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格差の急拡大は社会保障基盤崩壊の元凶(5)―成功するか中国の「国民皆保険・皆年金」

 前回で述べたように、日本の「国民皆保険・皆年金」体制は格差社会の進行によって危機的な状況に陥っている。翻って中国はといえば、むしろ格差の急拡大によって「国民皆保険・皆年金」体制の構築が多大な困難にぶつかっているという現状である。

 現在中国では日本以上に格差社会が進行し、所得格差をはじめあらゆる分野で格差が急速に拡大している。国民の生活保障を強化し、格差の拡大にブレーキをかけるためには、どうしても社会保障制度の整備と健全化を図らなければならない。一方、所得格差が急拡大している状況下で、社会保障制度の整備と健全化は大きな困難に遭遇する。特に社会保険では、保険料率・保険料額の設定は被保険者の所得水準を考慮する必要がある。しかし、所得格差が非常に大きい被保険者にとって納得のいく保険料率・保険料額を設定するのは至難の業である。これはまさに現在中国の社会保障制度が抱えている最大のジレンマといえる。

 以下では、いくつかの社会保険制度を取り上げて概観してみる。

(1)新型農村社会養老保険

 2009年9月1日、国務院は「新型農村社会養老保険試行の展開に関する指導的意見」(以下、2009年「指導的意見」)を公布し、09年に全国10%の県・県級市・区・旗(同レベルの地方行政)で試行し、以後、試行地を次第に拡大させ、2020年までに農村適齢住民の全員加入を実現するといった目標を掲げている。

 もっとも重要な財源構成について同「指導的意見」は、保険料、村民委員会の補助、政府の拠出など三つの部分からなると定めている。それによると、まず、保険料額は目下、年間100元、200元、300元、400元、500元など五つのランクを設け、地方政府は実際の状況に応じてランクを増やしてもよい。加入者は自分でランクを選び保険料を納め、多く納めれば多く受給する。

 その狙いと意図は、農村部で急激に拡大している地域間の経済格差および住民間の所得格差を考慮し、中高所得者の年金保険加入インセンティブを引き出すためである。

 2009年11月、江西省于都県など11の県・県級市・区は国務院が認めた全国最初の試行地となった。江西省はかつて共産党の革命根拠地であり、于都県は1930年代共産党赤軍の「万里の長征」の出発点でもある。この地域はいまも経済が立ち遅れている。09年、于都県の農村住民の1人当たり年間純収入は3850元であった。経済力が弱いため、大多数の住民が100元ランクの保険料を納めている。保険料が少ないこともあって、加入者は2010年4月末の23.8万人から5月末の32.7万人へと増え、保険料納付率も71.8%に達した(尚芳「江西革命老区新農保之行」『中国社会保障』2010年第7期)。

 一方、農村には比較的豊かな住民もいる。少額の保険料では少額の年金しか受給できないため、中高所得者にとってそれほど魅力的ではないことは明らかである。もし強制加入であれば、所得の高低にかかわらず全員が加入しなければならないが、任意加入を原則とする以上、保険料にランクの差をつけることはやむをえない。さもなければ、中高所得者は保険加入を拒否する可能性が高い。

 このような実状を考慮して一部の地域は中央政府の統一基準をベースに保険料のランクをさらに増やしている。江蘇省は基礎年金月額を60元に引上げ、保険料に600元のランクを追加した。射陽県はさらに1200元と1800元のランクを設けた(向春華「塩城新農保攻略」『中国社会保障』2010年第7期)。

 保険料が異なれば、受給できる年金額も異なってくる。測算によれば、保険料を15年間納めれば、100元ランクでは年金の月額はわずか93元しかないが、1800元ランクならば年金の月額は603元に達する。その差は6.5倍である。これは明らかに公的年金の性格からかけ離れたことである。また、社会保障は所得格差の拡大にブレーキをかけ、ジニ係数を引き下げるといった役割が期待されている。しかし、農村部の公的年金制度はむしろ社会保障の本来持つべき機能と逆行しており、住民間の所得格差をますます拡大させている。

(2)新型農村合作医療

 2003年1月16日、国務院は衛生部、財政部、農業部が連名で出した「新型農村合作医療制度の確立に関する意見」を通達し、各省・自治区・直轄市に対して、2003年から少なくとも2~3の県・市を選んで試行し、一定の経験を積んだ上で徐々に広げていくことを求めた。

 同「意見」は必要な財源について以下のように、加入者の納めた保険料および村民委員会と政府の補助によって構成されると定めている。

1.1人当たりの保険料は年間10元以上とするが、経済条件のいいところではそれを適切に引き上げてもよい。

2.条件の整った地域では、村民委員会が一定の補助を行わなければならない。具体的な補助基準は県政府が定める。補助分の資金は農村住民から強制的に徴収してはならない。また、民間団体と個人からの寄付を奨励する。

