前回の記事で、劣等感の軽減を期待するなら、「恋人」より「仲間」だ!と書いた。けれどもどんな「仲間」でも良いかといったら、たぶん、そうではない。この点について、twitter上で、以下のようなコメントを頂いた。
90年代以降「仲間コミュ」癒しというのは、社会学/臨床/市民運動こぞって提唱されましたが、一時的にはともかく長期的にうまくいったケースはかなりまれなのではないでしょうか。 RT @twit_shirokuma 「仲間」と一言で言っても、かなり上手いコミュニティじゃないと駄目
2011-12-30 11:36:15 via web to @twit_shirokuma
数多くの自助グループが崩壊するのは、同質同根のアキレス腱でループを繰返し、崩壊するより他に「出口なし」状態に至からなのでしょう。URL RT @twit_shirokuma
2011-12-30 11:40:46 via web to @twit_shirokuma
「不安シバキ」といえば、昨今では反原発時流にのって勢いを増す、似非科学エコとかもそう。そこにはパートナーと子供がいる女子さんが山盛りいますね。 RT @twit_shirokuma 「仲間」と言った時、そのコミュニティがどういう質であるのかによって、運命は大きく異なるとも
2011-12-30 11:51:56 via web to @twit_shirokuma
これらを読んで、「ああ、コミュニティと言ってもピンキリだよなぁ」と改めて思った。
世の中には、成員の劣等感を軽減するというより、むしろひどくしてしまうようなコミュニティがたくさん存在する。あるいは、刹那の不安を紛らわす為のコミュニティや一時凌ぎの憂さ晴らしのためにだけ有効なコミュニティも少なくない。「仲間」さえできれば何でもいい、という風に考えるのは危険っぽい。
なら、どういうコミュニティが理想的で、どういうコミュニティなら駄目っぽいのか?そのあたりについて考えてみる。
1.劣等感に効かなそうなコミュニティ
まず最初に、劣等感をむしろ酷くするような“地雷”コミュニティや、なんの効果も無さそうなコミュニティを挙げてみる。なお、このなかには、そのコミュニティに所属している間だけは劣等感を忘れられるものが混じっている。ただし、劣等感を忘れていられるのはコミュニティの成員として活動している瞬間だけで、一歩でもコミュニティの外に出れば、いつもの自信の無い、劣等感にまみれた自分自身が帰って来るという問題を抱えているので、お勧めできないこと甚だしい。
・教祖を拝むタイプのコミュニティ
教祖を拝み、その偉大な教祖との一体感を充たすタイプのコミュニティ。教祖を偉大だと思い込み、なおかつ、その教祖との一体感を信じ込めている限り、「私=偉大な教祖=神」という図式が成立し、自分がとても偉くなった人間であるかのように錯覚できる。あるいは教祖に選ばれた人間であるかのように思い込める。これらの錯覚の最中は、劣等感は意識から追い出される。
しかし先に述べたとおり、教祖とその教えの外に一歩でもはみ出ると、もとの劣等感まみれの自分に直面してしまうため、このようなコミュニティの成員は、四六時中、教祖とコミュニティに繋がっていたがるようになり、必然的にカルト化しやすい。
・組織に厳格な忠誠を求めるコミュニティ
教祖はいないけれども、コミュニティのメンバー全員に厳格な忠誠を求めてやまないコミュニティも、難しい。このタイプのコミュニティでは、厳格に忠誠を誓っている限りはコミュニティ全体との一体感を感じやすく、その間は自分自身の劣等感を忘れることが出来る。
しかし教祖崇拝型と同じく、これは自分自身の劣等感の問題を解決しているというより、コミュニティから優越感を“借りてくる”ことで暫時忘れていると言うべきもので、コミュニティを離れたら、すぐに劣等感が戻って来てしまう。コミュニティ外での活動を制限してかかるようなコミュニティの場合は、この問題は特に深刻化しやすい。
・一期一会のコミュニティ
インターネットのオフ会をはじめ、コミュニティのなかには一期一会的なタイプのものもある。こうしたコミュニティは、持続的な人間関係に発展しない限り、劣等感にはあまり影響を与えない。もちろん、一期一会のコミュニティに百発百中で適応できれば、それはそれで自信に繋がるかもしれないが…。
・コミュニケーションの接点が特定コンテンツに限定されるコミュニティ
いくらか持続的な人間関係になったとしても、特定のアニメやゲームのオフ会のように、接点が極端にコンテンツに限定されるタイプのコミュニケーションばかりの場合も、劣等感の軽減にはあまり役立たない。
理由は二つ。