記事

『ホームレス博士』――まぼろしの「まえがき」に代えて 水月昭道

リンク先を見る

先に申し上げておくが、この話はフィクションである。実在の人物・団体・事件などには、いっさい関係しない。この春、ひとりの男が「去る」ことを決意した。
10年を過ごしたアカデミアからついに引退する。
名はシンジという。博士号を持っている。
象牙の塔に見切りをつけ必死に「ただの人」になろうとしていた。
「―― 任用期間の終了に伴い、退職手続きをお願いします」
シンジがため息をつく「今年もついにきたか……」
大学の非正規教員であるシンジは、数年に一度、退職を求められる。雇用継続の期待権なるものを発生させない「仕組み」に従わされるためだ。今回は3年だったが、最長でも5年どまりである。
いわゆる非常勤講師と言われる先生方は、もっと酷い。毎年、強制的(自動的に)に退職させられる。そして次の年、運が良ければ再度、一年限りの雇用契約を結び直す。
そんないつもの理不尽きわまりない書類が郵送されてきた。文言は、もはや見慣れたもので驚きもしなかったが、今回だけはなぜかいつもと違う感情が芽生えていた。
シンジはこれまで、忸怩たる気持ちについて大概ぼやき尽くしたつもりである「諦めた・しようがない・どうしようか・死んだほうがマシ・自分は奴隷だ・あいつはクズだ・仕事よこせ・おまえが辞めろ・金返せ、いや寄こせ・ボケ……」
それでも足りなかったのか、今年はそこに「腹が立つ・馬鹿野郎・シメるぞテメエ」の3つが晴れて加わった。

我が国の博士が就職難に陥って早20年になる。
大学生の就職率が60%台と騒がれているが、博士の実質就職率はずっと5割を切っている。シンジも、10年以上「非正規雇用」が続いている。年収は200万円を切る程度だ。その一方で、仕事の中身は恐ろしく多い。大学での研究の他、各種の雑用、シンポジウムの開催、地域連携業務、講義、外部資金の調達、学生指導など多岐にわたる。
非正規職でそんなに多くの業務が賄われていると知れば、市民はあきれるかも知れない。
だが、大学内に驚く者は誰ひとりとしていない。
日本の大学は、湯浅誠氏も驚くほど完璧に、ハケン村と化している。
『高学歴ワーキングプア』という本にも書いてあったが、開講されている科目の50%以上を非正規の先生が受け持っている大学すら珍しくない。
そんな厳しい背景からか、10万人の博士が食うや食わずの路頭に迷っているそうな。
それでも、博士たちの苦境はこんなふうに切り捨てられてきた。
「就職できないのは、自己責任。努力が足りないからだ。いやいや、そもそも能力が無いからだ……うんぬん」
シンジもまた、専任の先生方から今までに数え切れないほどこうした〝ありがたい〟ご助言を頂いた。
「まだまだ足りないところがあるのだろう」素直にそう信じて堪えてきた。
だから、「修行期間だ」と命じられるままに、なんでもやった。使いっ走りだけでなく、教授の代理授業だって。院生指導にもそれなりに熱を入れた。
そもそも、昨今の専任教員は少子化による人員削減のあおりをうけ、忙しすぎて学生の面倒を見ている暇などない。研究する暇すらない。授業だってままならない。そういう些末なことは、下々(非正規)のやるべき当然の仕事の範疇にあった。
シンジが教授に代わって面倒を見ていた院生は三人いた。
どいつも二流大学の常で出来はさほど良くなかった。
そのうちの最年長者が博士課程の三年生になった頃、何を思ったか、突如耳を疑うようなことを言い出した。
「教員公募に出してみようと思います」
「学位もとっていないのに?」
「だめもとです」
シンジは呆れかえっていた「一流大出身の俺でも、10年待ってるんだぞ。おまえは何様だ」
半年後のある日、件の院生が研究室の扉をバンと強く開け放ち、大股で入ってきた。
「通りました」狂喜しながら言った。
「え?」
「准教授です」
シンジは生返事をした「へぇ『助教』か、よかったね」
「いえ、『准教授』です」ムッとした声が返ってきた。思わず振り返って顔を見た。誇らしげな院生と目があった。
頭を殴られたような……とはよく聞くが、シンジは、そんな程度では到底表せないほどのショックを受けていた。
少子化に加え、政府の財政難で補助金が減らされている各地の大学に、秘策として最近流行りだしたことがある。若い人間を安い給与で雇い、昇給その他を恐ろしく低いベースに抑え続けるというものだ。
悔し紛れに思った「おまえはそいつだろう、どうせ」
手放しで喜べないにせよ、それでも、アカデミアには、新たな雇用形態が定着しようとしていた。一方で、シンジ達「ロスジェネ世代」に対しては完全な切り捨て状態に入っていた。彼らに仕事が見つかる希望などどこにもなかった。
「いつも俺たちの世代ばかり貧乏くじを引く」ずんと気分が重くなる。

