りするかたちで、東さんの議論の誤解されそうなところ、誤配されそうなところの真意をお話ししていただければと思うんですが。
東 チキさんぽいですね(笑)。ぼくにはあまり「誤解を先に潰す」なんて発想はないかな。だって何をやっても誤解するんだもの、人は。
荻上 まあ、そうなんですけど。
東 もうあきらめていますよ(笑)。
■人間の限界
荻上 では、誤解を恐れずにお話を伺います。『存在論的、郵便的』から『郵便的不安たち#』、『動物化するポストモダン』から『一般意志2.0』にいたるまで、東さんの議論の対象や、取り上げられているコンテンツ、語りの届け先などは、その都度で微妙に変わってきました。でも、議論の根底にあるものは一貫していますね。
たとえば東さんの処女作『存在論的、郵便的』からすでに、言語行為論的な思考をベースにしつつ、人間のコミュニケーションに必ず生じてしまう「誤配」というものをいかに縮減するのか、あるいは誤配を縮減できないのならば、誤配が生じるような空間であってもテキストの交換が容易になるような回路をどうやってつくるのか、そうした問題意識が刻み込まれていました。
なかには「オタク論から哲学に戻った」という判断をする人もいるかもしれないけれど、コアな部分は10年以上変わらずにあって、それが文化論やコミュニケーション論としては『動物化するポストモダン』などにつながったり、メディア論として『情報環境論』につながったりしていたものが、この度、問題意識を「政治」に結びつけたものとして『一般意志2.0』がひとつのかたちとして結実した、そうぼくは読みました。
人はコミュニケーションをする以上、「行為が伝える意味」だけでなく、「行為そのものが意味するもの」に左右されてしまう。いまこの社会でも、メッセージがパフォーマンスに絡め取られ、具体的な夢が政治として結実しにくい環境が広がっている。「いや、それでも冷静に、対話を続けていくべきだ」という倫理観を主張するリベラルな議論の重みというのは確かにある。でもそれは、人間性の限界というものを捉えきれていないのではないか、と東さんは異議申し立てをしてきたわけですよね。
東 ぼくが何を考え続けてきたかということですけど、それはいまチキさんが言ったとおりに「合理的な人間」の限界ということだと思います。
90年代、ぼくが思想家として活動を始めたときに、時代はすでにポストモダンから、いわゆるカルチュラル・スタディーズやポストコロニアルなど、左翼的な、きわめて政治性の高いものに移っていた。そこでぼくが見たものは、ぼくの直接の指導教官が高橋哲哉氏だったということも大きいのですが、「倫理」の圧倒的なインフレだったんですよね。
たとえば高橋氏は「無限の他者に対して無限に謝るべきだ」ということをおっしゃっていたわけですが、では「無限に謝る」とはいったい何か。ぼくは当時すでにデリダを研究していましたが、デリダはたとえば「エクリチュール」を問題にするときに、同時に「ペンが尽きる」「紙が尽きる」などと唯物論的な条件も重視していた。もしかして高橋さんはこの部分を軽視していないか? と思ったんですよね。
たしかに論理で詰めていけば「無限に謝る」ということになるのかも知れないけど、結局はそれを支えている物質的条件があり、無限には謝れないわけですよね。
われわれは有限な存在であって、その限界を抱えながら社会をつくっていかなくてはならないし、倫理をつくっていかなくてはいけないという、まあ、当たり前の話です。
その当たり前の話が、なぜかポストモダン系、フランス現代思想系の議論のなかで見えなくなっていた。そのことをずっと考えていたんですよね。そのなかにあって、デリダは有限性についてすごく考えている人だと思って、デリダをやっていたわけです。
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■「動物」再考
東 『存在論的、郵便的』という「思想書っぽい本」を一冊書いて、さて、と世の中を見渡した。限界がある人間、動物的な人間について考えることは、いまの社会について考える上で普遍的で重要なことなんじゃないか。でもなぜか、まっすぐに社会評論に向かわないで、ぼくはオタク評論に行ってしまった(笑)。
