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- 2010年06月25日 00:39
「転校生とブラックジャック」はスゴ本
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リンク先を見る 心脳問題を対話により深堀りした名著。二読したけど三読する。
若いとき、一度はかぶれる独在論。つまり、この宇宙にひとりだけ「私」がいるということの意味を追求する。あれだ、2chやtwitterで見かける「おまえ以外bot」を世界レベルまで拡張したやつ。
自分自身を指差して、私だということができる。でもそんな指差しなどせずに、世界中でただ一人、ただそこにいる<私>は、他の誰でもないし誰でもありえない。誰かが「私」といくら言おうとも、ここに、例外的な<私>が存在する―――この<私>が「私」であることを論理的に証明しようと問いつづける。
たとえば、「心と体が入れ替わってしまった二人を、天才外科医ブラック・ジャックが元に戻したらどうなるか(転校生とブラックジャック)」とか、「自分自身の記憶と身体を丸ごとコピーして火星へ転送したら<私>はどうなる(火星に行った私は私か)」といった、SFチックな思考実験で追求する。
本書を面白くかつユニークにしているのは、全編をダイアログ形式にしていること。著者自身をモデルにした「先生」と、12人の学生A〜Lがこの問題を議論する。A論B駁といった感じで、議論が転がっていく・掘り下がっていく様子がよく見える。
実はこの学生、著者の分身のようなもので、それぞれの側からの問答のフィードバックループをつなげた試みらしい。自説を曲げない人や、「解答」を欲しがる人がいて妙にリアルだけど、「自分の考えに近いのは誰か?」「その学生はどのように『問い・答え』をくり返しているか」探しながら読むと楽しい。ただ、出てくる議論は(カブれた人なら)既知のものばかり。主張の目新しさではなく、その問いに対し、どう格闘するかが大切なのだ。
これ読むまで、哲学とは、ドグマを吸収することだと思い込んでいた(だから、たくさん知ったかぶれる人ほど、"哲学してる"と信じてた)。ところが、本書のおかげで、哲学とは、対話しと内省のくり返しの中で考え抜くという、もっと動的な行為だということに気づいた。哲学は、ダイアログの上に立っており、書かれたものは、そのダイアログを転がすための燃料や空間にすぎないのだと分かった。そんなダイナミズムに触発されたのは、本書の最大の収穫。
ただ、残念(?)なところもあった。意図的か不注意か分からないが、あるべき議論が抜けている。「転校生とブラックジャック」という作品を学生に読ませ、そのセミナーをするという形式で話が進むのだが、この「転校生とブラックジャック」という作品自体が、一人称で書かれているのだ。
この独白が、誰に向けて、どのようなメディアで語られているかの検証がないのだ。インタビューであれば語り手がいるし、小説であれば書き手(と書き手が騙る語り手)がいる。一人称独白体という時点で、「おれ」が限定されてしまう。
そして、インタビューであれば、「「おれ」はその痛みの記憶ごと創られていた」でファイナルアンサーだし、小説であれば、「「「「おれ」はその痛みの記憶ごと創られていた」という妄想だった」という妄想……」になる。なんなら最後の「妄想だった」を陰謀でループしてもいい(岡嶋二人「クラインの壷」あたりを思い出す)。
いずれにせよ、「おれ」が過去のことを「語って」いることがこの形式自身によって規定されてしまっているため、読者は常にそこに疑いを見出すことができる。「先生」があとづけで「この物語全体は誰の記憶によっても保証されていない」「そもそも記憶ではない、端的な事実ということにならねばならない」と説明しているが、学生の議論を成り立たせるための巧妙な罠に見える。
若いとき、一度はかぶれる独在論。つまり、この宇宙にひとりだけ「私」がいるということの意味を追求する。あれだ、2chやtwitterで見かける「おまえ以外bot」を世界レベルまで拡張したやつ。
自分自身を指差して、私だということができる。でもそんな指差しなどせずに、世界中でただ一人、ただそこにいる<私>は、他の誰でもないし誰でもありえない。誰かが「私」といくら言おうとも、ここに、例外的な<私>が存在する―――この<私>が「私」であることを論理的に証明しようと問いつづける。
たとえば、「心と体が入れ替わってしまった二人を、天才外科医ブラック・ジャックが元に戻したらどうなるか(転校生とブラックジャック)」とか、「自分自身の記憶と身体を丸ごとコピーして火星へ転送したら<私>はどうなる(火星に行った私は私か)」といった、SFチックな思考実験で追求する。
本書を面白くかつユニークにしているのは、全編をダイアログ形式にしていること。著者自身をモデルにした「先生」と、12人の学生A〜Lがこの問題を議論する。A論B駁といった感じで、議論が転がっていく・掘り下がっていく様子がよく見える。
実はこの学生、著者の分身のようなもので、それぞれの側からの問答のフィードバックループをつなげた試みらしい。自説を曲げない人や、「解答」を欲しがる人がいて妙にリアルだけど、「自分の考えに近いのは誰か?」「その学生はどのように『問い・答え』をくり返しているか」探しながら読むと楽しい。ただ、出てくる議論は(カブれた人なら)既知のものばかり。主張の目新しさではなく、その問いに対し、どう格闘するかが大切なのだ。
これ読むまで、哲学とは、ドグマを吸収することだと思い込んでいた(だから、たくさん知ったかぶれる人ほど、"哲学してる"と信じてた)。ところが、本書のおかげで、哲学とは、対話しと内省のくり返しの中で考え抜くという、もっと動的な行為だということに気づいた。哲学は、ダイアログの上に立っており、書かれたものは、そのダイアログを転がすための燃料や空間にすぎないのだと分かった。そんなダイナミズムに触発されたのは、本書の最大の収穫。
ただ、残念(?)なところもあった。意図的か不注意か分からないが、あるべき議論が抜けている。「転校生とブラックジャック」という作品を学生に読ませ、そのセミナーをするという形式で話が進むのだが、この「転校生とブラックジャック」という作品自体が、一人称で書かれているのだ。
ブラック・ジャックはおれを手術台に固定して、いきなり手術しはじめたのだが、なんと、彼は麻酔というものを使わないのだという。おれは頭部に激痛を感じた。なんということだ。おれはこれからの手術中、ずっと意識があり、この激痛に耐えねばならないのだ!さらに、ブラック・ジャック曰く、「おれ」の記憶は入れ替わっていた「あいつ」のやつを植えつけておくから心配要らないという。もちろん「あいつ」の記憶も「おれ」で上書きするから、完全に元通りになるというのだ。では、「おれ」はどこにいる?―――その議論がまた面白いのだが、「設定」にムリがある。
この独白が、誰に向けて、どのようなメディアで語られているかの検証がないのだ。インタビューであれば語り手がいるし、小説であれば書き手(と書き手が騙る語り手)がいる。一人称独白体という時点で、「おれ」が限定されてしまう。
そして、インタビューであれば、「「おれ」はその痛みの記憶ごと創られていた」でファイナルアンサーだし、小説であれば、「「「「おれ」はその痛みの記憶ごと創られていた」という妄想だった」という妄想……」になる。なんなら最後の「妄想だった」を陰謀でループしてもいい(岡嶋二人「クラインの壷」あたりを思い出す)。
いずれにせよ、「おれ」が過去のことを「語って」いることがこの形式自身によって規定されてしまっているため、読者は常にそこに疑いを見出すことができる。「先生」があとづけで「この物語全体は誰の記憶によっても保証されていない」「そもそも記憶ではない、端的な事実ということにならねばならない」と説明しているが、学生の議論を成り立たせるための巧妙な罠に見える。