ある日、フィールド調査にチームででかけた。
歓待してくれる町の人々に教授が挨拶する。
シンジを指さして紹介した「うちの研究員です」
「よろしく、シンジさん」町のお偉いさんが片手を挙げてにこやかに微笑みかける。
ぺこりとお辞儀をする。
シンジの次に院生の番がきた。
「彼は今度○○大学の准教授になります」教授が持ち上げる。
「そうですか。ひとつうちの町にも力を貸して下さい、先生」先ほどの貫禄ある親父が両手をとって頭を下げた。
院生の鼻の穴が大きく広がっているのを、シンジは見逃さなかった。
その晩、歓迎の宴がひらかれた。
「ささ、先生」と顔役が席に案内する。
教授の後をシンジがついていこうとしていた。
すると……、
「先生の席はこちらですから」案内役がシンジを軽くスルーして、代わりに後ろにいた院生に声をかけた。
シンジの顔が形容できないほどゆがんだ瞬間だった。
「シンジさん、すみません」院生が殊勝を装う。だが、堂々と教授のすぐ後ろ――シンジの前――に座った。町の人との会話は、明らかに教授と次期准教授――いまはまだ一介の院生――を中心として進んでいた。
先生と呼ばれ、弱冠27歳のソイツは何度も胸を反らしていた。
「ろくに教えた経験もないくせに」腸が煮えくりかえった。

大学に戻ってから、院生は無邪気に話しかけてきた。
「いやあ、先生っていい身分っすね」
夢見心地のそいつを前にして、おまえはまだ学生だろうがボケ、と胸の中で毒づいた。
そこに教授が現れた。
「お疲れ様です」シンジはすかさず腰を浮かしながら挨拶をする。
「オゥ」教授はチラッと横目を向けただけですぐに、こちらが本命とばかりに壁際に座る院生のほうに首を回した「こないだの町議がな、君によろしくってさ」
若造の顔が上気していた。
見たくないものを見てしまった、と胃が痛くなる。
「それはそうと、おまえの次はどうなった?」思い出したように教授がシンジを憐れんだ目で見つめた。おまけのようだった。
「まだ決まってません」
「そうか、大変だな。もう40歳だってのにな」
完璧な上から目線に、少しばかりの屈辱を感じる。
「このご時世ですからね。倍率だって百倍ですし……」院生の目も意識してもじもじと言葉を繋ぐ。
「だが、あいつみたいに決まる奴は決まる」教授がちょっと怒るように反論した。若干離れたところでパソコンを触っていた院生を顎で指す。
そんなやり取りなど聞こえてないふうだったヤツの頬が少し緩んだ。自分でも驚くほどの憎しみが湧いた。
教授が部屋から出て行ったあと、シンジは事務から受け取った書類を、思い出したようにもう一度カバンから取り出してまじまじと見つめた。そこにはこうあった。「退職後の行き先を記入しておいてください」
「もはやこれまで、か……」下を向いて小さく呟いた。
さて今度はどこに行くか……。
シンジにアテなどもうなかった。10年間、大学に尽くしたのに、今や単なる「高齢者」扱いで邪険にされるばかりだった。
無性に腹が立ってくる。
いつも、一生懸命に働いてきたつもりだった。
だが、「任期」なるものがやってくると、あっさりと捨てられた。
「バカヤロウ」
大学にも教授にも若造にも思いっきりぶつけてみたかった。所詮、叶わぬ夢だった。
シンジは春以降のことを想像する。
「先生」と院生におもねっている自分の姿が浮かんできて、死にたくなった。
口の中が酸っぱくなる。しかし、できることは限られていた。
奥歯をギリギリと噛みしめながら、退職案内を乱暴にたぐり寄せた。
当てつけに一行のみ渾身の力を込めて書きつけた。

行き先「橋の下」

「ホームレス博士」誕生前夜のことであった。筆圧で、紙にはみみず腫れのような跡が、そしてシンジのこめかみには青筋が浮かんでいた。

リンク先を見るホームレス博士 派遣村・ブラック企業化する大学院 (光文社新書)
著者:水月 昭道
光文社(2010-09-17)
販売元:Amazon.co.jp
クチコミを見る

水月昭道(みずき・しょうどう)

一九六七年福岡県生まれ。九七年、長崎総合科学大学工学部建築学科卒業。二〇〇四年、九州大学大学院博士課程修了。人間環境学博士。専門は環境心理学・環境行動論。〇六年、得度(浄土真宗本願寺派)。著書に『子どもの道くさ』(東信堂)、『子どもが道草できるまちづくり』(共著、学芸出版社)、『アカデミア・サバイバル』(中公新書ラクレ)など。〇七年刊行の『高学歴ワーキングプア』(光文社新書)はベストセラーに。現在、立命館大学衣笠総合研究機構研究員および同志社大学非常勤講師。任期が切れる二〇一一年春以降の身分は未定。

シノドスのメールマガジンはこちらをクリック!!
通勤・通学時間を利用して、現代社会の「基礎知識」を身につけよう!!

トピックス

ランキング

  1. 1

    「客寄せ」だった? イチロー凱旋

    企業法務戦士(id:FJneo1994)

  2. 2

    消費税増税分の84%は使途不明か

    田中龍作

  3. 3

    文大統領が外交儀礼で大ミス連発

    和田政宗

  4. 4

    やる気ないオジサン会社員の胸中

    城繁幸

  5. 5

    反日運動 背景に韓国人の高揚感

    NEWSポストセブン

  6. 6

    イチローこそ侍JAPAN監督に適任

    門田隆将

  7. 7

    防大生の任官拒否 指揮官が原因?

    天木直人

  8. 8

    楽天が下克上 Tポイントの挽回も

    MONEY VOICE

  9. 9

    パチンコ巡る政府の論理は綱渡り

    緒方 林太郎

  10. 10

    イチロー戦を中断 日テレに批判

    SmartFLASH

ランキング一覧

ログイン

ログインするアカウントをお選びください。
以下のいずれかのアカウントでBLOGOSにログインすることができます。

コメントを書き込むには FacebookID、TwitterID のいずれかで認証を行う必要があります。

※livedoorIDでログインした場合、ご利用できるのはフォロー機能、マイページ機能、支持するボタンのみとなります。