- 2017年11月20日 14:07
「食用米」復活へ模索続ける「飯舘」「南相馬」の篤農家たち - 寺島英弥
2/2「青米」の混じる収穫
10月6日、飯舘村の東に接する南相馬市の原町区下太田。合併前の旧太田村時代から変わらず水田の広がる農村部で、福島第1原発事故では南側の一部が小高地区とともに警戒区域(原発から20キロ圏)に入り、事故直後は自主避難も含めて大半の住民が地元を離れた。
その後、復興のために農家の有志グループがコメの試験栽培や、コメに代わる作物の栽培実験に挑んできた。今は、油を搾って利用する菜種の畑が年々増えている。だが原発事故を境に、風評や長期のブランクからコメ作りをやめる住民も多い。
そんな中、農業再生を目指す7人の有志が今年2月、農事組合法人「あいアグリ太田」=代表・大和田英臣さん(63)=を結成した。「耕作放棄地が増える恐れがあり、その委託も受けながら、太田の復興の基盤である農地を集落ぐるみの営農で守る。その担い手もつくり、将来は地域の人も雇用する」と語るのは、メンバーの奥村健郞さん(60)だ。
今年、「あいアグリ太田」が請け負ったのは下太田地区の農家20戸の水田、計30ヘクタール。作付けの大半は福島県の奨励品種「天のつぶ」で、ほかに餅米も1.7ヘクタール栽培した。
ここでも倒伏寸前の稲が多く、見渡す限りの水田に、黄色の渦巻き模様が広がっていた。刈り取り作業も終盤だというこの日は、雨の晴れ間。翌日からまた雨模様の予報が出ており、奥村さんらは収穫を急ごうと、大型のコンバイン3台を投入。刈り取った稲を自動脱穀して籾だけを内部に蓄え、いっぱいになると、水田の端に止めたトラックの荷台に吐き出してまた刈り取りを始める、という作業を繰り返していた。
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収穫したもみには青米が混じった
「東北農政局は(9月)29日、東北6県の2017年産水稲の作柄概況(15日現在)を発表した。東北の作況指数は100(前年同期比2ポイント減)で、『平年並み』(99~101)の見通し。夏の日照不足と低温の影響で、10アール当たりの予想収量は565キロとなり、前年同期比で11キロ減る見込みだ」(9月30日付『河北新報』)
記録的な長雨と低温にもかかわらず、作況予想は「平年並み」。奥村さんのコンバインをトラックで待っていた仲間の1人は、「『平年並み』なんてこと、あるかい」と、いまいましそうに話した。
「出来は全然だめ。実(もみ)が膨らんでいないもの。稲は例年7月末から8月10日に開花し、受粉するが、今年は雨と低温にぶつかり、その時期に花が咲かなかった。太陽に当たったのは8月末の2日ほどで、登熟(出穂後の成熟)する暇がなかった」
コンバインがトラックに近づき、脱穀したもみをはき出す太いパイプを荷台に伸ばした。荷台によじ登って、うずたかくたまっていくもみを見た。黄緑色をした未成熟の「青米」が目立つ。焦げ茶に変色し、ほとんど空っぽのもみと合わせると、全体の2割ほどを占めている印象だった。運転席を降りてきた奥村さんもあきらめ顔だった。「これでは10アールから8俵(480キロ)がいいところ。収量は平年の9割。直播(直まき)した所に影響が大きかった」。
牛、豚の飼料米になる現実
直播とは、もみをそのまま水田にまく方法のこと。コメ作りの主流は田植えだが、苗をハウスで育てたり、農協から買ったりするのはコストが高くつく。震災・原発事故後の人手不足もあり、米価の安さで他地域に比べハンデのある浜通りで、稲作を再開した農家に直播は広まっている。
だが、既に体が出来上がった苗の強さに比べ、種から遅れて育つ直播の稲の場合、同じ時期に遭遇した低温への抵抗力は弱かった。これは今年、浜通りの直播のコメ作りに共通の課題だった。
「でも、青米であっても虫食い米であっても、等級には関係なく売れるんだ。飼料米だから」と奥村さんは言う。「あいアグリ太田」で今年作った「天のつぶ」は全量、牛や豚の飼料米として地元農協に売られる。
「炊いた後の食味は『コシヒカリ』に引けを取らない」(奥村さん)という「天のつぶ」は、福島県農業試験場(現・福島県農業総合センター)が約15年かけて開発し、原発事故の前年に県の奨励品種になった。稲の丈が低く、倒れにくく、いもち病に強いという特徴もある。主力の独自品種が不在だった同県の期待は大きく、原発事故があった2011年は販売初年度に当たり、「天のつぶ」は「復興のシンボル」の役目を担うはずだった。が、その始まりから不運に見舞われた。
「天のつぶの試食会は(同年)11月30日、東京都のホテルで卸業者や流通業者を招いて開かれるはずだった。しかし、基準値超えのコメが続出し、県と地元農協組織でつくる主催者の『ふくしま米需要拡大推進協議会』は『安全性の面で問題が出てきている』と延期を決めた」(2011年12月3日付『河北新報』)
