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- 2012年01月10日 05:00
「神」という発明 - 馬場正博
「見えざる手」というのは、言うまでもなく18世紀のイギリスの経済学者アダム・スミスの言葉です。人が行う経済活動は皆自分のための利己的なものでも、
「見えざる手に」導かれて、全体としては市場が機能し資源の配分は最適化され、人々は豊かに生活することができる、これがアダム・スミスが「国富論」の中
で語ったことでした。
アダム・スミスは「国富論」の中で「見えざる手」とは「神の手」だとは言わなかったのですが、当時の人々は、利己的な行動も神によって調和された世界を作る力となる、資本主義とは神によって導かれるものなのだと解釈しました。
そ れまで、キリスト教の世界でも勤勉は尊ばれましたが、金儲けはむしろ卑しむべきものと考えられていました。しかし、アダム・スミスは金を儲けようとする利 己的な行動こそ物を作り必要な所に円滑に届けさせる原動力だと説きました。金儲けは悪いことではない、それどころか「神の手」に導かれる正しい行いなのだ と考えることができるようになったのです。現代ではアダム・スミスの言った「見えざる手」は市場の有効性として経済学者に広く支持をされています。しかし、世の中一般となるとそうとも言えません。 企業が利益を得るのは本来は労働者や消費者のものである富を掠め取っているからだ、という考えは今でも多くの人が持っています。本能的な信念と言っても良 いかもしれません。
共産党などはよく「企業には膨大な内部留保があるので、それを取り崩させれば消費税の増税など必要ない」などと言います。共産党だから当然でしょうが、それが一定の説得力を持っているのも事実でしょう。
実際には内部留保はその分の現金を積み上げているのではなく設備や製品に形を変えているのですが、それはさて置き、企業が利益を貯め込むことは不当だという論法が違和感を持たれるどころか、共感を生むというのは現実です。
さて、今回のブログのテーマは共産党の批判ではありません。ある意味その逆で「見えざる手」の失敗を考えてみようというものです。個人の利己的な行動が「見えざる手」によって資源の最適配分をもたらすとしても、いつもそうとは限りません。
世 の中には泥棒や詐欺、さらに強盗殺人のように他人を犠牲にして利益を得ようとする輩がいます。もちろん、このような行為は犯罪として罰せられるのですが、 「見えざる手」がうまく人の行動を社会の利益へと結び付けることができなかった、つまり「見えざる手」の失敗と言うことができます。
人間 の利己主義が一方では「見えざる手」によって経済を円滑に動かす原動力となるのに、もう一方では社会を破壊してしまう。そうすると利己主義にも良い利己主 義、悪い利己主義があって、悪い利己主義が蔓延しないようにしなければいけない。そもそも悪い利己主義とは一体何のか。
こんな子供のするような質問は案外答えにくいものですが、「何が悪いのか」は「モーゼの十戒」にはきちんと示されています。ご存じのように「モーゼの十戒」とはモーゼが神から授けられた戒律とキリスト教で信じられているものです。
戒 律と言うとずい分厳しいものように思う人もいるかもしれませんが、「モーゼの十戒」が言っているのは「主が唯一の神であること」や偶像崇拝を禁じること以 外は、盗んではいけない、殺してはいけない、といった常識的なものです。このようなものをわざわざ石に刻みこんで人々に守ることを強く言う必要などあるの でしょうか。
このような疑問を抱くのは、私たちが盗みや殺人が悪い事だと信じ込んでいるからです。しかし、他人の物を盗んだり、他人を殺してはいけないと言うのはなぜなのでしょうか。それはそんなこと許しては社会が崩壊してしまうからです。それでは社会とは何なのでしょうか。
チンパンジーも群れを作り、その中では勝手に他のチンパンジーの物を盗ったり、殺すことはしません。そのような行為はチンパンジーの集団を崩壊させるので、ボスが取り締まります。しかし、群れが違えばそのような禁忌はなくなります。
