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リスク認知のゆがみ方 筒井淳也

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福島第一原発は、記事執筆の現時点でも予断を許さない状態である。このような段階で人々のリスク認知のバイアスについて記事を書くと事後的には不適切になる可能性もあるが、それでも、救済を必要としている人々の状態が深刻である地震後5日の段階で、報道・一般の人々の会話は、あまりに原発事故に偏っていた。
原発が「事後的に」どうなるかとは独立に、リスク認知のバイアスについて考えることはそれなりに重要だ。なぜなら、私たちのリスク認知は、限られた資源の 配分のあり方に直結するからである。リスク認知が不適切だと、私たちが作り出し提供する大事なお金や労働が、極めて非効率的に配分されてしまうことがある のだ。

◇心の「重み付け」によってゆがむリスク評価◇
リスク認知のバイアスは、簡潔に言えばリスクについての「心理的重み付け」によって生じる。

有名なのは行動経済学の知見で、それは「人間はリスクについて、利得についてはリスク回避的(貰えるものは利得が少なくても確実にもらう)であり、損失についてはリスク追及的(損失額が大きくとも確率が低ければリスクをとる)」といったものである。

他方で、原発リスクといった事象については、心理学のリスク論の方がよく当てはまると言える。ごくごく簡単にいえば、以下のような場合に人々はリスクを高く見積もる傾向がある。

(1)リスク・ターゲットによるバイアス
誰が損害をこうむるのかによって、リスク認知は大きく異なってくる。簡単にいえば、特に自分でコントロールしやすいリスク(喫煙など)については、一般人→家族→本人の順にリスク評価が高く見積もられる。つまり他人からみて危険な行為や習慣でも、当人は「平気だ」と思ってやってしまう。

しかしこれは原発や温暖化などの、自分でコントロールしにくいリスクについてはあまりあてはまらない。

(2)リスクの種類によるバイアス
いろいろあるが、イメージ的に「恐ろしい」リスクや、「反自然的」なリスクは、高く評価されやすい、という実証結果がある。「反自然的」というのは少しわかりにくいが、原発事故の損害はこういった要因によって高く見積もられると考えることもできよう。同様に、BSEや航空機事故のリスクが高く見積もられてしまうのも、こういった「心の重み付け」のクセによるものだ。

バイアスの少ない、より客観的なリスクの計算は専門家がする必要があるが、ちょっとした材料があれば、一般人にも可能だ。たとえばBSEと、交通事故や(失業に起因する)自殺とで、実際に亡くなった人の数を比較する、などについては、必ずしも専門的知見が必須であるわけではない。もちろん健康被害についての見積もりにはより専門的な治験が必要になるだろうが。

他方で専門家の方も、たとえば放射線量について「時間あたり◯◯マイクロシーベルト」といった客観的数値を公表する際には、日常的に人々がとっているリスク(レントゲン撮影や喫煙)などに「換算」した情報も同時に伝えることが、より冷静なリスク認知につながるといえる。

ここで思い出してほしい。私たちは、震災や原発といった重大な事象によってはじめてリスクに直面しているのではなく、日常的に常にリスクをとって生活している。家から100メートル離れたところにあるコンビニに買い物にいくリスクは、もしかしたら重大な事件や災害によって被害を被るリスクとそれほど変わらないのかもしれない。しかし、えてして有限な報道の取材資源は、前者に大きく偏ってしまうものである。おそらく甚大な「二次災害」である経済問題についても、少なくとも現時点では過度に低いリスク評価がされていると言わざるをえない。

比較的冷静なリスク評価の情報は、ある程度情報リテラシーのある人にとってみれば「どこにでもある情報」にみえてしまうものである。しかしそれは決して多くの人にとって当たり前の情報ではない。より適切なリスク・コミュニケーションによって、より多くの人々が幸せになることができる。特に報道機関の人々に、「バランスのとれた情報伝達資源の配分」と、「分かりやすいリスク評価の材料の伝達」をお願いしたい。

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◇社会学者が考える「リスク」◇
(以上は、要するに(主に理科系の)専門家によるより適正なリスク把握を分かりやすく周知していくことが必要だ、というお話である。以下は、現在の時点ではあまり重要な話ではないかもしれないので、スキップしても構わない。)

社会学者によるリスク論は、また別の側面のリスク認知の問題を提起している。先程は、人々は日常生活にくまなく存在するリスクを軽視し、重大な事件に伴うリスクを高く評価する、と言ったが、実はこれによって多くの人々は心理的安定を保っている、という側面がある。要するに、日々存在するリスクについては、それらを心から遮断しないと、安定的な日常生活など不可能になる、ということである。イギリスの社会学者A.ギデンズはこういったこころの遮断機能を、「保護皮膜(protective cocoon)」と呼んだ。

もし私たちが、常に日常的に存在しうるリスク(特に交通事故や食品のリスク)について考え始めると、それこそ身動きが取れなくなってしまうかもしれない。また、何も食べられなくなってしまうかもしれない。こういったリスクを、「保護皮膜」によってこころの中に入れないようにすることで(要するに「思考をストップ」することで)、私たちはある程度安定した日常生活を可能にしている、という側面がある。「保護皮膜」はたしかに適正なリスク認知の歪みであるが、ある程度は必要悪でもある。

「重大なリスク」の突発的な発生は、人々のこころの保護皮膜の構造を変えてしまう力を持っている。それによって人々は精神的に不安定な状態に陥り、日常生活に支障をきたすようになる。言い方は難しいが、「こころの強い」人とは、この組み換えを早い時間で完了させて、安定的な精神状態を取り戻すことができるような人である。しかしそうではない場合、人は嗜癖や強迫的行動といったあまり「前向き」ではない方法で安定を維持しようとすることになる。それもできなければ、パニックが生じる。

要するに、客観的なリスク評価は効率的な資源配分(ひいては人々の幸福)にとって重要だが、実際には多くの人々にとって、リスクの存在を「忘れる」こと、あるいはリスクを評価する活動を停止することが、日常生活の基盤である、という面もあるのだ。

以上を、語弊をいとわずにくだいた言い方で表現するとすれば、「考えなさすぎると不幸になるが、かといって考えすぎてハマることもまた不幸につながる」となるだろうか。

ひとつの処方箋としては、客観的なリスク評価については専門家に対して「慎重な信頼」を与え、リスクについて考えることがあまりに心の負担になるような人は、あえてあまり考えずに日常生活のリズムを守る、ということになるだろう。私たちの多くは、不規則な生活に長期的に耐えられるほど強くはないのである。

筒井淳也(つつい・じゅんや)/記事一覧
1970 年生まれ。一橋大学社会学部卒業、同大大学院社会学研究科博士課程単位取得退学。博士(社会 学)。現在、立命館大学産業社会学部准教授。専門は家族社会学・計量社会学。著書に『制度と再帰性の社会学』(ハーベスト社、2006)、『親密性の社会 学』(世界思想社、2008)など。

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