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- 2017年10月21日 16:24
戦後日本の立憲主義の理解への疑問~水島朝穂教授の私への攻撃を見て~
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<立憲主義>
同じような話し方で、水島教授は、McIlwain(1949年)を引用し、篠田の言っていることがあの「有名な」McIlwainと違う、という断定を持って、篠田が間違っていることの証明だと主張する。すでに指摘したパターンの話し方である。しかしMcIlwainについては、私は、自分の言っていることが、McIlwainと違っているとは思わないことを付け加えておかざるをえない。
水島教授は、McIlwainが立憲主義は政府を制限すると書いていることをもって、私の言っていることがMcIlwainと真逆であると断定し、それをもって私が間違っているという主張に変えようとしている。
繰り返すが、私は、立憲主義とは、国家の構成原理を信じることだ、と言っている。国民を制限することが立憲主義だ、などとは、言っていない。まして政府を制限すると立憲主義が失われる、などということは全く言っていない。したがってMcIlwainが、立憲主義の「one essential quality(一つの本質的な要素)」が政府を制限することだ、と書いていることに、私が驚かなければならない理由はどこにもない。(ただしここでMcIlwainが、あえて「one」と書いていることには、注意が必要だ。)
もう少し真面目なMcIlwainの読み方が必要だ。水島教授が引用している部分のMcIlwainの文章を見てみよう。立憲主義が政府を制限する、ということの説明として、McIlwainは、次の諸点をあげていることがわかる。恣意的政治・専制的政治・意思による政治の対立テーゼとして、政府を制限する「一つの」本質的特質を持つ立憲主義が、存在する。つまりMcIlwainは、「will(意思)」による統治を反立憲主義的なものとしてとらえ、「government of law」(法の統治)を、立憲主義の特性として捉えている。この場合の「law」は、言うまでもなく、「rule of law(法の支配)」を言う場合のレベルの「law」であり、それを成文化しようとしたらConstitutionになるはずのレベルの「law」である。
私が言っていることとMcIlwainが言っていることは、むしろ同じである。
政府を制限するとは、「意思の支配」に対して「法の支配」を貫徹する、という文脈において、そうである。「法の支配」に対応するレベルの「法」=Constitution=社会の最高構成原理に支配させるということは、つまり社会構成員がその価値規範を信じて行動する、ということだ。
ただ漠然と政府を制限することを唱えていれば、立憲主義者になれるわけではない、ということだ。そのことを強調して、何がいけないのだろうか。McIlwainもきちんと強調している。
ところでいみじくも水島教授は、McIlwainの翻訳も参照している。良いチャンスなので、注意深い読者には、よく見て頂きたい。McIlwainが簡明に「government」としか言っていない箇所を、訳者が「統治権」などと踏み込んだ意訳をしていることが、鮮明に見てとれる。恐るべきドイツ国法学/大日本帝国憲法の影響の残滓である。
これについて水島教授は、「Government」には「sovereign power」の意味があるから、それを訳すと「統治権」になるだけだ、と主張する。では、なぜ、「主権」とか「主権的権力」と訳さないのか。「sovereign power」を「統治権」と訳すのも、意訳と言わざるを得ない。
もし本当に水島教授が「主権」と「統治権」は同じだ、と断言する覚悟を定めるのであれば、そのようにはっきりと表明し、そのように断言できる根拠について明示すべきだ。さらに「主権」と「統治権」は同じであるという水島説にしたがって発生する日本国憲法、大日本帝国憲法、芦部信喜『憲法』をはじめとする様々な憲法基本書の読解方法について、きちんと説明をしてほしい。
