- 2017年12月20日 19:02
性暴力被害者の告発をどう受け止めるのか?
3/3(3)告発した被害者と支援者はどのような状況に置かれるか
それでは、性暴力の被害者と支援者がどのような状況に置かれるのかについて、宮地尚子「環状島=トラウマの地政学」を参照して考えてみたい。
- 作者: 宮地尚子
- 出版社/メーカー: みすず書房
- 発売日: 2007/12/20
- メディア: 単行本
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宮地さんは、性暴力に限らず、当事者と支援者が置かれた状況について、「環状島」の地形にたとえて説明している。環状島とはこんな島のことだ。(図は【宮地, p.7.】)

環状島はドーナツ上になっている島のことである。島の中心部に内海を持ち、そこからすり鉢上に斜面になっており、山に囲まれている。その山の尾根を越えると、今度は外海に向けて斜面が続いている。宮地はこの環状島の図を用いて、当事者と支援者の置かれた位置を次のように示す。(図は【宮地, p.10】)

これは環状島の断面図である。中心の内海の最も深部は「ゼロ地点」だとされている。ここは、言うなれば爆心地である。厳しい衝撃で粉々に吹き飛ばされ、死の証拠すら残らなかった当事者のいる場所である。そして、この内海には亡くなった当事者たちが沈んでいる。当事者は、その内海から這い上がり、島の外に出て行こうと向かうのが、内斜面だ。この斜面を登って当事者は外の世界に出ようとしている。尾根を越えた向こうの斜面にいるのが支援者だ。支援者は外側からこの斜面を登って、尾根の内側にいる当事者を助けようとする。外斜面をおりてしまった場所に広がる外海が非当事者の世界である。
こうした環状島のモデルを使ってイメージすると、被害者が性暴力を告発するというのは、島の内海から内斜面を登り、尾根から外海に向かって発信することである。また、支援者は外斜面を登り、尾根までたどり着いて被害者を助けることになる。そして、宮地さんは、この尾根にいる当事者と支援者は、内海への〈重力〉に引きずられ、尾根を吹きすさぶ〈風〉に晒されるという。
宮地さんのいう重力とは、主にトラウマの症状を指している。厳しい経験を語ろうとすればするほど、当時の痛みや苦しみが想起され、内海へ引っ張られる。被害者は必死の思いで内斜面を登ってきたのだが、重力はその被害者を内海へ引き摺り下ろそうとする。その中で、被害者は重力に耐え、踏ん張って尾根にとどまらなければ、性暴力を告発できないのである。
同時に支援者も尾根にたどり着くと、そのまま内海まで引き摺り込んでくる重力に襲われる。性暴力の被害の詳細を聞き、深く受け止めて共感的になることで、支援者自身がトラウマを負うことがある(これは代理受傷と呼ばれている)。そのまま重力に負けてしまえば、内斜面をずるずると滑り落ちて、支援者も内海に飲み込まれてしまう。だから、尾根で告発する被害者を助ける支援者もまた、危険な状態に陥りやすい。
次に宮地さんは〈風〉について以下のように説明している。
(前略)〈風〉とは、トラウマを受けた人と周囲の間でまきおこる対人関係の混乱や葛藤などの力動のことである。環状島の上空にはいつも強い〈風〉が吹き荒れている。内向きの〈風〉と外向きの〈風〉が吹き乱れ合い、〈内斜面〉も〈外斜面〉も同じ場所に留まりつづけるのはたやすくない。【宮地, p.28】
登山の経験者であれば、尾根に吹きすさぶ風の激しさはよく知っていることだろう。内向きの風に晒される被害者は、尾根から吹き飛ばされて内斜面から転がり落ちそうになる。この風は、あるときは内海に近いほかの被害者の呻き声であったりする。「助けて」という声を振り切って、被害者は自分だけが尾根を越えようとする。そのことに対する罪悪感が被害者を襲ってくる。あるときは、内斜面の上から内海にいるほかの被害者に対して優越感をえるかもしれない。逆に、自分より尾根に近づいているほかの被害者に羨望の眼差しを向けるかもしれない。もしくは、同じ尾根に立っているのに、ほかの被害者の方が支援が集まり、注目を得ていることに失望するかもしれない。こうした風に耐えながら、被害者は必死に尾根に立ち、自らの性暴力の経験を語る。いつ転がり落ちてもおかしくない場所に立っているのである。
