さて先週の続きではありませんが、「(他人の)礼儀を直す」というのは色々と難しいものがあります。「話せば分かる」人ってのは本当に希少で、そんな悠長に構えていては撃ち殺されないまでも無礼を働かれるばかりです。非礼な人はどこまで行っても非礼であり、言うことを聞かせるには暴力なり権力なりの「力」で押さえつけるしかない、残念な人はどこにでもいますから。
そこで、根強い体罰容認論を考えてみましょう。確かに、暴力でしか制御できない人も学校には数多いるには違いありません。学校教師が「話せば分かる」などと手をこまぬいている間にも、別の生徒が暴行なり恐喝なり窃盗なりの被害に遭っていることも多々あろうと推測されます。ならば教師の体罰を解禁して、教師の暴力によって学校の治安を維持できるようにすれば良いと、そう主張する人が出てくるのは頷けるところです。
ただ、そうした体罰待望論者が、いったいどこまで学校の先生を信用しているのか、この点に私は疑問があります。もし学校教師が全面的に信頼するに足る高潔かつ公正な人間であるならば、その手に「力」を持たせるのは良いことかも知れません。しかし私利私欲や好き嫌いにまみれた人間の手に「力」が渡れば、その「力」がどのように振るわれるかは考えるまでもないことでしょう。
学校教師の言うことは常に正しい、先生の判断に一切の誤りはない――そう信じている人が体罰容認を説くのなら、まぁ賛成反対はさておき一定の合理性はあるかなと思います。しかし学校教師に信頼を抱いていない、むしろ不信感を持っているにもかかわらず、教員による体罰が事態を改善しうると考えている人がいたならば、率直にって「頭の弱い人だなぁ」ぐらいに感じますね。信用できない人の手に、どうして力を持たせようとできるのやら。
次善の策として、学校現場への警察権力の介入が必要だと説く人もいるわけです。相撲協会を飛び越して警察に被害を訴えた貴乃花親方も、考え方としてはこれに似るパターンと言えます。まぁ、教師や相撲協会関係者よりは警官の方が信頼できるところはあるのでしょうか。でも警察関係も、色々と信用を失墜させるケースは多々ありますし、そこで警察不信を説く人は多いですよね……
信頼がないにもかかわらず、そこに「力」を持たせることを望んでいる、そうした奇妙な構図は非暴力的な面でも多々あるように思います。例えば雇用主と労働者の権力関係はどうでしょう、とりわけ矛盾に溢れているのは「成果主義」や「能力主義」への評価です。とかく「年功序列」は悪とされ、その対概念として成果主義なり能力主義なりが称揚されがちですけれど、労働者を評価する雇用主の目がどこまで信頼されているのか、そこに私は疑問があります。
もし、自分自身の勤務先の人事評価が高度に信用できるものと感じているのならば、その人が成果主義や能力主義を支持するのは分かります。しかし自分の会社の評価に納得していないのに、成果主義・能力主義を支持しているのなら、ちょっと筋が通りませんよね? もしかしたら「隣の芝生は青く見える」よろしく、自社はさておき他社では適正な評価が行われていると、そう信じているのでしょうか?
少なくとも私は、大半の日本企業における人事評価は誤った基準で行われており、能力のある人よりも「粒選りの馬鹿」を昇進させる制度になっていると感じています。だからこそ、日本の経済は伸びなくなったのだ、と。むしろ過去に存在したとされる年功序列の方が、まだマシだったのではとすら思います。年功序列なら、有能も無能もどちらも昇進します。しかし日本の成果主義の元では、無能が権力を握ってしまうわけです。そうして失われた10年は失われた20年となり云々。
まぁ現代において地位を得ている人ほど、自分は正しい評価によって今に至るのだと、そう信じたがるところはあるのでしょう。そして経済系のメディアほど、顕著に権力へと擦り寄るところもあります。さらに「偉い人」の言動を受け売りして、自身も偉い人になったつもりの論者も少なくありません。しかし会社の舵取りを任された人の残した「結果」は今や火を見るより明らかです。まぁ、選べるものもあれば選べないものもありますけれど、信頼するものを間違えたツケは庶民にも回ってきます。