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電子書籍に騒ぐ人へ「書物の秩序」

 電子書籍だ黒船だと騒ぐ人、まぁ餅つけ。いまに始まった話でもなし、シャルチエ師匠と考えてみよう。



リンク先を見る ロジェ・シャルチエは、フランスの歴史学者。写本から印刷物まで、「記されたもの」の浸透が社会に与えた影響を検証し、どのように新たな思考様式生み出していったかをテーマに、多数の研究成果を発表している。紙から画面に代わるとき、どんな変化が起きるのかを、十年・百年単位で考えるのに良いかと。ドッグイヤーじゃなく、腰をつけて。



 実はシャルチエ師匠、9月7日に国会図書館で講演をする。タイトルは、「本とは何か。古代のメタファー、啓蒙時代の諸概念、デジタルの現実」。さらに福井憲彦氏と長尾真氏を交えて鼎談をするので、腰をつけて考える人にはうってつけ。わたしは申し込んだけど、先着順らしいのでお早めに↓



  国民読書年記念ロジェ・シャルチエ氏講演会「本と読書、その歴史と未来」



 そこで、予習のつもりの一冊目が「書物の秩序」。グーテンベルク革命のなか、手写本から活字本へのドラスティックな移行がどのように統御されていったのかを考察する。いわゆるテクスト論に閉じず、モノとしての書物の変遷や、書物に働きかける読者をグルーピングした「読者共同体」、さらには「壁のない」普遍的図書館(いまなら迷わず"電子図書館"と訳すだろう)までを視野に入れた論を展開する。

 


 とても挑発的で、最初にわたしが持っていた、「読書」に対する予見じみたものに揺さぶりをかける。読者を煽るのではなく、読者の持つ「読むということ」そのものへの疑問を、読み手自身が抱くようにしむけるのだ。



 たとえば「著作者」とはそのまま、その本を書いた人だとわたしはとらえる。だが、「著作者」とは、王権が与えていた出版独占権を書籍商が防衛する中で、作品に一貫したアイデンティティを与えるために誕生した概念だと指摘されると、ハッとする。極論言うなら、主体であればいいのなら、人でなくてもかまわない、ということだ。ネットにつぶやくbotだろうと、言語解析プログラムの出力だろうと、「著作者」たりうるのだ。



 さらに、著作者についてもっと自由にとらえて良いのなら、人でもプログラムでもなく、「束ねるもの」になる。すなわち、(書いた人という意味での)著作者そのものではなく、その著作を示す「束ねるもの」に焦点があたるのだ。すべての本はオリジナルではなく、多かれ少なかれ、遠かれ近かれ、書いた人が通り過ぎた思想なり物語の援用・引用になる。ある本のモトとなった本を束ねているのが、著者ということになるのだ。



 もっと推し進めると、レビューしたり誉めたりけなしたりする「人」が、それらの本を束ねていることになる。そして、その「人」と自分との好みの位置や思想的距離によって、その「人」が束ねている本と自分の相対的な位置・距離が決まっていく。これはあたりまえのことかもしれない。読む動機は、そのテクストを示すレビュー/人/宣伝と自分の距離で決まっていくものだから。だが、その「あたりまえ」が可視化される。興味というポインタが赤い糸のように自分から伸びているのを、Augmented Reality を通してオーバーレイされる感じ。そこでの「本」は、ノードのように写っているだろう。



 グーテンベルクの出版革命により、収拾がつかなくなっただろうか?否。むしろ逆方向に働く力も出てきたことが指摘される。大量の本がバラバラに撒き散らされるのではなく、むしろ精選され、削ぎ落とされ、摘要される方向のダイナミズムは、グーテンベルクのユートピアだけでなく、いまも、これからも働いていくだろう。現在のスナップショット風に表すなら、ブログやTwitterのようにバラ撒かれる言説を、Tumblrや「まとめ」サイトが選別していくように。



 本書が世に出た1994年にはTwitterもTumblrもないので、シャルチエ師匠は、1771年に著された未来小説「二四四〇年」をひっぱり出してくる。そこで、国王図書館の司書の発言を引用する。莫大な書物を収めた伽藍ではなく、たった数点しかない部屋を前に曰く、

「くだらない、無用、危険」と判断されたすべての書物を焼き払う前に、二十五世紀の開明的な人たちは、最も重要なものをよけておいた、それらはわずかの場所しか取らない。私たちは公正さを欠いておらず、また名著で風呂を焚いたサラセン人とは違うので、選別したのです。(中略)私たちは、最も重要なものの要約を作ったのです。
 本はフローであり、流れ去っていくもの。その中で、エッセンスともいうべきものが残る。主に古典と呼ばれるものがそうだが、そこに新たな作品が加わり、さらに淘汰され取捨される(古典ならすべからく残るべし、はウソ)。引用され、参照される「箴言」「摘要」こそが選別されてゆく。最低限残るのは、「タイトル」になる。詠み人しらずの詩や、手垢にまみれた詭弁佞言はあれど、「その言説が何であったか」を指し示すポインタ―――名前やね―――がどうしても必要になる。モノとしての本が消失したとしても、「かつてそういう言説を唱えた○○という本があった」というためには、その○○こそが残っていなければならない。つまり、本の本こそが、残る本たりうる。



 ただ、急いで書き添えなくてはならないのは、「誰のための選択?」になる。当時は王立図書館が百科全書的に収集・選別をくり返せばよかった。その選択条件は一律で、国家や学術のオフィシャルな目的に沿っていた。しかし、現在と未来は、もっとプライベートな基準により峻別される(公開非公開というよりも、個々に、という意味で)。本が多様化するのではなく、選択の基準と方式が多様化する。



 ここでGoogle先生やamazon御大を持ってくるのは簡単だが、しない。人気ランキングや関連性の強さによる重み付けプログラムが、プライベートになった選択基準に沿うとは考えられないからである。もちろん、ベストセラーしか読みませんというカラッポ人ならamazon御大に任せて安心かも。だが、プライベートな選択は、ほんとうに一つのアカウント、一つのメディアからでしかもたらされないのだろうか?



 ちがうよね。読むことを動機づける情報元は、必ず複数チャネルある。それこそネットに限らず、テレビや目に入った広告、キーワード、頭から離れないフレーズ、ふと思い出した主張など、いくらでもある。RSSやiPhoneといったサービス/デバイスによる違いがあるかもしれないが、チャネルを束ねているものに依存していない(はずだ)。なにもかも一つのインタフェースで解決しようとするのは、それこそ十年・百年の世界になる。



 今の騒ぎは、デバイスやマーケットのネタが先行されすぎてて、とてもわたしには追いつけない。長い目で見れば、現在はチャネルが増える程度の変化に見える。むしろ、むかし世間を騒がせた、マルチメディア狂想曲や次世代ゲームバトル、さもなくばパーム戦争の焼き直しのようにも見えるのだ。そういや、Pipin @. や Apple Newton は今いずこ……(遠い目)。



 この文章、十年後に「答え合わせ」したいなぁ……

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