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徹底検証:岩波書店『広辞苑』の「台湾記述」どこが問題か - 野嶋剛

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逃げをつくった記述

 その後、岩波書店では第6版の「第2刷」で、従来の「日本は中華人民共和国を唯一の正統政府と認め、台湾がこれに帰属することを実質的に認め、中国は賠償請求を放棄した」という形で、断定調から「実質的に認め」た、への書き換えを行っている。この第2刷は第1刷ほど流通していないとみられるので、実際は改訂前の広辞苑を手元に持っている読者にとっては、12月22日の岩波書店の声明は意味が通じにくかったに違いない。

 つまり、一度、岩波書店は「承認し」という記述が不適切である可能性に鑑み、「実質的に認め」という形で逃げをつくった記述に変更している。新年1月12日に刊行される第7版でも継承されるのは、この第2刷で改められた内容ということになる。

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この地図も問題になった(同)

 なお、台湾を「台湾省」とする地図を載せている点についても、台湾人団体や台湾の代表処から抗議が出ている。岩波書店は、声明で「中華人民共和国」の項目であり、同国の行政区分を載せているに過ぎない、と説明している。あえて外国の行政区画まで載せる必要があるのかという点はよくわからないが、あまり生産的な議論になるとは思えないので、とりあえず措いておきたい。

 私は岩波書店の声明を受けて、同社に質問を送った。それは主に次の3点に関してのことだ。

■第6版改訂版で「実質的に」を入れたのが日本李登輝友の会の抗議を受け入れたことによる措置であるとするなら、なぜ修正が必要だと判断したのか。

■共同声明が出された直後の第3版や第4版で書かれなかった日中共同声明における台湾の帰属問題が第5版で入ってきたのはどうしてか。

■ほかの大型辞典類が、解釈が分かれる台湾の帰属に踏み込まないなか、なぜ広辞苑だけがこの台湾の帰属について記述をしているのか。

 これに対して、岩波書店は書面で、最初の質問について「読者からの指摘を受けて検討し、よりよい記述に改めたものです」と回答した。残りの2つの質問については「辞典はすべて編者・執筆者の解釈によって成り立つものです。論文・条文などをそのまま引用するのではなく、対象となる読者向けに解説を施します。客観的・中立的な記述に努める一方、唯一の正解を提示するものではないと考えます」と述べている。

 いずれによせ、ここからは、問題点をしっかり整理しておきたい。

玉虫色に処理した日米政府

 実際のところ、国際法上における「台湾の帰属」ほど厄介な問題は少ない。そこには、日本の戦後処理の問題、戦後国際体制の問題、中華人民共和国と中華民国の本家争いの問題、台湾独立の理論的根拠の問題などが絡んできて、それを語る側の立場と問題設定によって、議論が永久にでも続きかねない。

 それゆえに、私は、台湾問題を長年書いてきたジャーナリストとして、特定の立場の主張に与することは、謹んできたつもりである。その私にとっても、今回の岩波書店の対応には、疑問を禁じえない。

 なぜなら、「実質的に認めた」というのは、岩波書店自身が認めているようにあくまでも解釈であり、その解釈を「誤りであるとは考えておりません」と主張しているからである。

 だが、それは認識がずれている。この場合、誤りであるかどうかは論点ではなく、書くべきかどうかが論点なのである。

 日本政府が中華人民共和国と日中共同声明を交わしたとき、日本政府はその交渉において、中華人民共和国政府が要求した「1つの中国」のなかで、「中華人民共和国は中国の唯一の正統政府」ということは承認したが、「台湾は中華人民共和国の領土である」という部分については玉虫色に処理した。

 その結果、用いられたのが「理解し、尊重する」という文言であった。この「理解し、尊重する」というのは、外交的に練り上げられた文章で、お互いに解釈可能な余地を残している。肝要な点は、日本政府として「中国の主張については承知しており、反対は唱えないが、実態として、台湾の地位つまり帰属はまだ最終解決に至っていない」という認識に尽きている。

 その前に、リチャード・ニクソン米大統領(当時)の訪中で米中が交わした「米中共同コミュニケ」のなかでも、米国は中国の主張を「認識する」とだけ述べている。これは、中国がそのように語っていることを「知っている」とする以上でも以下でもない。

言わぬが花

 なぜ、米国や日本がこの点を守り通そうとしたか。理由の1つは、日米安保体制や台湾の安全の問題にも直結するからだ。もし台湾が中華人民共和国の領土であると100パーセント完全に認めてしまえば、万が一、中華人民共和国による台湾への武力行使が起きたとき、それは中華人民共和国のなかで起きている「内戦」になってしまい、日米安保条約でも介入する正当性を失ってしまう。