オタクという人たちは、いまでもそうだと思いますが、すごく「動物的」な人たちなんだと思います。動物的な快不快の感覚に忠実というかな。だからこそ、彼らのなかに人間の本性が現れていると思った。
〈人間の動物としての限界〉というのはぼくのなかでずっと生き続けている問題系で、そういう人間をまとめてどうやって民主主義をつくるかという課題への、ぼくなりのいまの時点での回答が『一般意志2.0』なんです。
荻上 従来の思想的な議論は、「人間」というものに過剰な責任とか、過剰な倫理観というものを期待しすぎていた面がある、ということですよね。
東 そうです。
荻上 その期待というのは、「インテリの後ろめたさ」がひとつの源泉になっていたと思います。「私たちはまだまだ倫理的な行いが足りないはずだ」「もっと、未解決の課題と向きあわなくてはならない」そうした反省の意識のもと、無限の社会問題と正面から向き合っていくのが、成熟した「市民」であり「人間」だという倫理観が根底にあるように思う。
でも、そのような思考の限界性を踏まえた、「本当に人間らしい」思想、人間の限界に向き合った政治がいかに可能なのかという問いを東さんは続けてきて、いま「政治」にたどり着いた、ということですよね。
実際、東さんはツイッターでも、いろいろなレスポンスに苛立たれているじゃないですか。膨大なリプライとのディスコミュニケーションに、書き手として向き合うのは無理だ、という体感をお持ちなのかなと思って見ているのですが。書き手に無限の応答を求めるのは不可能だよ、というような。
東 「熟議の限界」ということですよね。それはネットを見ていれば誰でもわかることだし、3.11以降の混乱でも示されていたと思いますね。
さきほどもあげた例ですが、低線量被曝の健康被害がどれほどのものであるか、人々はいま膨大に「熟議」を重ねているわけですが、ほとんど何ひとつ結論は出ていない。
熟議すればいいってもんじゃない、ということは、いろいろなところで明らかになっていると思います。人間の調べられる量は限られているわけだし、とくにインターネットは「同じ情報」を大量に集めることに適したメディアなので、あっという間にその人の時間を同じものだけで飽和させてしまう。
荻上 エコーチェンバーに閉じこもる、ということですね。
東 そう。同質のもので埋め尽くすのにすごく向いているメディアなんです。表面的にはインターネットによって人々の情報処理能力が高まったように見えますが、かえってその手前の認知能力の限界があぶり出された。それがここ10年だったと思います。
■「熟議」を可能とする環境
荻上 実際は、低線量被曝に関しては、暗黙には合意は形成されつつあると思うんです。科学的には未決着であっても、しかしとりあえず、政治的にはしきい値は「ない」と判断して対処するのが望ましい。それくらいの合意は、多くの人が持てていると思う。社会の多くの問題も、ゆるやかな合意はその都度、形成されている。
しかしネットには「外れ値」がいつまでも消えずに残り続けるという問題があって、議論のかたちをつくれば政治的合意が得られるような問題であっても、「外れ値」にいる人たちが集合をつくり、合意側の人たちを「敵」とみなして攻撃し続けることも可能になる。さまざまな陰謀論というのは、その典型的な例ですね。
ネットでは「熟議」ができないのかどうかはわからないし、部分的にはたぶん、できる。でもそれは、ひとつの会議室に入る人数が限られている場合には「できる」のだけど、会議室の周りを数万もの人が取り巻いて、延々とヤジを飛ばし続けているようないまのネット状況では、なかなか難しいだろうと思う。
その意味では、東さんがこの本であげている「政治空間をニコ生化する」という案は、まさしく会議室にヤジを飛ばしているような環境にも映るので、それはむしろ「熟議」を妨害し、合意形成にとっては邪魔なメカニズムなのではないか? と違和感を覚える人も多いと思うんです。コメント「民度」の問題も含めて、議論の正当性が阻害されかねないという懸念があるのではないか。