私は、繰り返し芦部信喜『憲法』の冒頭で提言命題として述べられている「統治権」概念は、現在では実定法上の根拠がなくなってしまった、ドイツ国法学/大日本帝国憲法の残滓に過ぎない、と指摘している。さらに問題なのは、「統治権」の実在を「信じる」憲法学者によって、「統治権」が都合の良い操作概念として用いられていることだと、論じている。
これに対して水島教授は、どのような反駁をしているか。何もしていない。それなのに「篠田の嫌いな統治権」などという意味不明な修飾句をもてあそぶ。知っているのに無視して、無関係な事ばかりを持ち出す。
水島説によれば、統治権は権利ではなく、権力(power)なのか。それではいつ誰が何によって大日本帝国憲法の用語法からの転換を権威づけるのか。水島説は、大日本帝国憲法から日本国憲法からの断絶を強調するのか。適正な訳だと断言するのであれば、当然、これらの疑問に精緻に答えていただく必要がある。上述の点をふまえて、水島教授は、あらためて、まず私とMcItwainの言っている事が違う、ということを真面目に証明し、その上でどちらが妥当なのかを、単なる権威主義ではない何らかの論拠にもとづいて、論証し直すべきだ。
さらに統治権とは何なのか、なぜ統治権に対する篠田の見解を一笑に付して蔑視することができるのか、何らかの論拠にもとづいて、真面目に論証するべきだ。
<国際立憲主義>
次に国際立憲主義についてみてみよう。水島教授は、私の「国際立憲主義」への参照によって、何を言っているか。『ほんとうの憲法』注22に、私が自分の著作しか入れなかったのは、おかしい、という苦情である。しかも、その苦情を、延々と2,600字以上にわたって書き連ねている。この注22をもって、私が自著を「世界のスタンダード」として主張しているなどと描写したうえで、それは法外だ、と延々と苦情を言っている。
もちろん、私はそんなことは言っていない。ただ例示しただけだ。
「国際立憲主義」あるいは「グローバル立憲主義」に関する文献を真面目に注に入れたら、数十、数百点入れても、足りない。厳選して入れるには、それなりの基準の精緻化が必要だが、新書でそんなことをやる人は、どう考えてもいない。
そこで例示として自分の著作を注一つ使って紹介したということが、2,600字以上も使って延々と責め立てなければならないほど法外で罪深いことなのか。理解に苦しむ。よほど腹に据えかねたようだが、些末すぎる。
そんなことに2,600字以上も書き連ねる時間があるのであれば、そういう「国際立憲主義はない」とか、「あるけど、こうだ」とか、もう少し実質的な議論をしていただくことはできないのか。結局、自分でも「英語圏ではこの概念について一定の議論がある」とか言うのであれば、注22の書き方が悪い、などということに、いったいどんな意味があるというのか。
水島教授は、私の注22がとても気に入らない。それはわかった。だが注の22が、なぜ「憲法研究に対する執拗な論難」になるのか、きちんと説明するのでなければ、水島教授はただ感情の赴くままに字数を積み重ねているだけの人物になってしまう。説明すべきだ。
<国家の三要素>
率直に告白しよう。水島教授の篠田攻撃の中で、最も深く肩透かしを食らわせるのが、国家の三要素についての記述だ。水島教授は、「連載二回目」を開始するにあたって、「国家の三要素」説を批判する私に対して、「抑制と謙虚さが最低限のたしなみ」がない、「篠田氏のアグレッシヴな姿勢はとどまるところを知らない」、「憲法研究者の忍耐の限度を越している」といった言葉を、「天皇機関説事件」を随所で回顧しながら、延々と積み重ねる。それで何を言うか。
篠田は、「実定法上の根拠がない」などというが、「『国家の三要素』は、講学上の概念であり、明文規定があるわけではない」と水島教授は言う。つまり私が言っている通り、国家の三要素には、実定法上の根拠はないのだ。だったらそれでいいではないか。なぜ私は非難されなければならないのか。
もし、私が「実定法上の根拠がないのは水島教授の責任だ」、と言っていたら、水島教授は怒るべきだろう。だが、私はそんなことは言っていない。
水島教授は、またしても数千字の字数をあてて、この教科書でも、この教科書でも、この教科書でも、この教科書でも、国家の三要素が出ている、と訴えてくる。私としては、「So What ?(だから何?)」である。