 もちろん、1970年代と今日に比べて、台湾海峡の緊張度は大幅に下がっているが、それでも武力統一を中華人民共和国が放棄していない以上、そのリスクは存在しているので、この「曖昧さ」は台湾問題の生命線であるとも言える。

 ただ、日中交渉のなかで、中国側が簡単には折れてくれないことを承知していた日本側は、「ポツダム宣言」という逃げ道を用意することにした。ポツダム宣言には「カイロ宣言を履行する」としてある。カイロ宣言では、台湾は中華民国に返還される、と書かれている。中華民国の後継政権が中華人民共和国ならば、将来、台湾が中華人民共和国に返還されることになったとしても日本は異を唱えない、という暗黙の意思表示でもあった。

 ここのポイントは「1つの中国に基づく台湾問題の解決を日本は支持する」という立場である。これにより、日本は台湾の独立にコミットすることが外交上はできなくなり、その点を中国は評価して日中共同声明が交わされた、という経緯であった。

 ゆえに導き出される結論は、「台湾が中華人民共和国に帰属することを日本が認めた」という記述は、「実質的に」をつけたとしても、書きすぎであるということだ。「日本が認めた」とは、日本政府は口が裂けても言わない。だからこそ、この広辞苑問題を問われた菅義偉官房長官は「政府の立場は日中共同声明の通りだ」としか語ろうとしなかった。言わぬが花、なのである。

 それをあえて広辞苑が両論併記でもない形で書いてしまうのは、その背後にもしかすると特定の政治的立場があるのではないかとといった要らぬ憶測や疑問を招きかねない。

台湾の人々の苦闘

 もう1つ、岩波書店の声明や広辞苑の記述に欠如しているのは、近年、台湾で起こった民主化への無理解ではないだろうか。広辞苑の「台湾」の項目には、台湾の民主化について、一言も触れられていない。

 岩波書店の声明では、「中華人民共和国・中華民国はともに『一つの中国』を主張しており」と書かれている。確かに、現在も台湾で用いられている中華民国憲法では「1つの中国」をうたっている。2008年から2016年までの国民党・馬英九政権は、対中関係のうえで「1つの中国」も受け入れてきた。

 しかし、2016年の選挙で圧倒的勝利を飾った現在の民進党・蔡英文政権は、「1つの中国」の受け入れを中国から求められても拒み続けており、こう着状態が続いている。政治的な現実として、現在、台湾のなかで世代を重ねるごとに「中国への帰属」という意識自体がほとんど消失しつつある。台湾は1990年代以来、20年以上にわたって台湾のなかで繰り返し選挙によって民主的な意思決定を行ってきた。そのプロセスに、中華人民共和国は一切関わってきていない。

 こうした重い経緯を差し置いて、台湾の帰属について「中華人民共和国に帰属する」などと断言することは、軽率のそしりを免れない。台湾の将来の決定権は、台湾の人たちが主張する「台湾人民2300万人が決める」にせよ、中華人民共和国が主張する「台湾人民を含んだ中国人民13億人が決める」にせよ、そのなかには日本人は含まれていない。日本人は、その成り行きを基本的にそれぞれの思いで見守ることしかできない。

 もちろん日本人でも、言論や運動として、どの立場につくかは自由である。日本李登輝友の会のように、基本は台湾独立支持の運動を行っている団体のような主張もある。反対の立場もあるだろう。しかし、これだけ複雑かつ対立のある問題で、解釈の領域に踏み込んでしまうことは、辞典としての性格上望ましくないということである。

 この記述が、大変に多い台湾の広辞苑ファンを傷つけることは間違いない。かつて台湾には、戦後の国民党の言論弾圧に際して「台湾にも岩波書店のような出版社が必要だ」と立ち上がって出版社をつくる計画を立てたことを理由に、逮捕・投獄され、処刑された人々までいる。彼らがこのことを聞いたらどう感じるのか、岩波書店は思いを馳せてほしい。

 国際情勢のなかでは、いまの中華人民共和国は優勢であり、強大であり、日本とも正式な国交を結んでいる。台湾=中華民国は、確かに劣勢であり、その立場は弱いようにみえる。しかしながら、マイノリティへの同情や支援を旨とするリベラリズムに依拠すると日本社会から評価されている岩波書店であるからこそ、台湾の人々が直面した苦しい状況への配慮が求められることではないだろうか。民主や自由を掲げて、自らの「帰属」、つまり未来を求めて苦闘している台湾の人々への「共感ゼロ」にもみえる今回の対応には、伝統あるリベラルの牙城としての岩波書店の名が泣く、というしかない。

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