- 2017年10月23日 16:22
飯舘村「帰還」の哀しみ(上)「までい」の民宿 - 寺島英弥
2/2心身を支えた「希望」
管理人の激務、自らの避難生活のストレス、疲労の蓄積は、ハツノさんの健康を悪化させていった。最初の異変は、2011年11月。風邪から肺炎になった。土日も夜もない仕事の疲れがたまったのだろう。休みを初めて取り、ホテルで1週間、仮設を離れてひたすら体を休めた。予定がない週末には車で村の自宅に戻り、片付け事をしながら気分転換をした。が、疲労は翌週にも残り、朝の散歩もできなくなった。
2013年7月、飯舘村の自宅で番をする老犬の太郎が病気になった上、車にはねられるという「事件」が起きる。自宅に帰って介抱していたその夜、ハツノさんは便器を真っ赤にするほどの下血に見舞われた。病院で直腸がんと診断され、「すぐに手術します」「ストレスが原因です」と告げられ、手術の後、ついに管理人を外れた。
心身の疲れは、村議会議員だった夫・幸正さんにも現れていた。原発事故の後、地元と役場の往復に追われたせいか、仮設住宅に入ってすぐに心臓を悪くし、幸正さんも2013年9月に村議を辞めている。
ハツノさんはその後、郡山市の病院で3回の手術と抗がん剤、陽子線による治療を経験。闘病に耐えながらも、同じ仮設住宅に入った両親の面倒を見、幸正さんと飯舘村の自宅にも通う。高齢の太郎もがんを患っていたが、どうすることもできず、村を巡回する餌やりボランティアの助けを得ながら生きていた。太郎が息を引き取ったのは2015年7月の朝。ささやかな葬式に立ち会ったボランティアから、「お母さんの身代わりになってくれた」と言われた。
今年の避難指示解除後、ハツノさんを訪ねたのは4月13日。地元に戻った隣人は、帰還準備で滞在していた4軒のみ。
「まだ寂しいけれど、今年中に戻るという仲間を楽しみに待つことにした」
闘病中ではあるが、ハツノさんは元気そうに見えた。いま思えば、「希望」だけが心身を支えていたのだろうか。しかし、いざ避難指示解除となってみると、これから何をしていけばいいのか、夫婦は悩んでいた。
「もう10歳若ければ、先頭に立ってまた農業をやったけれど、夫は70、私も間もなくそう。田畑の環境がすっかり変わり、以前の農業ができない。民宿もやりたかったけれど、病気をして体力にもう自信がなく、きっぱりと諦めて営業許可を返上したの」
「までい民宿 どうげ(同慶という地元の旧名から)」という大きな木の表札が、避難中も佐野家の入り口に飾られていたのを思い出す。開業を思い立ったきっかけは、「農家の嫁は汗だくで働け」と言われたころの1989年、村が企画した初の女性海外研修事業「若妻の翼」に参加し、旧西ドイツ・バイエルンの村に泊まったことだった。ドイツの村で見た自然を大切にした農村景観の美しさ、酪農などの農業と家庭生活の楽しみを両立させた農家の豊かさに憧れ、幸正さんら家族の応援も得て、ようやく、「民宿経営」の夢をかなえた。そんなハツノさんにとって、民宿をあきらめることは、つらい決断だった。
自給自足の家庭菜園
佐野家のある八和木地区一帯は、農地の除染後も広大な田んぼにフレコンバッグ(はぎ取られた汚染土の袋)が居座り、佐野家の田んぼも半分がその下に埋もれた。残りの田んぼは、5センチの深さにはぎ取った表土の代わりに入れられた山砂で、砂漠のようになってしまっている。事後に肥料や土壌改良剤を入れる地力回復工事を行ったが、原発事故以前の状態にまで土を肥やして再生するには、かなりの歳月を要するという。
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飯舘村に計画的避難の方針が伝えられた翌日、牛舎で佐野さん夫妻は途方に暮れた(2011年4月12日)
「まず、使える田んぼを耕耘しなければならないけれど、水を吸収できない砂のせいで、うちの田に水を引く間に、周囲も水浸しにしてまう」
葉タバコは、村内で栽培復活を希望する農家有志が、除染後の畑で試験栽培をしてきたというが、「去年の検査でわずかに放射性物質が出たところがあったそうなの。うちではもう、やるつもりはないけれど」と、ハツノさんが教えてくれた。そんな中で農作物の栽培をどこまで行うのか、夫婦で話し合い、骨組みだけが残っていたビニールハウス2棟を建て直し、自給自足の家庭菜園を作ろうと決めた。トマト、キュウリ、インゲン、冬は白菜や青菜類。
栽培を再開し始めたものの、他にも心配なことはあった。全村避難で無人状態が続いた間、イノシシや猿が増え、農業再開の脅威となっている。イノシシは餌を求め、群れで田んぼを掘り起こして除染にも支障をきたす。狩猟許可を持つ幸正さんは、村の害獣駆除に協力。「この冬に大分獲った」と話すが、山村を守る狩猟者は避難と高齢化で激減してしまっていた。
