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- 2011年12月22日 18:39
【佐藤優の眼光紙背】日本政府のインテリジェンス態勢の問題は、金正日死去に関する情報の遅れではなく、不拡散問題に関する認識の低さだ

故金日成国家主席の像のある万寿台の丘で涙を流す人々。(AP/アフロ) 写真一覧
金正日死去に関し、日本政府の情報収集が遅れ、初動の態勢に問題があったのではないかという批判が一部にある。例えば、12月21日付時事通信の以下の報道だ。
特別放送「一覧表」を伝達=野田首相出発前に秘書官室に―内調
北朝鮮の金正日総書記の死去を報じた19日正午の「特別放送」に先立ち、内閣情報調査室(内調)が過去の重大放送と特別放送の内容を記した「一覧表」を首相秘書官室に伝えていたことが20日、分かった。一覧表には故金日成主席が死亡した特別放送の例も含まれており、金総書記死亡の可能性を予測できた。しかし、野田佳彦首相は都内での街頭演説に向かっており、官邸の危機管理の甘さが改めて浮き彫りになった形だ。
内調は内閣の重要政策に関し、情報の収集、分析を行う情報機関で、幹部が20日の公明党北朝鮮問題対策本部で明らかにした。それによると、19日正午から北朝鮮で特別放送があるとの情報を踏まえ、午前10時22分、首相秘書官から関連情報を収集してほしいとの要請があった。これを受け、内調は同39分、特別放送などが行われた過去のケースの一覧表を秘書官室に送ったという。 首相は正午に官邸を出発したものの、総書記死去の報を受け、官邸に引き返した。これに関し、藤村修官房長官は19日の記者会見で「特別放送があることは承知していたので、首相は遺漏なきようにと指示を出した上で、執務室を出た。(問題は)全くない」と釈明している。
この記事を書いた記者は、インテリジェンスに関する常識が欠如している。金正日死去の可能性を予測できたと言うことと、死去の事実を確認する(あるいはその可能性がほぼ確実である)と判断することの間には、大きな差があるからだ。
数年前から、金正日死去に備えて主要国のインテリジェンス機関は、さまざまな準備をしていた。偵察衛星や通信傍受によって、金正日の動静に関する情報を極力収集するよう努力した。もっともこのようなシギント(通信、電磁波、信号などによるインテリジェンス)で「金正日が死んだ」という通信文を傍受したとしても、それが北朝鮮側によるマヌーバー(陽動工作)の可能性が排除されない。この情報が陽動工作でないという判断をインテリジェンス専門家が行わなくてはならない。
日本は、北朝鮮に関するオシント(新聞、雑誌、テレビ、ラジオなどの公開情報を通じたインテリジェンス活動)は、世界最高水準を誇っている。確かに情報量としては言語バリアーのない韓国の方が有利だが、分析、評価では北朝鮮に関するオシントの方がインテリジェンス・コミュニティーにおける評価が高い。それは韓国のオシントが政策判断によるバイアスがかかりやすいからだ。
19日午前10時に、朝鮮中央放送(テレビ)は、正午に特別放送があると予告した。これに関し、内閣情報調査室も外務省も迅速に反応した。
野田佳彦首相が19日正午の北朝鮮の金正日総書記死去を伝える特別放送を待たずに街頭演説に向かった問題で、首相が事前に内閣情報調査室(内調)から「特別放送は金日成主席の死去以来」と報告を受けていたことが21日、分かった。/自民党部会での内調の説明などによると、内調は19日午前10時8分、首相秘書官室に「正午から特別放送がある」と伝達。同22分に「関連情報を集め連絡を」と指示を受け、同39分に過去の特別放送・重大放送の一覧表を秘書官室に送った。外務省も午前11時23分、首相秘書官に「特別放送は1994年の金主席死去以来だ」と伝えた。(12月21日MSN産経ニュース)
