- 2017年12月20日 19:02
性暴力被害者の告発をどう受け止めるのか?
1/3この記事は三部構成になっています。関心に即してお読みください。
(1)はあちゅうさんの性暴力の告発
(2)はあちゅうさんに対する批判
(3)告発した被害者と支援者はどのような状況に置かれるか
(1) はあちゅうさんの性暴力の告発
いま、インターネット上で性暴力の告発が次々と行われている。きっかけは英語圏で始まった「#metoo」というタグである。過去に性暴力被害を受けていた人たちが、自分の経験を語り出した。日本でもTwitterを中心にして、性暴力の告発が続いている。
その中で、作家のはあちゅう(伊藤春香)さんが、電通に勤務しているときに上司から苛烈なセクハラ・パワハラをされていたことを告発した。加害者は、はあちゅうさんを深夜に自宅に呼び出して「指導」の名目で繰り返し罵倒し、人格否定を行なった。また、はあちゅうさんの女性の友人を紹介させて性行為を行い、その友人を貶める発言をはあちゅうさんに聞かせた。この件については、友人を紹介したはあちゅうさんの責任を問う声もある。だが、加害者は「被害者が最も傷つく方法」を嗅ぎつけ、それを繰り返すものだ。はあちゅうさんにとって、「自分の友人を性的に傷つける」行為が、はあちゅうさん自身を深く傷つける方法であるとわかっているから、加害者はそうさせたのだろう。(はあちゅうさんはこの件について友人に報告し、謝罪している*1)告発は以下で詳細な記事となっている。(詳しい被害経験も書いてあるため、閲覧には注意が必要です)
はあちゅうが著名クリエイターのセクハラとパワハラを証言 岸氏「謝罪します」
https://www.buzzfeed.com/jp/takumiharimaya/hachu-metoo?utm_term=.awPmYPQGQ#.wklKj6dgd
はあちゅうさんはこの告発に際して「良き被害者」の像を拒むことを明言している。告発後の個人ブログで、はあちゅうさんは以下のように述べている。
被害者であるなら品行方正を貫き、常に被害者としてだけ生きろ、
という認識のある方がいるとしたら残念に思います。
こういった証言をしたからといって、
今後、公の場で被害者としてしか
振舞えないのもおかしな話です。
私自身もセクハラ被害を訴える活動には協力したいと
思っていますが、それを仕事としたいわけではありません。
今後の活動の方向性についても質問を受けましたが
これまで通りに日常を発信していきます。
セクハラ被害を告発するかどうか迷っている人が一番恐れるのは
平穏な日常が奪われてしまうことのように思います。
私は自分に起きたことを語りましたが、
人生を奪われたわけではありません。
逆に言うと、被害者として振舞うことを
世の中に強要されるのなら、
人生を奪われたと感じるかもしれません。
普段通り元気に活動している姿を見せることが
私の今後の役割だと思っています。
今後ともよろしくお願いします。
はあちゅう「BuzzFeedの記事について」
以上のように、はあちゅうさんは、性暴力の告発後に「被害者としてだけ生きることを望まない」ことを強調している。これは、とても大事な点だ。
性暴力の告発は「被害を語ること」だけでは終わらない。告発後に、当事者は周囲からの「被害者への視線」を浴び続ける。ときには、当事者のあらゆる発言が、性暴力と結び付けられる。たとえばそれは、「あの人は被害者だからあんなことを言うんだ」「あの人は傷ついているからそんなことを言うんだ」という邪推の言葉として現れるし、「あの人は被害者のくせに」「あの人だって加害者になってるじゃないか」という言葉に現れる。実際には、当事者にとって、性暴力は人生の一部ではあるが全てではない。当事者のすべての振る舞いや価値観が性暴力によって形作られたわけでもない。ところが、周囲の視線や言葉によって、当事者は「性暴力の経験」に縛り付けられることがある。これは性暴力を告発する際に、当事者に圧しかかる重荷である。
はあちゅうさんはその重荷について、はっきりと「NO」の言葉を発している。この言葉を、私たち第三者は重く受け止めるべきだろう。そして、私はこの言葉は、次に告発する当事者へのメッセージにもなっていると思う。被害を告発した後も、いつも通り、明るく楽しく性的なジョークを飛ばし、微笑んでいる写真を出して、ポジティブシンキングな文章を書く作家として発信すること。至らない部分があることを隠さず、時にははしゃいで、羽目をはずすこと。ネットで炎上してしまうこと。いいことも悪いことも含めて、はあちゅうさんは「被害者」でありながら、「いつもの私」として生きていくのだろう。被害を経験したあと、当事者はどんなふうに生きることもできる。何かを諦める必要はない。そのことを、はあちゅうさんは身をもって実現することは、きっと同じ被害を受けた人たちへの希望になるだろう。
誰もが性暴力の被害を受けることがある。特別な存在だから被害を受けるわけではない。被害を受けたから特別な存在になるわけでもない。性暴力のトラウマがある人も、性的なジョークを楽しむことがある。私は性暴力被害者の支援に関わっていて、どぎついジョークを言う当事者になんども出会った。自分の経験をジョークにする被害者もいる。性的に傷ついているからと言って、いつもみんなが泣いているわけではない。自分の苦しい経験を笑い飛ばすことで前を向こうとする当事者もいれば、単純にジョークが好きな当事者もいる。もちろん、ジョークを言う余裕もなく、笑えなくてじっと耐えている当事者もいる。その違いはトラウマの深さではない。いろんな人が被害にあうので、反応も人それぞれだというだけのことだ。そんなことはあまり知られていない。なぜなら、メディアに出てくる被害者は、いつも泣いていて痛ましい姿だけだからだ。もしくは毅然として告発する姿だけだから。その被害者の姿は「同情」や「賞賛」によって消費される。私はその「良き被害者」の像に抵抗することを支持する。