高校の教科書に記述については、具体的に言うことは影響を考えて差し控えるが、水島教授が私を論駁するためにすべきことは、この教科書にも、この教科書にも、と引用し続けることではない。ある特定のモンテビデオ条約と国家の三要素の混合の仕方を正当だと考えるのであれば、学術的にそれを明示することが務めのはずだ。それを行わずに、「この教科書でも、この教科書でも・・・」を延々と続ける。意味が分からない。
モンテビデオ条約と国家の三要素は、学術的に確立された見解として、どう結合しており、それはどのような論拠で正当化されるのか。他人を批判する前に、水島教授は、明晰に論証すべきではないか。念のため言っておくが、論証とは、「この教科書でも、この教科書でも・・・」のことではない。
水島教授が私に大変に不愉快な思いを感じている事は痛いほど伝わってくる。その不愉快さを表現するために、必死に字数を積み重ねている姿を想像するのは、私にとってもつらい。しかし、私が本を書いているのは、水島教授を喜ばせるためではない。水島教授が「私は不愉快だ」と繰り返して訴えてくるのは、私にとっても楽しい話ではないが、しかし私には、「So What?」以外の反応は、できない。
同じことを何度も書いて本当に恐縮だが、他人の批判をする際には、その人物が言っていることをしっかり理解した上で行うことが、当たり前だが、まずは基本だ。
私が『集団的自衛権の思想史』や『ほんとうの憲法』で「国家の三要素」の話をしているのは、「実定法上の根拠がない」ことを誰かの責任にして責め立てるためではない。日本の憲法学に、ドイツ国法学の影響が強いこと、国家の三要素を導入したプロイセン憲法を模して大日本帝国憲法が制定されたときに作り上げられた学会の仕組みが今でも根強いこと、そういうことを書いている文脈の中で、「国家の三要素」に言及した。
水島教授は、全くそのことにふれない。水島教授は、私の本に全く関心がない。水島教授は、私という人間に関心がないのだろう。「三流蓑田」として論駁して見せる相手として以上の関心がないのだろう。残念だ。
<統治権>
水島教授は、統治権についても、延々と「この教科書でも、この教科書でも、この教科書でも・・・」を続ける。申し訳ないが、日本の教科書類における統治権概念の広がりは、私の議論を補強するものであり、何ら反駁になっていない。なぜ水島教授は貴重な研究時間を割いてこんなことをやっているのか・・・・。
私が『集団的自衛権の思想史』や『ほんとうの憲法』で「統治権」の話をしているのは、「実定法上の根拠がない」ことを誰かの責任にして責め立てるためではない。日本の憲法学に、ドイツ国法学の影響が強いこと、プロイセン憲法を模して大日本帝国憲法が制定されたときに作り上げられた学会の仕組みが今でも根強いこと、そういうことを書いている文脈の中で、「統治権」に言及した。
水島教授は、全くそのことにふれない。水島教授は、私の本に全く関心がない。水島教授は、私という人間に関心がないのだろう。「三流蓑田」として論駁して見せる相手として以上の関心がないのだろう。残念だ。
<憲法前文>
水島教授は、憲法前文における「Justice」は、確かに外務省仮訳まで「正義」だった、と認める。だが私が、「その後、内閣法制局で正式な日本語の草案が作られた際に、『公正』にされてしまった」と述べることを、水島教授は批判する。なぜなら政府案が閣議に諮られる前には、「安倍能成氏案」というべきものと「法制局案」というべきものがあり、「公正」の語は安倍案のほうにあったから、という理由である。
だが要するに閣議に向けて事務方では内閣法制局が担当して詰めが行われたプロセスで、「正義」が「公正」になったのではないか。内閣法制局も「公正」にする案でまとまったのである。私が言及しているのは、「プロセス」部分の話であって、「発案者」個人名の話ではない。
そこから先の細かい話は、すべて推察になる。その前提で私も推察をしている文章もあるが、「だろう」で「推察」である。誰にも「推察」以外では立ち寄れない領域に、「推察」をしているだけだ。学術論文なら、「だったということもありうる」みたいな表現にしたかもしれないが、そんなことはどちらでもいい些末な話だ。
水島教授が「実は歴史の真実はこれだ」というのであれば、「ここから先は誰にとっても推察」の仮定が崩れ、私の議論は論駁されたことになる。だが水島教授は、そういった「歴史の真実」を出すわけではない。閣議決定にあたって内閣法制局が事務方では中心になって進められたプロセスで、文相が積極的な参加をした経緯もある。ただ私は「発案者」のことを述べたのではない。「プロセス」のことを述べた。それで、確かに私は、それは内閣法制局が担当していたプロセスであることを重視した表現を使った。特にそれが間違いだったとは思わない。
