- 2017年11月14日 17:21
ゲーセンという「場」を思い出しながら、SNSという「場」に思いを馳せる
1/2リンク先は、「スマホが無かった頃の待ち合わせ」についてのものだ。
これを観て、ふと、スマホが無かった頃の思い出話やらなにやらを書きたくなったので書いてみる。
スマホが無かった頃も、「待ち合わせ」は時々やっていた。学校で約束するか、家電話で連絡を取り合って、何時にどこそこに集まろう、といった風にである。小学校時代から大学生時代まで、私は待ち合わせの保険としての携帯電話を使えなかった。
私もそれなりオタクだったので、携帯電話を使うようになったのはパソコン通信を使うよりも後だった。だから、「オフ会への待ち合わせが携帯電話無し」という経験もあった。オフ会のメンバーが携帯電話を持っていなかったために連絡がつかず、やむなく彼を置いて場所移動……といったことも経験した。そんな調子でも世の中は回っていたのである。
ただ、自分自身の子ども時代や大学生時代を思い出すと、そもそも、待ち合わせという行為自体が少なかったように思う。特に、通信手段を使って約束をとりつけて、それから人に会うことは少なかった。
子どもの頃、みんなで遊ぶ際に重要だったのは、「人」よりも「場」だった。
広場や公園に行って、そこにいる面子と、その時にできる遊びをやる。ちょっと年上でも、ちょっと年下でも、それはそれで、遊び方を考えて遊んだ。私が子どもだった頃は、年上と年下が適当に出会って遊ぶことは全く珍しく無かった。
誰にも出会えない日もあったし、逆に、あまりにもみんなが集まり過ぎて、収集がつかないほどの集団でケードロや鬼ごっこをやる日もあった。友達の家に直接出向いて、友達がいれば遊ぶし、いなければ仕方がないと思って諦めることも多かった。目的意識が無かったとも言えるし、おおらかだったとも言える。
大学生になってゲーム狂いがいよいよ高まり、サボれる限り授業をサボってゲーセンに通うようになると、いよいよ「場」が重要になった。そう、私はゲーセンの住人になったのである。
朝、どうしてもサボれない医学実習が早め終わると、私は残りの授業のことはすっかり忘れて真っ直ぐにゲーセンに向かい、一日がようやく始まった。
開店直後のゲーセンにも、仲間がいないとは限らない。授業よりもゲームのほうが大事な廃学生は他にもいた。朝から格ゲーをやったり、シューティングゲームの攻略談義に花を咲かせた。
昼が過ぎ、夕方が近づいてくると、少し真面目な大学生や高校生が集まって来た。歳の差があってもゲームが上手けりゃみんな友達。いや、友達とはいわなくても、好敵手たりえるのは良いことだった。

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『ダンジョンズ&ドラゴンズ シャドーオーバーミスタラ』のような、4人プレイが出来るゲームになると、ゲーセンの常連全員が交代に遊びまくった。当時はもう、「ゲーセンは不良のたまり場」的な空気はほとんど無くなっていたし、ゲーセンに通い詰めているメンバーは顔が知れているせいか、トラブルに巻き込まれることもなかった。カツアゲをする連中が目をつけていたのは、ゲーセンに滅多に来ないような人々だ。ゲーセンの住人になってしまえば何の問題も無い。
かつて、ゲーセン専門誌『アルカディア』が、面白いアンケートを出していたことがある。
携帯電話普及期に、購読者に対して「あなたは携帯電話を使っていますか」というアンケートを行ったものだ。アンケートの結果は、「『アルカディア』を購読するようなゲームオタクは、同世代の一般人口に比べて携帯電話の保有率がかなり低い」というものだった。
当時の私は、このことを「ゲームオタクの、コミュニケーションの意志と能力の欠如」と解釈していたが、それは一面的な解釈だったと思う。なぜなら、ゲーセンという「場」に集う趣味生活をしている限り、携帯電話が無くても困らなかったからだ。
「人」と「人」を繋ぐツールが無くても、ゲーセンという「場」に行けば誰かがいて、それでコミュニケーションは成立したのだから。
- シロクマ(はてなid;p_shirokuma)
- オタク精神科医がメディアや社会についての分析を語る