必要な情報はすべて首相官邸に迅速に伝えられている。もっともこの情報だけで、金正日死去を野田首相や首相官邸のスタッフが判断することはできない。そもそも、情報の評価、判断は、第一義的にインテリジェンス専門家が行うことだ。そこでどうしても判断ができないので、政治決断を首脳に求めることもある。しかし、今回、事態はそこまで煮詰まっていなかった。前に述べたように、「特別放送」を用いた北朝鮮の陽動工作の可能性が排除されないからだ。外務省、内閣情報調査室が、金正日死去という判断をしなかったことも正しい。この種の判断をするためには、ヒュミント(人間を通じた情報収集活動)による裏付けが不可欠だからだ。
ヒュミントで、機微に触れる情報を入手するためには2つの要件を満たさなくてはならない。
第1は、情報源が事実を知ることが出来る立場にいることだ。
第2は、情報源が正直に事実を伝えてくれることだ。
今回、米中露もヒュミントで金正日死去の情報を取ることができなかった。この2つの条件のいずれか、もしくは双方が満たされていなかったからだ。そうなるといずれの国のインテリジェンス機関もオシントで勝負するしかなくなる。19日正午過ぎの金正日死去を伝える朝鮮中央放送の報道は12:03分に野田首相に届いている。これは諸外国と比べて早いくらいだ。日本が情報戦で敗れたわけではない。「分からないことは、分からない」と正直な評価をすることもインテリジェンスにおいては重要だ。
野田首相と首相官邸のスタッフは、「特別放送」の予告に関する情報を得たときに「北朝鮮で重大事態が起きた可能性もある。その場合の態勢は整えておきながら、決定的な情報が入るまでは『あたかも何事もなかったがごとく』行動しよう」という方針をとった。インテリジェンスの観点から見て、定石通りの行動だ。
更に金正日死去を北朝鮮が発表した直後から、政府はこのような状況を想定して策定された極秘マニュアルに即して動いている。米国、ロシア、中国と比較しても遜色のない動きをしている。率直に言って、韓国よりは日本のインテリジェンス能力の方がはるかに高い。
朝日新聞の牧野愛博記者の以下の検証記事がインテリジェンスの観点から事態を正確に伝えている。
金総書記死去「兆候なさすぎた」 各国情報機関つかめずインテリジェンスの文法に照らして、野田佳彦首相、首相官邸スタッフ、内閣情報調査室、外務省などの対応に特段の瑕疵はない。瑕疵がないにもかかわらず、難癖のような非難を展開する自民党の方が、東京のインテリジェンスコミュニティーの笑い物になっている。
17日午前8時30分の死去から19日正午の発表まで、計51時間余にわたって伏せられていた北朝鮮の金正日(キム・ジョンイル)総書記の死去。日米韓ロの情報機関は金総書記の動静を注視してきたが、事前につかめなかった。なぜ、諜報(ちょうほう)活動は実を結ばなかったのか。
韓国国会情報委員会での証言などによれば、韓国の情報機関、国家情報院は17日も偵察衛星による撮影や無線傍受を続けていた。同日午前8時半。金総書記の特別列車は15日から平壌郊外の龍城(リョンソン)駅に停車したままだった。無線の交信量にも特別な変化はなかった。
北朝鮮軍は19日午前、日本海に向けて短距離ミサイル数発を発射。北朝鮮が特別放送を予告した同日午前10時になっても、北朝鮮軍はさらなる発射に向けた準備の動きを続けていた。
関係者の一人は「今回はあまりにも兆候がなさすぎた」と語る。1994年7月、故金日成(キム・イルソン)国家主席が妙香山の別荘で死去した際は無線の交信量が急増。平壌からヘリコプター2機が向かった事実もレーダーで把握できた。2008年秋、金総書記が現地指導を再開した際には、長い車列を韓国の偵察衛星が捉えた。
