- 2017年11月14日 17:21
ゲーセンという「場」を思い出しながら、SNSという「場」に思いを馳せる
2/2「場」から「人」へ。そして再び「場」へ。
それから携帯電話の時代が来た。
90年代末~00年代前半にかけて、携帯電話が爆発的に普及して、誰かと待ち合わせる際の必須アイテムになった。電話とメールは、人と人とを繋ぐ強力な通信手段だ。「場」に頼るまでもなく、誰かと連絡を取ることも、決まった時間に決まった場所で待ち合わせることもできる。
携帯電話の登場によって、たぶん、世の中のありとあらゆる「場」の持つ力は(少しずつ)弱くなったのだと思う。少なくとも、そこに行けば誰かに会える、というタイプの「場」に関してはそうではなかったか。
なぜなら、わざわざ「場」に赴かなくても、誰かとコミュニケーションできるからだ。「場」には、そこに行けば誰かに会えるかもしれない・コミュニケーションできるかもしれないという期待が帯電する。けれども、もっと確実にコミュニケーションできる手段が普及してしまえば、「場」に赴かなければならない必然性は下がる。とりあえず「場」に出かける・ブラブラと「場」に出かけることが減って、「場」に出かけるとしても、より目的意識を持って出かけるようになる。
私も、携帯電話を持ってからは、ゲーセンに行く前に電話やメールで連絡することが増えた。そうでなければ、一人でゲーセンで遊ぶと腹を決めるようになった。私にとってのゲーセンは、ブラブラと出かける「場」から、もっと目的意識をはっきりさせて出かける「場」へと変わっていった。
じゃあ、携帯電話が「場」を損ねるだけのものだったかというと、そうではなかった。
ゲーセンのような「場」が力を失ったかわりに、SNSという、大きくて不定形な「場」ができあがった。誰かに会えるかもしれない・コミュニケーションできるかもしれないという期待は、SNSという、オンラインの「場」に帯電するようになった。
いまどきの人は、誰かの会うのを期待して公園やゲーセンをブラブラしたりはしない。そのかわり、隙間時間にSNSをブラブラと眺めて、誰かに会えるかもしれない・コミュニケーションできるかもしれないと期待するようになった。それか、タイムラインの誰かが面白い出来事を運んできてくれやしないかと期待するようになった。
SNSだけがオンラインの「場」を形成したわけではなく、その前には、掲示板やメーリングリストやブログといった「場」もあったけれども、普及率や即応性や完成度からいって、SNSの普及をもってオンラインの「場」がオフラインの「場」を包み尽くす段階に到達した、と言ってしまっていいように私は思う。
私達は今、SNSをはじめとするオンラインの「場」を24時間365日シェアしあって、そこでコミュニケーションをして、体験をも共有するようになった。もちろん、オフラインの「場」も、もちろん健在ではあるけれども、オフラインの「場」は、SNSでのフォロー/被フォローやシェアやリツイートといった共有のまなざしによって、いつもオンラインの「場」に包含されるようになった。
少なくとも、オンラインの「場」に包含されたオフラインの「場」というのは間違いなくあって、たとえば「インスタ映え」を巡るユーザーの言動などは、オンラインの「場」がオフラインの「場」に優越する様子を見せてくれる。「インスタ映え」のためにオフラインでの行動が左右される人は、オンラインの「場」をオフラインの「場」と同等か、それ以上に優先させているからそうするのだろう――オフラインの「場」のほうがオンラインの「場」より大切ならば、「インスタ映え」のために時間や注意を割くより、目の前のリアルに時間や注意を割いてしかるべきだからだ。
こういう、オンラインの「場」の優越というか、重要性の上昇というかは、先日の『シン・ゴジラ』TV初放送の時のtwitterにも当てはまることで、あの夜、twitterに群れていた人々は、twitterという「場」に集まって、みんなで『シン・ゴジラ』鑑賞していたわけだ。いや、人によっては映画鑑賞そのものが目当てだったのでなく、コミュニケーションや共犯意識こそが重要だったのかもしれない。
同じことは、往年の『天空の城ラピュタ』の「バルス!」にも言えるし、『君の名は。』がSNSを介して飛び火のように広がっていった体験にも言える。人気のソーシャルゲームと、その体験についても言えるだろう。いまどきの人気コンテンツは、SNSという「場」に集まって楽しまれるのが当然になっていて、そのシェアの規模が大きいほど、そのコンテンツは更なる人気を獲得する。
SNSという「場」、あるいはメディアがあまりにも大きく、あまりにも繋がり過ぎるものだから、オンラインの「場」がオフラインの「場」やコンテンツや個人に与える影響が、無視できなくなってしまった。
いまどきは、自分一人だけでコンテンツと向き合おうと思ったら、意図的にSNSを遠ざけなければならない。それでさえ、意図的にSNSを遠ざけるという行為じたいが、既にSNSの影響を受けているという逆説からは逃れらない。そうこうしているうちに、SNSという「場」に引っ張られて映画館に足を運んでいたり、ナイトプールで写真を撮っていたりする。
今も昔も、人は、コミュニケーションのために「場」を利用して、その「場」から影響を受けながら生きている。そういう意味では、SNS以前と以後に根本的な違いは無くて、人はコミュニケーションや社会的欲求のために集って影響を与え合うものなのだろう。
ただ、ゲーセンなどの「場」に若者が集まっていた時代と、SNSで常時「場」ができあがって老若男女が集まっている時代では、影響の受け方も、コミュニケーションの形式も、コミュニケーションの速度も、いろいろ違ってきているとは思う。おそらく、人格形成や価値観も違ってきているだろう。そのあたりについて、まだまだ書きたいことはあるけれども、そろそろ時間切れなので、今日はこのへんで。
- シロクマ(はてなid;p_shirokuma)
- オタク精神科医がメディアや社会についての分析を語る