<合衆国憲法の「正義」>
水島教授は、「憲法前文の『公正』は合衆国憲法前文の『正義』か」、という質問形式の題名を付した部分において、合衆国憲法のJusticeは、「司法制度の確立を中心として理解されている」ことをもって、私への反駁としている。だが、国制においては、「司法」としてのJusticeが、「正義」と訳してもいい広義のJusticeを意味することくらいは、述べる必要のない自明なことだ。米国司法省がDepartment of Justiceであり、米国最高裁判所の判事がJusticeであることなど、中学生くらいでもよく知っているのではないか。
水島教授が私を反駁したいのであれば、合衆国憲法前文のJusticeが、米国特殊な具体的な司法制度のことだけを意味し、その他の意味は持ちえず、持っているとみなさることもない、ということを論証しなければならない。
水島教授が持ってきてくれた飛田茂雄氏の描写が、とても優れている。孫引きになるが、とても優れているので、水島教授に引用していただいた部分をよく見てみたい。
「1776年の「独立宣言」の最後のほうに、英国人が生来持っていたはずの”justice”への言及がある。これは単に抽象的な「正義」ではなく、「法秩序」、あるいは「順法精神」と訳せる概念であろう。同年の「バージニア権利宣言」にも、1780年の「マサチューセッツ権利宣言」にも、自由な政府、および個人の権利や自由の基本として、”a firm adherence to justice”や”administration of justice”が必要だと書いてある。その”justice”の根本的な意味も、抽象的な正義ではなく、具体的な内容を持つ「公正の原理」と「法秩序」である。もし、justiceのこういう根本義が文脈によって明らかであるならば、「正義」という訳語を使ってもいっこうに差し支えない。しかし、この憲法前文では不適当な訳語だと私は思う。くどいようだが、米国憲法が確立しようとしていたのは、単に「正義」と呼ばれる精神ではなくて、(共同の防衛や公共の福祉と同様に、実質的な内容を持つ)「法秩序」、具体的には「法体系」と「司法制度」であった。実際、条文に規定されているのは、具体的な法体系と司法組織との整備である。したがって、私はここを「法秩序を確立すること」、あるいはせめて「法に基づく正義を確立すること」と訳したい。」
まさにこれである。私が言っているのもこれだ。
ところが水島教授は、違う、という。なぜなら私が、「前文において『平和を愛する諸国民の正義(justice)と信念を信頼』する場合、国際的な法秩序を信頼する、という含意があることは、当然だ」、と書いたからだという。
というのは、水島教授によれば、「アメリカ合衆国憲法前文の文脈で『Justice』を確立するのは、独立が保障された公平中立な裁判官である」から、そんな裁判官は国際社会にはいないから、絶対に同じ「Justice」が国際的な法秩序に適用されることはないのだという。
今、飛田氏が、「独立宣言」あるいはそれ以前の英国人の観念にまでさかのぼる「justice」が合衆国憲法の「justice」だと説明してくれているのを、引用したばかりではないか! 冒頭で「世界の諸国家の間」の「自然の法と自然神の法」なるものにふれ、「自明の真理」から革命権の正当化まで行っているのが北米13州(State)「独立宣言」(A Declaration by the Representatives of the United States of America, in general congress assembled)である。合衆国憲法では、条約の「最高法規性」が定められているだけでなく、公海において「諸国民の法(law of nations)」にしたがう規定もある。どうやってそこにある「Justice」が、国際秩序と結びついてはいけない「justice」だと主張できるのか。
アメリカ主導で国連憲章が成立した際、国際司法裁判所(International Court of Justice)も設立された。日本国憲法起草に先立って起こっていたことである。水島教授によれば、ICJには、「独立が保障された公平中立な裁判官」などはいないのだろう。しかし、だからと言って、1946年にアメリカ人たちが水島教授と同じようにしか考える事はなかった、と仮定するのは、無理だ。