2011年の同県産米から、国の暫定基準値を超す放射性セシウムが相次いで検出され、新しいコメを市場にデビューさせるどころの話ではなくなってしまった。福島と名の付くすべてが「風評」という厳しい試練にさらされることになり、同県産米は前例のない出荷前の全袋検査を、現在も義務づけられている。
米価の暴落、消費地の拒否感が重なった陰で、流通市場では同県産米が匿名の「国産米」として取引され、皮肉にも「安全で安く、うまいコメ」との評価で業務米(コンビニのおにぎり、弁当、外食店のご飯など)に定着することになった。
飼料米もまた、同県が農水省の飼料米増産方針に新たな活路を求めた結果と言えた。コメ余りや、輸入依存だった飼料の国際価格高騰を背景に、コメを国内向けの飼料自給に利用する策で、生産者には最大で10アール当たり10万5000円もの補助金を出している。食用米を作った場合に近い収入を確保できる、という特典である。
篤農家の屈辱と誇り
南相馬市は原発事故後、市内でのコメ作付けを全面自粛したが、2014年、前年の実証栽培解禁に続いて本格的な「作付け再開」を宣言した。しかし、被災地産米への根強い風評などから再開を希望する農家は少なく、市と地元農協は全量を飼料米として販売し、収入を確保する施策で協働。以来、同市内で栽培されるコメの大半が飼料米として出荷されている(南相馬市によると、今年の市内の作付面積は原発事故前の約4割の2200ヘクタールで、8割が飼料米)。
太田地区では原発事故の翌年、奥村さんら農家有志が新潟大学や福島大学の研究者と組み、いち早く再開に向けた試験栽培に取り組んだ。だが2013年産米に、福島第1原発から飛来した粉じんが原因とみられる「基準値超え」が検出された。それを証拠立てる研究者らの測定結果も複数あったが、農水省は翌年に「原因は不明」と幕引きしてしまい、厳しい風評だけが地元に残るという苦い経験をしてきた。この痛手も、多くの農家に農業再開を諦めさせることになった。
「もともとここでは『コシヒカリ』を作っていたんだ」と奥村さん。「あいアグリ太田」としての作付けとは別に今年、自らの水田で70アール分の「コシヒカリ」を栽培した。収穫後は自家米や縁故米に回し、ごく一部を農協に出すという。
しかし奥村さんは、「『コシヒカリ』を、売れるコメとしてもっと作りたい」と言う。国内のコメ余りは解消しつつあり、たとえ被災地支援の要素があったとしても、国が飼料米増産に巨額の補助金をいつまでも出し続ける保証はどこにもない。「国の政策など先は分からない。『いいコメ』の価値観とは違う飼料米作りに甘んじていたら、農家本来の意欲は薄れる。今は苦境を食いつなぐコメ作りだが、再び『食べるコメ』を消費者に売れるようにならなくては」(奥村さん)。篤農家としての屈辱と誇りが、声となった。
浜通りのコシヒカリ復活を
この日、トラックでの搬送役を担っていた「あいアグリ太田」代表の大和田英臣さんも、その思いは同じだった。
大和田さんがコメ作りを再開したのは2016年。それまでは水田を借りての菜種栽培に、奥村さんら農家有志と結成した組織「南相馬農地再生協議会」の一員として取り組んできた。「下太田では来年から、圃場整備(水田の区画拡大や水利改良などの工事)が始まる。完成したら、『あいアグリ』のメンバーに計55ヘクタールが配分される。工事の間は飼料米を作っていくが、新しい農業の土台ができれば、私たちは食用米作りを広げるつもりだ」。
しかし、先行きの懸念はやはり、対策の見つからない「風評」にあった。
「消費地での物産展では、福島のコメにお客さんが寄ってきてくれる。だが、その場限りで、販売につなげられないでいる。私たちは『コシヒカリ』を復活させ、『あいアグリ』としての自主販売を開拓していこうと話し合っている。その目標を実現できなくては、将来に至る農業経営も、この地域の復興も、浜通りのコメの復活もないんだ」(大和田さん)
大和田さんは近隣の農家仲間と有機米栽培のグループをつくり、自ら顧客を開拓した。だがその後に残ったのは、苦い思いだ。「震災、原発事故が起こると、すぐに心配する電話を遠方からもらったが、『当分、コメ作りをやれない』とお断りすると、客はたちまちゼロになった」。どうすればいいのか。それは「あいアグリ太田」を、交流の場としても育てていくことだ、と大和田さんは考える。
太田地区には、夏の伝統行事として名高い「相馬野馬追」(国指定重要無形民俗文化財)の出陣の地の1つ、相馬太田神社がある。野馬追を伝承した相馬地方の旧領主・相馬氏は、平将門の末裔の戦国大名だ。毎年7月末の祭日の朝には、青々と苗が伸びた水田の一本道を、騎馬武者たちが参集してくる。下太田の人々も祭りを盛り上げ、地元の復興の支えにしてきた。「ここに多くの人を迎え、コメが育つ風景を見せたい」。その日を仲間と夢見ている。