他方、外斜面にいる支援者は、被害者を助けようと尾根近くまで必死に手を伸ばす。しかし、被害者の側はこれまで繰り返し、裏切られてきた思いがあるため、簡単にその手を取らない。支援者は、危険を冒して尾根の内側まで来ることを被害者から請われ、「どうせここまでは来られないだろう」となじられたりする。被害者は、確実に支援者が信頼できるかどうかを確認するために、尾根で支援者を試すこともある。この風が吹き荒れる尾根の上で、支援者もまた転がり落ちないように踏ん張っている。そのことにより、支援者は疲弊し、下山したくなっていく。また、よりどちらがより内斜面に近づけるのかという、支援者同士の競争もある。さらには外海の非当事者からも風が吹いていくる。「被害者を利用している」「支援者こそが状況を悪化させている」などの批判が、支援者に浴びせられる。ここで繰り返されるのは「偽善者非難」である。こうして支援者もまた、いつ転がり落ちてもおかしくない場所で、被害者の告発を支えることになるのである。
私が性暴力の告発に際して念頭にあるのは、こうした被害者と支援者の状況である。だから、私は性暴力被害者に向かって、「告発した方が良い」ということはない。尾根では、重力と風に耐えることに疲れてしまった被害者を何人も見た。そのときに、被害者を置いて、自分だけ外斜面を降りていった支援者も見た。その被害者と支援者の間に何があったのかほとんどわからない。私も尾根にいるときは自分が立ち続けるだけで精一杯だった。私が被害者を置いて外斜面を降りていく後ろ姿を見た人もいるかもしれない。
私は「尾根に立て」とは言えない。自分が尾根に向かったことがあるとしても、やはり言えない。尾根での経験こそが、深いトラウマになることもある。そして、残念なことに「尾根に向かったこと」の責任は、被害者と支援者にあるとされる。自己責任の登山なのだ。「十分な準備をしていたのか」「装備が甘かったのではないか」「天候を読み間違えたんじゃないか」「あの人は無事に登頂できたじゃないか」と外海からいろんな声が聞こえてくる。その状況を見て、尾根に登ろうとする人は足がすくむ。そのことを誰が責められるだろうか。誰も尾根に向かわなくなったとして、それは被害者と支援者が悪いのだろうか。
それなのに、なぜ尾根に向かう被害者がいるのか。私はそれは、「あの尾根を越えてみせる」ことで、新しい世界を切り拓く力が被害者にはあるからだと思っている。尾根を越えようとする被害者は、内海や内斜面にいる被害者に背を向けなければならない。でも、ほかの被害者たちは、尾根に向かう被害者を見ている。あの向こうの世界に到達できるかどうかを、かたずをのんで見守っている。もしかすると、尾根を越えることによって、次の被害者も尾根を越えようとするかもしれない。また、尾根を越えられなかった被害者を見て、そのあとを引き継いで尾根を越えようとする被害者もいるかもしれない。尾根から内斜面を滑り落ちる被害者を受け止めようとする被害者もいるかもしれない。
同時に、尾根に向かう支援者の後ろ姿を外海から見ている非当事者もいるだろう。支援者は非当事者の住む世界から遠く離れて尾根に向かう。そして、被害者の手を取ってこちら側の世界に迎え入れようとしている。その後ろ姿をかたずをのんで見守っている非当事者がいる。その非当事者も、また尾根に向かうのかもしれない。または、尾根から戻ってきた支援者や被害者を受け入れようとする非当事者もいるかもしれない。
こうした尾根に立つ、被害者や支援者を見ている人たちがいることは、わかりやすい「社会を変える」ような行動にはならないかもしれない。なぜなら、黙って見ている人たちは、なかなか可視化されないからだ。それでも、こういう人たちの心を動かすことが、性暴力の告発の意義だと私は思っている。政策や法律を変えたり、裁判に勝ったり、わかりやすい変化を起こすことだけが告発の意義ではない。静かに人の心に、性暴力の問題を考える出発点を与えるような、告発の意義もある。
以上のように、メタファーを多用して、一般論としての性暴力の被害者と支援者の置かれる状況について書いてきた。これはあくまでもモデルであって、具体的な被害者や支援者の関係に当てはめるようなものではない。その人の経験を、第三者が説明したり解釈したりすることは私の本意ではない。ただ、告発をした被害者、そして支援者が過酷な状況に置かれることはもう少し知られてもいいと思う。告発するというのは、簡単ではないし、二次加害の有無だけではなく、何重にも折り重なった複雑な問題なのである。
*1:https://lineblog.me/ha_chu/archives/67293039.html