それにしても、わけがわからないのは、水島教授の次のような文章である。
「なお、篠田氏にあらかじめ言っておくが、本「直言」を読んだ後に、今さら合衆国憲法前文の「Justice」について篠田氏と同じ主張をする学者の文献をどこからか引っ張り出してきても遅い。」
「遅い?」早い?・・・わけがわからない。いったい水島教授は、何をやっているのか。
水島教授の眼前には、「蓑田胸喜」と、蓑田を斬首する英雄の姿しか映っていないようだ。
<その他>
四回にわたる水島教授の連載は、「憲法九条」と題された文章で終わる。そこには、私の議論が、リチャード・フォークの議論や、藤田久一の言説と異なっている、ということ、いかに私の9条解釈が危険なものであるかということが、「常軌を逸した」とか豊かな表現がふんだんに盛り込まれて、延々と書かれている。そのほとんどがイデオロギー的な立場からの批判なので、もはやここでコメントすることは控える。
付記するとすれば、一点。2003年7月15日に小泉純一郎・内閣総理大臣名で提出された「答弁書」は、個別的自衛権と集団的自衛権の両者が重なる場合にはどうなるのか、という質問に対する回答はなされなかった、と私が『集団的自衛権の思想史』で書いたことが、水島教授のどこかでの議論の剽窃ではないかと疑う記述があるが、もちろん、そうではない。私は、回答がなされなかった、という事実を端的に記述しただけで、水島教授のように「回答がなされなかった」ことを「関係方面に取材して得た情報」で裏付けるなどとうことは、思いつきもしなかった(「回答がなされなかった」ことを取材する必要があるというのは、どういうことなのかわからない)。「回答がなされなかった」ことは、誰でもわかることで、剽窃が疑われるということ自体がありえない。
同じような話し方で、水島教授は、McIlwain(1949年)を引用し、篠田の言っていることがあの「有名な」McIlwainと違う、という断定を持って、篠田が間違っていることの証明だと主張する。すでに指摘したパターンの話し方である。しかしMcIlwainについては、私は、自分の言っていることが、McIlwainと違っているとは思わないことを付け加えておかざるをえない。
水島教授は、McIlwainが立憲主義は政府を制限すると書いていることをもって、私の言っていることがMcIlwainと真逆であると断定し、それをもって私が間違っているという主張に変えようとしている。
繰り返すが、私は、立憲主義とは、国家の構成原理を信じることだ、と言っている。国民を制限することが立憲主義だ、などとは、言っていない。まして政府を制限すると立憲主義が失われる、などということは全く言っていない。したがってMcIlwainが、立憲主義の「one essential quality(一つの本質的な要素)」が政府を制限することだ、と書いていることに、私が驚かなければならない理由はどこにもない。(ただしここでMcIlwainが、あえて「one」と書いていることには、注意が必要だ。)
もう少し真面目なMcIlwainの読み方が必要だ。水島教授が引用している部分のMcIlwainの文章を見てみよう。立憲主義が政府を制限する、ということの説明として、McIlwainは、次の諸点をあげていることがわかる。恣意的政治・専制的政治・意思による政治の対立テーゼとして、政府を制限する「一つの」本質的特質を持つ立憲主義が、存在する。つまりMcIlwainは、「will(意思)」による統治を反立憲主義的なものとしてとらえ、「government of law」(法の統治)を、立憲主義の特性として捉えている。この場合の「law」は、言うまでもなく、「rule of law(法の支配)」を言う場合のレベルの「law」であり、それを成文化しようとしたらConstitutionになるはずのレベルの「law」である。
私が言っていることとMcIlwainが言っていることは、むしろ同じである。
政府を制限するとは、「意思の支配」に対して「法の支配」を貫徹する、という文脈において、そうである。「法の支配」に対応するレベルの「法」=Constitution=社会の最高構成原理に支配させるということは、つまり社会構成員がその価値規範を信じて行動する、ということだ。