東 「民度」ね(笑)。
荻上 直感ではやはりそう思うんですよね。『一般意志2.0』の骨子としてある、ニコ生的なもので議論をモニターするというアイデアは「熟議でもなく直接民主主義でもない」とおっしゃる、そのポイントをもう一度語りなおしていただければと思うのですが。
東 まず第一に、ぼくは人間社会について、あるいは人間という存在について、人間である部分と動物である部分、別の言葉で言えば「固有名で発言する部分」と「匿名でしか発言しない部分」を分けるべきだと考えています。そして、分けつつも、そのふたつは共存しているべきだと考えている。したがって、ぼくは、匿名万歳や集合知万歳ではないけれど、逆に、「人間はつねに名を明かし、しっかりと行動すべき」というのもありえないと思っている。まずこの原則がぼくのなかにある。
政治的な討議は一般に、自分の身元を明らかにし、知識を持ち、熟慮の上で議論に参加するべきものだと思われていますね。しかし、ぼくがこの本で述べているのは、そうではない参加のしかたもあっていいのではないか、という提案です。ただし、それは同時にすごく制限されたものにもなる。その制限された参加のしかたが、たとえばヤジとか拍手のようなものでもいいのではないか、ということです。したがってコメントには民度は必要ないんですよ。
古代のアゴラで、政治家たちが演説をしていたとする。そのときその周りにはもちろん政治家でもなんでもない人たち、市民が取り巻いているわけですね。その市民たちがヤジを飛ばしたり拍手をしたりしていた。彼らの意見のひとつひとつは演説している政治家にはわからない。でも「この主張が受けている」とか「これは方向が違う」とか、一種のフィードバックは起きているわけですよね。そのフィードバックを回復すべきであるというのが『一般意志2.0』の骨子です。
「大衆の無意識に従え」というわけではなく、かといって大衆の意志を排除して熟議だけで物事を決めろというのでもない。熟議と大衆の無意識のあいだのフィードバックをどうやってつくるか、それが重要だと考えています。
この本には書いていないけど、古来、多くの「みんなで決める」というのは、おそらくそういうフィードバックのプロセスだったと思うんですね。たとえば100人で何かを決めるとして、そのなかの専門家10人に決定を委ね、彼らが密室で決めたことに90人が従う、というのはやはりかなり人工的な制度です。いまはそうなってしまっていますがね。自然なかたちは、おそらく、10人が決めるその周りを90人が取り巻いて、その「空気」を見ながら10人も議論していたというものだと思いますよ。
荻上 その10人が、それぞれの利害代表者で構成される、という感じでしょうか。
東 いや、「代表者」というのもちょっと違いますね。社会が明確に分節化されている状態でないと「代表」というのは成立しない。ぼくたちの社会は複雑になりすぎて分節化は不可能になっていて、このセクターはこの人が代表する、というようにはできなくなっていると思います。
荻上 そうですね、ますます。
東 自分自身の生活のなかでも、この部分の利害はあいつが代表、こっちの部分はこいつに代表してもらおう、となっている。
とにかく、ぼくの理想はある種の「擬似」直接民主制にあるわけです。あくまでも擬似でしかないのですが、それをもう一度高度な情報技術のもとで追求してみる。大衆のヤジとかリアクションを熟議のなかに取りこむシステムをつくることによって、民主主義が本来もっていたダイナミズム、バイタリティを回復するというのが『一般意志2.0』のプランです。
(つづく)
(2011年11月22日 五反田 コンテクチュアズ オフィスにて収録)
東浩紀(あずま・ひろき)
