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学校で習ったことをすべて忘れてしまった後もなおかつ残るもの、それが教育である

聖光学院の中1の数学の授業。レゴブロックを使って素因数分解を表現

 2017 年夏、ある歴史教科書を採択した複数の学校に、嫌がらせとも思える抗議の文書が大量に送りつけられたことが発覚し、大きく報道された。本書の中にも該当する学校が複数含まれている。

 一部の人たちが自分の政治信条あるいは歴史認識と相容れない記述がある教科書を排除するために、過激にふるまったのだろう。しかしそれは無駄だとはっきり言いたい。

 この国ではなぜか、教科書を、教育における絶対的な存在として崇め奉る文化がある。「教科書信仰」や「教科書絶対主義」といってもいいだろう。多くの人が無自覚のうちにそれを当たり前だと思い込んでしまっている。

 しかし本来、教科書に書いてあることをもとにして「真実」に近づく方法を学ぶのが教育であって、教科書に書いてあることを「真実」として覚えることが教育ではない。極論すれば、教科書なんてなんでもいい。

 実際、その報道に名前が登場したような私立・国立の学校では、検定教科書なんて参考程度にしか使っていない。

 もうお気づきかもしれないが、本書で紹介した16 の授業に共通しているのは、いわゆる「教科書」を使っていないことである。

 少なくとも本書に出てくるような学校の生徒たちは教科書に書いてあることが全部「真実」だなんて鵜呑みにしない。先生たちもそのつもりで、教科書に書かれていることを「真実」として教えるのではなく、それを材料として、「考え方」を教えている。本書がその何よりの証拠である。

 教科書は教えるための材料に過ぎず、その内容すら疑ってかかるのが健全な批判的思考。どんな教科書を選んだって、彼らは自分たちでちゃんと学ぶ。

 本当なら、全然違う視点から書かれている教材を複数使うのがいい。そのほうが物事を立体的に見ることができる。教材とは本来そういうもの。「検定教科書」 という概念がそもそもおかしいのは、それが「国が認めた『真実』」であるかのように見えてしまうことだ。

 たとえば、教科書に書かれていることすら疑ってかかるのが歴史教育の醍醐味。それこそ賛否の議論を呼び起こした教科書を開いて、「この教科書については賛否があるんだ……」と授業を始めて、それぞれに資料をあたり、発表し、議論すれば、それがいちばんのアクティブ・ラーニングである。

 はっきり言ってしまえば、本書で紹介したような名門校のアクティブ・ラーニングでは、教科書の存在価値はほとんどゼロに等しい。新聞の切り抜きのコピーや一般書籍、自ら実験・取材したデータが教材になる。要するに、必要なのは「教科書」ではなく「教材」なのだ。

 勉強とは、学習とは、学びとは、そもそもアクティブでなければ成り立たない。当たり前だ。アクティブ・イーティング、アクティブ・ドリンキング、アクティブ・ウォーキングなどとはいわない。それなのに、今ことさらアクティブ・ラーニングなどという言葉がもてはやされているということは、強制を前提とした教育が跋扈していることの裏返しでしかない。

 検定教科書が各種入試の内容までをも規定するのであれば、それはむしろ、アクティブ・ラーニングを阻害する要因の一つになり得る。そこに国家からのお墨付きを得た「答え」が書いてあり、入試では、国家からのお墨付きを得た「 答え」 を書かないと不正解にされることになる。それではわざわざ回り道をして自分なりの「答え」を見つけようなどという気持ちが薄れるのも当然だ。

 一方、本書で紹介した授業では、教科書を用いない代わりにたくさんの「 寄り道」があった。「あそび」があった。「ムダ」 があった。まさしくそれこそが、生徒たちの知的好奇心を刺激していた。

 大人になって、中高生のころの授業を思い出そうと思っても、記憶に蘇るのは教科書の太字の部分よりもむしろ、先生が楽しそうに話してくれた雑談だったりする。

 本書で紹介した16 の授業はそれ自体が、いわゆる「 雑談」 のような意味合いをもっているのかもしれない。おそらく、卒業して何十年かして思い出す授業の一つとなるのではないだろうか。

「学校で習ったことをすべて忘れてしまった後もなおかつ残るもの、それが教育である」

  物理学者アルベルト・アインシュタインの言葉だ。

 どんな教材を使ってどんな授業を行うのか、学校に、あるいは現場の先生に、もっと裁量を与えるべきだと私は思う。

 一般的には、先生の裁量が大きいと、授業の質や内容に差が出るという懸念もあるようだが、授業で取り扱う内容に差があることで、教育の本質にどれだけの差が生まれるのであろうか。

 授業は学びのきっかけにすぎない。各先生が自分の得意分野で勝負し、生徒に学ぶ喜びを与えることができれば、そこから先は生徒が自ら学び出す。むしろそれぞれ違った方法で学び始める。学びとはそういうものだ。先生に裁量があることで、生徒により多くの喜びを与える機会が生まれるのであれば、そのほうがより本質的な教育に近づく。そのことも、本書を読めば納得できるはずだ。

 しかし実際には現在、学習指導要領は厚みを増している。より細かく指導の目的や方法を規定する方向に向かっている。

 これからの時代を生きていくために必要十分なものを予測して事前に子供たちに与えるのは大人たちの使命だと、多くの大人は考える。しかし、本書に紹介したような学校の先生たちは必ずしもそのような考え方はしない。「 土台さえ作っておけば、あとはそのときが来たら生徒たちが自ら必要なものを選び、身に付ける」 と信じているからだ。

 
※拙著『名門校の「人生を学ぶ」授業』の「おわりに」より。

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