戻らない「山の恵み」と「家族」
原発事故後の環境の変化は、それだけではなかった。里山の除染が行われなかったため、山村の暮らしを豊かにした自然の恵みが、ほとんど口にできなくなったのだ。かつてハツノさんの民宿の食宅をにぎわせた春の山菜類、秋のキノコ類がそうだ。相馬地方の冬の保存食「凍み餅」の材料「ごんぼっ葉(ぱ)」(山菜のオヤマボクチの葉)や、飯舘村の郷土料理「いのはなご飯」のシシダケというキノコも採れなくなった。これらすべてが、“幻の味”になってしまっている。「昔はみそも手作りで、溜まりのしょっぱいつゆをしょうゆ代わりにした。お金に換算できない食の豊かさがあった」と、その損失をハツノさんは惜しんだ。
幸正さんも帰還後、木の伐採など山仕事を復活するつもりで山林に入ったものの、「6年の間に雑木は伸び、つたが繁茂して杉の木に絡まり、もう手が付けられない」という状態だった。
佐野家はもともと3世代同居だったが、幸正さんが既に農業経営を譲っていた長男は、現在、妻と2人の子供と避難先の栃木県内で暮らしている。長男の裕さんだけはこの数年、単身で実家に戻り、村内の除染の仕事に携わってきた。しかし、「お嫁さんは地元出身だけど、子育ての上で放射線に不安があるといい、孫たちが高校を卒業するまでは戻らないと決めているそうなの」と、ハツノさんは漏らした。実際、最初の避難先の福島市内の小学校では、お孫さんがいじめを受けて体調を崩すというつらい経験もあったという。原発事故が被災地に生んだ「家族の分断」がここにもある。
「私たち夫婦は農業と村づくりを一生懸命にやってきた。そんな歴史を背負っているから、どうしても帰ってきたかった。でも、どの家でも子や孫の世代は戻ってこない。避難指示解除になったとはいうけれども、一緒にいた家族が家にいないのは寂しく、つらい」
「カーネーションの会」の解散
仮設住宅でハツノさんが呼び掛けた「までい着」作りもまた、岐路に立たされた。仮設住宅の仲間でもある「カーネーションの会」の20人は、避難指示解除の後、6人だけが地元の家に戻るつもりでいるという。身の振り方を異にし、仮設住宅に残るメンバーたちとは離ればなれになってしまう。ハツノさんたちは会のこれからについて、こんな議論をしてきたそうだ。
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仮設住宅で活動した「カーネーションの会」。全国から支援の着物が寄せられ、ハツエさん(左端)ら主婦たちが「までい着」を縫った(2013年1月23日)
〈「70~80代の仲間も帰りたい気持ちが強い。でも、福島市など村外に新居を建てる家族と同居するほかない、独りでは暮らせないと悩んでいる」と佐野さん。
「それでは、仮設住宅で培った縁も途切れてしまう。までい着作りを続けよう」というのがメンバーの思いだ。「大勢の人の善意に支えられた活動をやめられない」「離れても、週1回集えれば生きる励みになる」と話し合ってきた〉(2016年4月27日の『河北新報』連載「その先へ」より)
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避難指示解除を前に、改築も成った自宅で新生活を送るハツエさん夫婦(2017年1月30日)
メンバーは「までい着」を、避難指示解除後も互いを支え合う絆にしようとしていた。今年3月11日も、首都圏の百貨店が飯舘村を応援するための販売会を催し、ハツノさんも病身を押して参加した。だが、その後に決まったのはカーネーションの会の「解散」だった。ハツノさんによれば、販売会が増えて外部の支援者と接してきた中で、「生活の収入を得る道か、仮設の仲間を元気づけるためか」をめぐるメンバーの気持ちのすれ違いや、「商品」としてさまざまな注文を付けられる流通の世界への違和感などが、会の「原点」を見失わせがちにさせたためだ。最後には「目的は終わった」と解散を決めた。
避難指示解除。「どうしても帰りたかった」というハツノさんは念願を果たしたが、古里の未来はまだ見えてこない。幸正さんとの新しい生活も人生も、自身の闘病の先行きに委ねられていた。だが、ハツノさんは1つのことだけを願った。
「これからは、何を辛抱することもなく、思うがままに生きてゆきたい。苦しいことはもうたくさん。リフォームした家には客間を増やしたの。民宿は諦めたけれど、親しい人、避難中に縁を結んだ遠くの人たちをここに招きたい。地元の集落の仲間たちともにぎやかに集い、楽しく過ごしたい」(つづく)