1971年東京生まれ。哲学者・作家。現代思想、表象文化論、情報社会論など幅広いジャンルでの思索を続け、近年は小説も執筆。東京工業大学世界文化センター特任教授。早稲田大学文化構想学部教授。合同会社コンテクチュアズ代表、同社発行『思想地図β』編集長。『存在論的、郵便的』『クォンタム・ファミリーズ』(新潮社)、『郵便的不安たち』(朝日新聞社)、『動物化するポストモダン』(講談社現代新書)など著書多数。
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「ひとつの誤解はまず、民主主義2.0とは、情報技術に支援された、新しい熟議民主主義だというものである(……)すべての市民が政策決定に電子的手段で参加する新たな直接民主主義の実現。ネットにそのような夢を託しているひとは、いまでもじつに多い。東浩紀氏は『一般意志2.0』(講談社)の冒頭に「筆者はこれから夢を語ろうと思う」という一行を置きました。その言葉の通り、あまりにも大きく、そして未完成の「夢」が収められたこの本は、まるで将来の読者にこそ一縷の期待を託し、いまは息をひそめてその到来を待望しているかのようにも映ります。
他方でもうひとつの誤解は、民主主義2.0とは、市民の個人情報を徹底的に収集し分析し、それをもとに最適解を数理的に決定していくような、いわば「データベース民主主義」だというものである(……)
しかし本書が主題としてきた一般意志2.0の構想は、それら両者の組み合わせとして考えられている。人間と動物、論理と数理、理性と感情、ヘーゲルとグーグル――それらさまざまな対立を『アイロニー』で併存させ、接合したところに、本書が構想する民主主義2.0は立ち現れる」(『一般意志2.0――ルソー、フロイト、グーグル』p215-216)
しかしながら、著者の思惑を超えて、すでにこの本は発売当初から大きな反響を呼び、著者を含んだインタラクティブな環境での「夢」の成形が始まりつつあります。
同時に、著者が杞憂するように、そこで語られる構想のみならず、哲学者自身の「伝統的な思想人への回帰」を示す書物ではないかとの誤解を招きかねないほど、可能性と裏表をなす危険を秘めた本であるともいえます。
そこで、シノドスジャーナル編集長・荻上チキが、『一般意志2.0』の射程と可能性について、著者との対話から真意を探ります。
構成:柳瀬徹(シノドス編集部)
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■物語回帰する空気のなかで
荻上 急な依頼でしたが、どうぞよろしくお願いします。
東 よろしくお願いいたします。
荻上 最後にお会いしたのは1年前でしたね。それにしても、東日本大震災と原発事故の経験に――表現への反映の有無はともかくとして――多くの人が影響されたかと思うのですが、東さんにとっての3.11以降とはどんな日々でしたか?
東 そうですね。ご存じのように、ぼくは放射線の低線量被曝については、専門家ではないから「わからない」という立場をとり続けています。そのうえでリスクを考えて行動する。この立場が理解されなかったのは辛かったですかね。
荻上 たとえば柄谷行人さんをはじめ、多くの書き手たちも運動化していきましたね。
東 そうですね。
荻上 社会が、可能なる脱原発へと舵をとることは大賛成です。一方で、震災後、「物語」を叫ぶ声があちこちでひびきわたり、すぐに立場を決めなければいけないという空気が濃かった気がしますね。
そんな状況にあって東さんは、震災以前の雑誌連載を、あえて大きな加筆をせずに刊行するという決断をされたわけですが、とはいえ3.11を経て『一般意志2.0』の読まれ方のモードも変わっただろうと思います。そこで、読者からの反響を少しだけ先回りするかたちで、東さんの議論の誤解されそうなところ、誤配されそうなところの真意をお話ししていただければと思うんですが。
東 チキさんぽいですね(笑)。ぼくにはあまり「誤解を先に潰す」なんて発想はないかな。だって何をやっても誤解するんだもの、人は。
荻上 まあ、そうなんですけど。
東 もうあきらめていますよ(笑)。
■人間の限界