人間も群れを作ります。しかし、類人猿の延長としての人間の作る群れの大きさは100-150人くらいが限度を考えられています(これはダンバー数と呼ばれています)。それ以上の集団はボスの威令だけでは無理で社会制度が必要になります。
社 会制度を作っても、何を社会を維持するために守るのか、そもそも社会を維持することに価値があるのか最初から決まっているわけではありません。自分や家族 が飢えている時、名前も顔も知らない他人の食料を奪い、抵抗したら殺してしまう、というのは正しい行為なのではないか。そんな時「神がそれ許さない」と知 らしめるのは社会の秩序を保つために有効な方法です。
今太古に二つの人間の集団があり、一方はボスの威令だけで集団をまとめ、もう一つは神の力で集団の秩序を維持しているとします。二つの集団が対立すると、「神」を持つ集団の方がより大きな集団を作ることができ、結果的にもう一つの集団を圧倒することができるでしょう。
つ まり、「神」というのは大きな社会をまとめ秩序を作るのにとても便利な発明品なのです。「神」という概念を人類がいつ頃見出したのかは定かではありませ ん。自然に対する畏怖の気持ち、強く大きい動物への恐れ、そのようなものが、社会秩序を維持するための戒律を与えてくれる存在になったのは、そんなに昔で はないと私は推察します。
人間が農業を始めたのは氷河期が終わった高々一万年ほど前からです。農業により人々は定住し、より大きな人口を養うことができるようになりました。戒律を与えてくれる「神」はその頃から後に登場したのではないかと思います。
「神」が発明品だとすると、同じ「神」でもより大きな集団、民族を超えた帝国を作るにはキリスト教やイスラム教のような一神教で形も現わさず、あらゆるものに遍在するほうが、より強くそして広く人々を秩序に従わせます。
「神」があらゆるところにいれば、誤魔化すことはできません。司法機関から逃れることはできても神の目を避けることはできない。これは各個人を大きなコストをかけずに統治し治安を守るためにとても有効です。
このような宗教が他の宗教に苛烈だった理由も明白です。善悪の基準を異にする人々を信用することはできないし、そのような人々は神の戒律で守る対象ではないのです。同時に自分たちの宗教に帰依すれば、それは自分たちの集団の一員になったと証拠と考えられます。
共 通の根を持つキリスト教とイスラム教は、一神教であるが故に、激しい対立を続けてきました。中世、十字軍の時代はイスラム教徒が優勢でしたが、現在は長く キリスト教徒の優位が続いています。しかしそれにしても、ソ連崩壊で共産主義が力を失った今21世紀になって、宗教の違いが相互不信と争いの種になってい ることは正直呆れるしかありません。
「見えざる手」の失敗、利己主義から来る窃盗や殺人は、「神」による戒律と秩序を社会の構成員が心の中に持つことで押しとどめることができます。しかし「神」という発明物も失敗をします。宗教戦争、他の宗派に対する寛容性の欠如は「神」の失敗と言ってよいでしょう。
人間は「神」の戒律の代わりに、法律や制度、司法の仕組みを作ってきました。そして近代民主主義国家では、「民の意志」を「神」の座の置くことで、その権威の正統性を与えています。
しかし民主主義が失敗しないわけではありません。衆愚政治に陥ったり、熱狂に駆られて戦争に突き進むこともあります。自分の負担を避け全てを他人に押し付けてしまおうという全員型の囚人のジレンマになって身動きが取れなくなることもあります。ゴミ処理場の建設などはその典型です。
さらに民主主義は利益の配分には適していても、今の日本のように少子高齢化で負担の配分が必要になっている時は、負担を直視するのを避けるポピュリズムになってしまう危険があります。ポピュリズムは民主主義の失敗そのものです。
ア ダムスミスが「見えざる手」の存在を言った時、「神」は強固な前提としてそこにいました。「見えざる手」の失敗は「神」によってできるだけ小さくなるよう に仕組みづけられてたと言えるかもしれません。民主主義の失敗はどのようにすれば最小化できるのでしょうか。現代人は「神」を再発明する必要があるのかも しれません。
