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『資本論』は砂上の樓閣 - KnightLiberty

「日経BPクラシックス」から、マルクス『資本論』が中山元氏の新譯で刊行され始めた。賣り物のひとつとなつてゐるのは、これまで「剰余価値」と譯されてゐた語を「増殖価値」と改めたことだ。「訳者あとがき」によると、「Mehrwert の Mehr は、たんなる剰余ではなく、増えた部分という意味だから」といふ。これに對し、かへつてよくわからないといふ意見もあるやうだ。私も剩餘價値のはうがわかりやすいと思ふので、ここではその言葉を使ふが、しかしまあはつきりいつて、譯語の問題などどうでもよい。ぜひ知つておかなければならないのは、次の二點だ。(1)剩餘價値とは現實にはありえないトンデモない概念であること(2)さういふありえない概念を土臺に据ゑた『資本論』は破綻してゐること――。以下説明しよう。
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『資本論』は全三卷(一卷分だけで文庫本數册にもなる)で構成されるが、1867年に出版した第一卷で、マルクスはかう述べた。商品の價値はすべて勞働によつて生み出される。そしてこの價値どほりに市場で交換(賣買)される。ところが資本家は商品を賣つて得た代金のうち、勞働者にはその一部を賃金として支拂ふだけで、原材料費などを除いた殘りは利潤として自分の懐に入れてしまふ。言ひ換へれば、勞働者が生み出した價値のうち一部には對價を拂ふが、殘りの價値(剩餘價値)には拂はない。これは實質的な不拂ひ勞働であり、不當な搾取である、と。

だが私たちがよく知つてゐるやうに、實際には、どれだけ大きな利潤を得ることができるかは勞働だけでは決まらない。他の要素としてもつとも重要なのは、機械や道具といつた生産設備だらう。生産設備は勞働者のものではない。資本家のものだ。さうだとすれば、賃金を拂つた殘りを資本家が取つても、搾取などと非難される筋合ひはないはずだ。

もちろんマルクスは、資本家を擁護するやうなそんな理屈は認めない。代はりにこんな主張をした。剩餘價値(利潤)を生み出すのは勞働だけだ。生産設備が剩餘價値(利潤)を生み出すことはない、と。

これには明らかに無理がある。もしマルクスの言ふとほりなら、大規模な設備を使ふ資本集約型産業より、サービス業など人手を要する勞働集約型産業のはうが利益率が高くなるはずだ。しかし實際にはそのやうなことはなく、長期ではあらゆる産業の利益率は均一化に向かふ。なぜならある産業の利益率が他より高ければ、その産業に參入する企業が増え、價格競爭が激しくなつて利益率が低下するからだ。

マルクス自身、『資本論』第一卷の中で、この矛盾を認めてゐた。そして矛盾の解決をあとで示すと約束した。だが第一卷を出版した後、續きをいつまでも出さないまま、十六年後の1883年に死んでしまつた。リンク先を見る

あとを引き繼いだのは盟友エンゲルスである。マルクスの遺した草稿をもとに、第二卷を1885年に出版した。しかしこの卷で矛盾の解決は示されなかつた。讀者が不審に思ふことを警戒してか、エンゲルスは序文(岩波文庫版第四分册に收録)で、解決は最後の第三卷で示されると豫告した。そして經濟學者たちにこんな「挑戰状」を叩きつけた。この矛盾をどう解決するかわかる者があつたら、第三卷が出版されるまでに見せてもらひたい、と。

さらに九年後の1894年、殘りの草稿やメモを取りまとめ、つひに第三卷が出版された。エンゲルスはまた序文(岩波文庫版第六分册に收録)を書き、前卷での「挑戰状」に應へて多數の論者が矛盾について論考を發表したが、どれも的外れだつたと勝ち誇つた。それではマルクス自身は、第一卷の刊行から三十年近くたつてやうやく出版された第三卷で、どのやうな解決を示したのか。驚くべきことに、何の解決も示さなかつたのである。

マルクスは第三卷で、みづからの論理的破綻をいさぎよく認めたわけではない。さも當然のやうに、商品はそれに投じられた勞働に比例した價格で賣買されるわけではないと述べてゐるだけだ。さうでなければ、各産業の利益率が均一化に向かふといふ現實を説明できないからだ、と。しかしこれは明らかに、第一卷で述べた剩餘價値説を抛棄したものだ。

オーストリアの自由主義的經濟學者、ベームバヴェルクは第三卷が出た二年後の1896年、『資本論』の論理的不整合を批判する『マルクス体系の終結』(木本幸造譯、未来社)を上梓し、「マルクスの第三巻は、その第一巻を否認している」(邦譯書60頁)と指摘した。當時マルクス主義を奉じてゐたゾンバルトでさへ、かう述べてゐる。「いま与えられている……《解決》を、たいていの人びとは、少しも《解決》とみなしたくないであろう」(同61頁)

これは小さな問題ではない。もし剩餘價値説が間違つてゐるのなら、それにもとづき展開された「資本家は勞働者を搾取してゐる」といふ主張も間違ひといふことになる。ベームバヴェルクは『資本論』のことを「カルタ札で組み立てられた家」(同199頁)、つまり砂上の樓閣と痛罵した。

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マルクスが第二卷以降を生前出版しなかつたのは、この破綻が修復不能と氣づいたからだらうともいはれてゐる。だが人間とは論理明晰な讀みやすい本よりも、矛盾を晦澁な文章や思はせぶりな數式でとりつくろふ、一見壯大な砂上の樓閣にこそありがたみを感じるものなのかもしれない。「危機のたびに甦る この難解さ、この面白さ!」といふ新譯本の帶のキャッチコピーを眺めてゐると、そんな苦い思ひがこみ上げる。

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