荻上 では、誤解を恐れずにお話を伺います。『存在論的、郵便的』から『郵便的不安たち#』、『動物化するポストモダン』から『一般意志2.0』にいたるまで、東さんの議論の対象や、取り上げられているコンテンツ、語りの届け先などは、その都度で微妙に変わってきました。でも、議論の根底にあるものは一貫していますね。
たとえば東さんの処女作『存在論的、郵便的』からすでに、言語行為論的な思考をベースにしつつ、人間のコミュニケーションに必ず生じてしまう「誤配」というものをいかに縮減するのか、あるいは誤配を縮減できないのならば、誤配が生じるような空間であってもテキストの交換が容易になるような回路をどうやってつくるのか、そうした問題意識が刻み込まれていました。
なかには「オタク論から哲学に戻った」という判断をする人もいるかもしれないけれど、コアな部分は10年以上変わらずにあって、それが文化論やコミュニケーション論としては『動物化するポストモダン』などにつながったり、メディア論として『情報環境論』につながったりしていたものが、この度、問題意識を「政治」に結びつけたものとして『一般意志2.0』がひとつのかたちとして結実した、そうぼくは読みました。
人はコミュニケーションをする以上、「行為が伝える意味」だけでなく、「行為そのものが意味するもの」に左右されてしまう。いまこの社会でも、メッセージがパフォーマンスに絡め取られ、具体的な夢が政治として結実しにくい環境が広がっている。「いや、それでも冷静に、対話を続けていくべきだ」という倫理観を主張するリベラルな議論の重みというのは確かにある。でもそれは、人間性の限界というものを捉えきれていないのではないか、と東さんは異議申し立てをしてきたわけですよね。
東 ぼくが何を考え続けてきたかということですけど、それはいまチキさんが言ったとおりに「合理的な人間」の限界ということだと思います。
90年代、ぼくが思想家として活動を始めたときに、時代はすでにポストモダンから、いわゆるカルチュラル・スタディーズやポストコロニアルなど、左翼的な、きわめて政治性の高いものに移っていた。そこでぼくが見たものは、ぼくの直接の指導教官が高橋哲哉氏だったということも大きいのですが、「倫理」の圧倒的なインフレだったんですよね。
たとえば高橋氏は「無限の他者に対して無限に謝るべきだ」ということをおっしゃっていたわけですが、では「無限に謝る」とはいったい何か。ぼくは当時すでにデリダを研究していましたが、デリダはたとえば「エクリチュール」を問題にするときに、同時に「ペンが尽きる」「紙が尽きる」などと唯物論的な条件も重視していた。もしかして高橋さんはこの部分を軽視していないか? と思ったんですよね。
たしかに論理で詰めていけば「無限に謝る」ということになるのかも知れないけど、結局はそれを支えている物質的条件があり、無限には謝れないわけですよね。
われわれは有限な存在であって、その限界を抱えながら社会をつくっていかなくてはならないし、倫理をつくっていかなくてはいけないという、まあ、当たり前の話です。
その当たり前の話が、なぜかポストモダン系、フランス現代思想系の議論のなかで見えなくなっていた。そのことをずっと考えていたんですよね。そのなかにあって、デリダは有限性についてすごく考えている人だと思って、デリダをやっていたわけです。
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■「動物」再考
東 『存在論的、郵便的』という「思想書っぽい本」を一冊書いて、さて、と世の中を見渡した。限界がある人間、動物的な人間について考えることは、いまの社会について考える上で普遍的で重要なことなんじゃないか。でもなぜか、まっすぐに社会評論に向かわないで、ぼくはオタク評論に行ってしまった(笑)。
オタクという人たちは、いまでもそうだと思いますが、すごく「動物的」な人たちなんだと思います。動物的な快不快の感覚に忠実というかな。だからこそ、彼らのなかに人間の本性が現れていると思った。
〈人間の動物としての限界〉というのはぼくのなかでずっと生き続けている問題系で、そういう人間をまとめてどうやって民主主義をつくるかという課題への、ぼくなりのいまの時点での回答が『一般意志2.0』なんです。