3.地方政府の財政による加入者への補助は年間10元以上とする。補助基準と負担比率は省政府が定める。経済が発達している東部地域では、地方政府の財政は補助を適切に増やしてもよい。

 一方、現状ではその後、1人当たりの財源は年々増やされ、2010年には合計150元に達した。そのうち、120元は中央と地方の財政補助で、加入者の自己負担(保険料)はわずか30元である。つまり、新型農村合作医療は社会保険制度として位置づけられているにもかかわらず、必要な財源において保険料は全体の2割で、残りの8割は政府の財政補助で賄われている。

 なぜこのような制度設計を必要とされるのか、理由は少なくとも以下の二つがあると考えられる。

 第一は、制度の試行および全国的普及をスムーズに進めるためである。中国の農村地域では社会保険制度の実施は稀であり、社会保険の基礎知識すら知らない住民は圧倒的に多い。こうした現状の中で、新しい制度としてできるだけ早く定着させていくためには、財源の確保に保険料ではなくて財政補助に頼るしかなかった。

 第二は、農村の地域間や住民間に見られる大きな所得格差を配慮することである。所得格差が想像を絶するほど拡大している状況下で、かりに保険料を主要財源とするならば、保険料率や保険料額の設定は極めて困難な作業となり、異なる地域や異なる所得層のニーズに同一制度で対応することはほぼ不可能である。ここも、前述した日本の健康保険制度に見られるような特徴と同様、社会保険の性格を軽んじて、財政補助を前面に出さざるをえなかった。

(3)養老保険の個人口座

 公的年金保険制度は中国では養老保険と呼ばれる。都市部では基本養老保険、農村部では新型農村社会養老保険がそれぞれある。中国の公的年金保険制度の最大の特徴といえば、個人口座(日本語は「個人勘定」)を設けていることである。

 ところで、この個人口座の制度は社会保険の公平性を大きく損ねる側面がある。中国では養老保険と医療保険はいずれも社会プール(共同基金)と個人口座の結合という仕組みを採っている。個人口座のメリットは加入者の保険料納付のインセンティブを引き出し、自己責任や自助努力の意識を高めることができる。また、人口高齢化の進行に対応しやく、さらに労働者の自由移動に有利である。社会プールは被保険者の間で共済の機能を果たすものであるが、個人口座は共済の機能がまったくない。個人口座に積み立てられた資金はすべて被保険者に帰属されており、多く積み立てれば多く受給する。特に年金の場合、このような仕組みは結局現役時代の所得格差をそのまま老後生活に反映されていく。所得格差を解消するどころか、むしろ所得格差を一層拡大させる働きがある。中国では、業界間、業種間、地域間に大きな所得格差が存在する。個人口座は社会保険の仕組みを通してそういった格差をさらに拡大している。

 社会保障制度には所得再分配の機能があるとされている。つまり、格差の拡大にブレーキをかけ、ジニ係数を引き下げるということである。一方、格差の急激な拡大は社会保障制度の所得再分配機能をいっそう限定的なものにするのみならず、社会保障制度を所得拡大の要因に変えていく場合も多く生まれる。特に社会保険はこのような危険性を常に孕んでいる。

 所得格差の拡大は今後も進むはずだ。そのため、社会保障制度の見直しや抜本的改革を早急にやらざるをえない。発展途上国は経済成長と国民の生活保障をバランスよく図るため、社会保障制度の整備を最優先課題とする必要がある。所得格差の拡大は激しければ激しいほど、社会保障制度の改革と整備がよりいっそう難しくなる。問題の先送りはさらなる問題を引き起こし、社会保障制度の整備にいっそうコストを高めることになる。そういう意味で、未だに全国統一の、包括的な社会保障制度が整備されていない中国は、今後、思い切った政策転換が強く求められている。

 胡錦濤政権は2012年までに「国民皆保険・皆年金」体制をほぼ確立することを目標に掲げている。それは果たして成功するのか、今後格差社会の進行により有効な対応策を講じることにかかっているといっても過言ではない。(執筆者:王文亮 金城学院大学教授 編集担当:サーチナ・メディア事業部)

参考文献
王文亮『格差で読み解く現代中国』ミネルヴァ書房2006年
王文亮『格差大国 中国』旬報社2009年
王文亮『現代中国社会保障事典』集広舎2010年
王文亮『「仮面の大国」中国の真実 恐るべき経済成長の光と影』PHP研究所2011年

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