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ビジネスのための雑学知ったかぶり
アダム・スミスは「国富論」の中で「見えざる手」とは「神の手」だとは言わなかったのですが、当時の人々は、利己的な行動も神によって調和された世界を作る力となる、資本主義とは神によって導かれるものなのだと解釈しました。
そ れまで、キリスト教の世界でも勤勉は尊ばれましたが、金儲けはむしろ卑しむべきものと考えられていました。しかし、アダム・スミスは金を儲けようとする利 己的な行動こそ物を作り必要な所に円滑に届けさせる原動力だと説きました。金儲けは悪いことではない、それどころか「神の手」に導かれる正しい行いなのだ と考えることができるようになったのです。現代ではアダム・スミスの言った「見えざる手」は市場の有効性として経済学者に広く支持をされています。しかし、世の中一般となるとそうとも言えません。 企業が利益を得るのは本来は労働者や消費者のものである富を掠め取っているからだ、という考えは今でも多くの人が持っています。本能的な信念と言っても良 いかもしれません。
共産党などはよく「企業には膨大な内部留保があるので、それを取り崩させれば消費税の増税など必要ない」などと言います。共産党だから当然でしょうが、それが一定の説得力を持っているのも事実でしょう。
実際には内部留保はその分の現金を積み上げているのではなく設備や製品に形を変えているのですが、それはさて置き、企業が利益を貯め込むことは不当だという論法が違和感を持たれるどころか、共感を生むというのは現実です。
さて、今回のブログのテーマは共産党の批判ではありません。ある意味その逆で「見えざる手」の失敗を考えてみようというものです。個人の利己的な行動が「見えざる手」によって資源の最適配分をもたらすとしても、いつもそうとは限りません。
世 の中には泥棒や詐欺、さらに強盗殺人のように他人を犠牲にして利益を得ようとする輩がいます。もちろん、このような行為は犯罪として罰せられるのですが、 「見えざる手」がうまく人の行動を社会の利益へと結び付けることができなかった、つまり「見えざる手」の失敗と言うことができます。
人間 の利己主義が一方では「見えざる手」によって経済を円滑に動かす原動力となるのに、もう一方では社会を破壊してしまう。そうすると利己主義にも良い利己主 義、悪い利己主義があって、悪い利己主義が蔓延しないようにしなければいけない。そもそも悪い利己主義とは一体何のか。
こんな子供のするような質問は案外答えにくいものですが、「何が悪いのか」は「モーゼの十戒」にはきちんと示されています。ご存じのように「モーゼの十戒」とはモーゼが神から授けられた戒律とキリスト教で信じられているものです。
戒 律と言うとずい分厳しいものように思う人もいるかもしれませんが、「モーゼの十戒」が言っているのは「主が唯一の神であること」や偶像崇拝を禁じること以 外は、盗んではいけない、殺してはいけない、といった常識的なものです。このようなものをわざわざ石に刻みこんで人々に守ることを強く言う必要などあるの でしょうか。
このような疑問を抱くのは、私たちが盗みや殺人が悪い事だと信じ込んでいるからです。しかし、他人の物を盗んだり、他人を殺してはいけないと言うのはなぜなのでしょうか。それはそんなこと許しては社会が崩壊してしまうからです。それでは社会とは何なのでしょうか。
チンパンジーも群れを作り、その中では勝手に他のチンパンジーの物を盗ったり、殺すことはしません。そのような行為はチンパンジーの集団を崩壊させるので、ボスが取り締まります。しかし、群れが違えばそのような禁忌はなくなります。
人間も群れを作ります。しかし、類人猿の延長としての人間の作る群れの大きさは100-150人くらいが限度を考えられています(これはダンバー数と呼ばれています)。それ以上の集団はボスの威令だけでは無理で社会制度が必要になります。