荻上 従来の思想的な議論は、「人間」というものに過剰な責任とか、過剰な倫理観というものを期待しすぎていた面がある、ということですよね。
東 そうです。
荻上 その期待というのは、「インテリの後ろめたさ」がひとつの源泉になっていたと思います。「私たちはまだまだ倫理的な行いが足りないはずだ」「もっと、未解決の課題と向きあわなくてはならない」そうした反省の意識のもと、無限の社会問題と正面から向き合っていくのが、成熟した「市民」であり「人間」だという倫理観が根底にあるように思う。
でも、そのような思考の限界性を踏まえた、「本当に人間らしい」思想、人間の限界に向き合った政治がいかに可能なのかという問いを東さんは続けてきて、いま「政治」にたどり着いた、ということですよね。
実際、東さんはツイッターでも、いろいろなレスポンスに苛立たれているじゃないですか。膨大なリプライとのディスコミュニケーションに、書き手として向き合うのは無理だ、という体感をお持ちなのかなと思って見ているのですが。書き手に無限の応答を求めるのは不可能だよ、というような。
東 「熟議の限界」ということですよね。それはネットを見ていれば誰でもわかることだし、3.11以降の混乱でも示されていたと思いますね。
さきほどもあげた例ですが、低線量被曝の健康被害がどれほどのものであるか、人々はいま膨大に「熟議」を重ねているわけですが、ほとんど何ひとつ結論は出ていない。
熟議すればいいってもんじゃない、ということは、いろいろなところで明らかになっていると思います。人間の調べられる量は限られているわけだし、とくにインターネットは「同じ情報」を大量に集めることに適したメディアなので、あっという間にその人の時間を同じものだけで飽和させてしまう。
荻上 エコーチェンバーに閉じこもる、ということですね。
東 そう。同質のもので埋め尽くすのにすごく向いているメディアなんです。表面的にはインターネットによって人々の情報処理能力が高まったように見えますが、かえってその手前の認知能力の限界があぶり出された。それがここ10年だったと思います。
■「熟議」を可能とする環境
荻上 実際は、低線量被曝に関しては、暗黙には合意は形成されつつあると思うんです。科学的には未決着であっても、しかしとりあえず、政治的にはしきい値は「ない」と判断して対処するのが望ましい。それくらいの合意は、多くの人が持てていると思う。社会の多くの問題も、ゆるやかな合意はその都度、形成されている。
しかしネットには「外れ値」がいつまでも消えずに残り続けるという問題があって、議論のかたちをつくれば政治的合意が得られるような問題であっても、「外れ値」にいる人たちが集合をつくり、合意側の人たちを「敵」とみなして攻撃し続けることも可能になる。さまざまな陰謀論というのは、その典型的な例ですね。
ネットでは「熟議」ができないのかどうかはわからないし、部分的にはたぶん、できる。でもそれは、ひとつの会議室に入る人数が限られている場合には「できる」のだけど、会議室の周りを数万もの人が取り巻いて、延々とヤジを飛ばし続けているようないまのネット状況では、なかなか難しいだろうと思う。
その意味では、東さんがこの本であげている「政治空間をニコ生化する」という案は、まさしく会議室にヤジを飛ばしているような環境にも映るので、それはむしろ「熟議」を妨害し、合意形成にとっては邪魔なメカニズムなのではないか? と違和感を覚える人も多いと思うんです。コメント「民度」の問題も含めて、議論の正当性が阻害されかねないという懸念があるのではないか。
東 「民度」ね(笑)。
荻上 直感ではやはりそう思うんですよね。『一般意志2.0』の骨子としてある、ニコ生的なもので議論をモニターするというアイデアは「熟議でもなく直接民主主義でもない」とおっしゃる、そのポイントをもう一度語りなおしていただければと思うのですが。