北朝鮮は近年、無線を使わないですむように平壌と各地の軍司令部などを結ぶ光ファイバー網を整備。昨年3月の韓国哨戒艦沈没事件の直前には、徹底した無線封鎖措置を取った。
「1号行事」と呼ばれる金総書記の動静は極秘事項。特に健康状態の保秘には気を使い、外遊の際には総書記の排泄(はいせつ)物を持ち帰る徹底ぶりだった。
19日午前10時の特別放送の予告を聞き、日米韓の情報機関関係者は即座に連絡を取り合った。「まさか、金正日の死去はないだろう」。そんな安易な予測が出回り、さらに判断を誤らせたという。
日韓の政府関係者は否定するが、中国は発表前に知っていたという指摘も一部にある。生活や経済情報の場合、人の交流が多い中朝関係が物を言う。ただ、核実験などの場合、最大の支援国である中国に配慮して北朝鮮側が「自主申告」するケースがほとんどだ。(ソウル=牧野愛博)(12月21日、朝日新聞デジタル)
ただし、インテリジェンスの観点から、日本政府の対応にも深刻な問題がある。北朝鮮が持つ核爆弾、弾道ミサイルなどの大量破壊兵器に関するノウハウが、金正日死後の混乱で流出する危険性を主要国のインテリジェンス専門家が注視しているにもかかわらず、不拡散に関する問題意識が、日本政府に稀薄だからだ。
特に懸念されるのは、核開発が最終段階に達していると見られているイランに、北朝鮮から大量破壊兵器に関する技術が流出することだ。国際社会、特に米国がイランに対する制裁を強化しようとしているときに、日本の玄葉光一郎外相は、イラン擁護の立場を明確に表明している。19日、ニューヨークで行われた日米外相会談で、イランに関する問題も議論された。外務省HPはこう記している。
玄葉大臣から、日本としても安保理決議第1929号の履行に付随する措置を拡大したところであり、引き続きイランに対する圧力を維持するが、それと同時にイランへの働きかけも重要である旨述べるとともに、イラン中央銀行を制裁対象とする国防授権法案について、イランからの原油輸入が停止すれば、世界経済全体への打撃となる惧れがあるとの考えを伝えた。これに対し、クリントン長官からは、日本側の懸念については承知しており日米間で緊密に議論をしていきたいとの反応があった。玄葉外相の「イラン中央銀行を制裁対象とする国防授権法案について、イランからの原油輸入が停止すれば、世界経済全体への打撃となる惧れがある」という発言は、日本政府がイラン側に立つという明確な宣言だ。
佐々江賢一郎外務事務次官、別所浩郎外務審議官、伊原純一北米局長をはじめとする外務官僚は、このスタンスで、米国との関係を維持できると思っているのだろうか。理解に苦しむ。
金正日死後の北朝鮮情勢は、不拡散問題、特にイランの核開発との連立方程式を立てて解かなくてはならない。首相官邸、民主党の政務調査会が指導力を発揮し、玄葉外相の暴走を今の内におさえておかないと、日本は米国との間に普天間問題以上に深刻な難問を背負い込むことになる。(2011年12月22日)
プロフィール
佐藤優(さとう まさる) 1960年生まれ。作家。1985年に外務省に入省後、在ロシア日本大使館勤務などを経て、1998年、国際情報局分析第一課主任分析官に就任。 2002年、鈴木宗男衆議院議員を巡る事件に絡む背任容疑で逮捕・起訴。捜査の過程や拘留中の模様を記録した著書「国家の罠―外務省のラスプーチンと呼ばれて」(新潮社、第59回毎日出版文化賞特別賞受賞)、「獄中記」(岩波書店)が話題を呼んだ。2009年、懲役2年6ヶ月・執行猶予4年の有罪判決が確定し外務省を失職。現在は作家として、日本の政治・外交問題について講演・著作活動を通じ、幅広く提言を行っている。近著に「予兆とインテリジェンス」(扶桑社)がある。