社 会制度を作っても、何を社会を維持するために守るのか、そもそも社会を維持することに価値があるのか最初から決まっているわけではありません。自分や家族 が飢えている時、名前も顔も知らない他人の食料を奪い、抵抗したら殺してしまう、というのは正しい行為なのではないか。そんな時「神がそれ許さない」と知 らしめるのは社会の秩序を保つために有効な方法です。
今太古に二つの人間の集団があり、一方はボスの威令だけで集団をまとめ、もう一つは神の力で集団の秩序を維持しているとします。二つの集団が対立すると、「神」を持つ集団の方がより大きな集団を作ることができ、結果的にもう一つの集団を圧倒することができるでしょう。
つ まり、「神」というのは大きな社会をまとめ秩序を作るのにとても便利な発明品なのです。「神」という概念を人類がいつ頃見出したのかは定かではありませ ん。自然に対する畏怖の気持ち、強く大きい動物への恐れ、そのようなものが、社会秩序を維持するための戒律を与えてくれる存在になったのは、そんなに昔で はないと私は推察します。
人間が農業を始めたのは氷河期が終わった高々一万年ほど前からです。農業により人々は定住し、より大きな人口を養うことができるようになりました。戒律を与えてくれる「神」はその頃から後に登場したのではないかと思います。
「神」が発明品だとすると、同じ「神」でもより大きな集団、民族を超えた帝国を作るにはキリスト教やイスラム教のような一神教で形も現わさず、あらゆるものに遍在するほうが、より強くそして広く人々を秩序に従わせます。
「神」があらゆるところにいれば、誤魔化すことはできません。司法機関から逃れることはできても神の目を避けることはできない。これは各個人を大きなコストをかけずに統治し治安を守るためにとても有効です。
このような宗教が他の宗教に苛烈だった理由も明白です。善悪の基準を異にする人々を信用することはできないし、そのような人々は神の戒律で守る対象ではないのです。同時に自分たちの宗教に帰依すれば、それは自分たちの集団の一員になったと証拠と考えられます。
共 通の根を持つキリスト教とイスラム教は、一神教であるが故に、激しい対立を続けてきました。中世、十字軍の時代はイスラム教徒が優勢でしたが、現在は長く キリスト教徒の優位が続いています。しかしそれにしても、ソ連崩壊で共産主義が力を失った今21世紀になって、宗教の違いが相互不信と争いの種になってい ることは正直呆れるしかありません。
「見えざる手」の失敗、利己主義から来る窃盗や殺人は、「神」による戒律と秩序を社会の構成員が心の中に持つことで押しとどめることができます。しかし「神」という発明物も失敗をします。宗教戦争、他の宗派に対する寛容性の欠如は「神」の失敗と言ってよいでしょう。
人間は「神」の戒律の代わりに、法律や制度、司法の仕組みを作ってきました。そして近代民主主義国家では、「民の意志」を「神」の座の置くことで、その権威の正統性を与えています。
しかし民主主義が失敗しないわけではありません。衆愚政治に陥ったり、熱狂に駆られて戦争に突き進むこともあります。自分の負担を避け全てを他人に押し付けてしまおうという全員型の囚人のジレンマになって身動きが取れなくなることもあります。ゴミ処理場の建設などはその典型です。
さらに民主主義は利益の配分には適していても、今の日本のように少子高齢化で負担の配分が必要になっている時は、負担を直視するのを避けるポピュリズムになってしまう危険があります。ポピュリズムは民主主義の失敗そのものです。
ア ダムスミスが「見えざる手」の存在を言った時、「神」は強固な前提としてそこにいました。「見えざる手」の失敗は「神」によってできるだけ小さくなるよう に仕組みづけられてたと言えるかもしれません。民主主義の失敗はどのようにすれば最小化できるのでしょうか。現代人は「神」を再発明する必要があるのかも しれません。
馬場正博のブログ↓
ビジネスのための雑学知ったかぶり