東 まず第一に、ぼくは人間社会について、あるいは人間という存在について、人間である部分と動物である部分、別の言葉で言えば「固有名で発言する部分」と「匿名でしか発言しない部分」を分けるべきだと考えています。そして、分けつつも、そのふたつは共存しているべきだと考えている。したがって、ぼくは、匿名万歳や集合知万歳ではないけれど、逆に、「人間はつねに名を明かし、しっかりと行動すべき」というのもありえないと思っている。まずこの原則がぼくのなかにある。
政治的な討議は一般に、自分の身元を明らかにし、知識を持ち、熟慮の上で議論に参加するべきものだと思われていますね。しかし、ぼくがこの本で述べているのは、そうではない参加のしかたもあっていいのではないか、という提案です。ただし、それは同時にすごく制限されたものにもなる。その制限された参加のしかたが、たとえばヤジとか拍手のようなものでもいいのではないか、ということです。したがってコメントには民度は必要ないんですよ。
古代のアゴラで、政治家たちが演説をしていたとする。そのときその周りにはもちろん政治家でもなんでもない人たち、市民が取り巻いているわけですね。その市民たちがヤジを飛ばしたり拍手をしたりしていた。彼らの意見のひとつひとつは演説している政治家にはわからない。でも「この主張が受けている」とか「これは方向が違う」とか、一種のフィードバックは起きているわけですよね。そのフィードバックを回復すべきであるというのが『一般意志2.0』の骨子です。
「大衆の無意識に従え」というわけではなく、かといって大衆の意志を排除して熟議だけで物事を決めろというのでもない。熟議と大衆の無意識のあいだのフィードバックをどうやってつくるか、それが重要だと考えています。
この本には書いていないけど、古来、多くの「みんなで決める」というのは、おそらくそういうフィードバックのプロセスだったと思うんですね。たとえば100人で何かを決めるとして、そのなかの専門家10人に決定を委ね、彼らが密室で決めたことに90人が従う、というのはやはりかなり人工的な制度です。いまはそうなってしまっていますがね。自然なかたちは、おそらく、10人が決めるその周りを90人が取り巻いて、その「空気」を見ながら10人も議論していたというものだと思いますよ。
荻上 その10人が、それぞれの利害代表者で構成される、という感じでしょうか。
東 いや、「代表者」というのもちょっと違いますね。社会が明確に分節化されている状態でないと「代表」というのは成立しない。ぼくたちの社会は複雑になりすぎて分節化は不可能になっていて、このセクターはこの人が代表する、というようにはできなくなっていると思います。
荻上 そうですね、ますます。
東 自分自身の生活のなかでも、この部分の利害はあいつが代表、こっちの部分はこいつに代表してもらおう、となっている。
とにかく、ぼくの理想はある種の「擬似」直接民主制にあるわけです。あくまでも擬似でしかないのですが、それをもう一度高度な情報技術のもとで追求してみる。大衆のヤジとかリアクションを熟議のなかに取りこむシステムをつくることによって、民主主義が本来もっていたダイナミズム、バイタリティを回復するというのが『一般意志2.0』のプランです。
(つづく)
(2011年11月22日 五反田 コンテクチュアズ オフィスにて収録)
東浩紀(あずま・ひろき)
1971年東京生まれ。哲学者・作家。現代思想、表象文化論、情報社会論など幅広いジャンルでの思索を続け、近年は小説も執筆。東京工業大学世界文化センター特任教授。早稲田大学文化構想学部教授。合同会社コンテクチュアズ代表、同社発行『思想地図β』編集長。『存在論的、郵便的』『クォンタム・ファミリーズ』(新潮社)、『郵便的不安たち』(朝日新聞社)、『動物化するポストモダン』(講談社現代新書)など著書多数。
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著者:東 浩紀
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