ただ漠然と政府を制限することを唱えていれば、立憲主義者になれるわけではない、ということだ。そのことを強調して、何がいけないのだろうか。McIlwainもきちんと強調している。
ところでいみじくも水島教授は、McIlwainの翻訳も参照している。良いチャンスなので、注意深い読者には、よく見て頂きたい。McIlwainが簡明に「government」としか言っていない箇所を、訳者が「統治権」などと踏み込んだ意訳をしていることが、鮮明に見てとれる。恐るべきドイツ国法学/大日本帝国憲法の影響の残滓である。
これについて水島教授は、「Government」には「sovereign power」の意味があるから、それを訳すと「統治権」になるだけだ、と主張する。では、なぜ、「主権」とか「主権的権力」と訳さないのか。「sovereign power」を「統治権」と訳すのも、意訳と言わざるを得ない。
もし本当に水島教授が「主権」と「統治権」は同じだ、と断言する覚悟を定めるのであれば、そのようにはっきりと表明し、そのように断言できる根拠について明示すべきだ。さらに「主権」と「統治権」は同じであるという水島説にしたがって発生する日本国憲法、大日本帝国憲法、芦部信喜『憲法』をはじめとする様々な憲法基本書の読解方法について、きちんと説明をしてほしい。
私は、繰り返し芦部信喜『憲法』の冒頭で提言命題として述べられている「統治権」概念は、現在では実定法上の根拠がなくなってしまった、ドイツ国法学/大日本帝国憲法の残滓に過ぎない、と指摘している。さらに問題なのは、「統治権」の実在を「信じる」憲法学者によって、「統治権」が都合の良い操作概念として用いられていることだと、論じている。
これに対して水島教授は、どのような反駁をしているか。何もしていない。それなのに「篠田の嫌いな統治権」などという意味不明な修飾句をもてあそぶ。知っているのに無視して、無関係な事ばかりを持ち出す。
水島説によれば、統治権は権利ではなく、権力(power)なのか。それではいつ誰が何によって大日本帝国憲法の用語法からの転換を権威づけるのか。水島説は、大日本帝国憲法から日本国憲法からの断絶を強調するのか。適正な訳だと断言するのであれば、当然、これらの疑問に精緻に答えていただく必要がある。上述の点をふまえて、水島教授は、あらためて、まず私とMcItwainの言っている事が違う、ということを真面目に証明し、その上でどちらが妥当なのかを、単なる権威主義ではない何らかの論拠にもとづいて、論証し直すべきだ。
さらに統治権とは何なのか、なぜ統治権に対する篠田の見解を一笑に付して蔑視することができるのか、何らかの論拠にもとづいて、真面目に論証するべきだ。
<国際立憲主義>
次に国際立憲主義についてみてみよう。水島教授は、私の「国際立憲主義」への参照によって、何を言っているか。『ほんとうの憲法』注22に、私が自分の著作しか入れなかったのは、おかしい、という苦情である。しかも、その苦情を、延々と2,600字以上にわたって書き連ねている。この注22をもって、私が自著を「世界のスタンダード」として主張しているなどと描写したうえで、それは法外だ、と延々と苦情を言っている。
もちろん、私はそんなことは言っていない。ただ例示しただけだ。
「国際立憲主義」あるいは「グローバル立憲主義」に関する文献を真面目に注に入れたら、数十、数百点入れても、足りない。厳選して入れるには、それなりの基準の精緻化が必要だが、新書でそんなことをやる人は、どう考えてもいない。
そこで例示として自分の著作を注一つ使って紹介したということが、2,600字以上も使って延々と責め立てなければならないほど法外で罪深いことなのか。理解に苦しむ。よほど腹に据えかねたようだが、些末すぎる。
そんなことに2,600字以上も書き連ねる時間があるのであれば、そういう「国際立憲主義はない」とか、「あるけど、こうだ」とか、もう少し実質的な議論をしていただくことはできないのか。結局、自分でも「英語圏ではこの概念について一定の議論がある」とか言うのであれば、注22の書き方が悪い、などということに、いったいどんな意味があるというのか。
水島教授は、私の注22がとても気に入らない。それはわかった。だが注の22が、なぜ「憲法研究に対する執拗な論難」になるのか、きちんと説明するのでなければ、水島教授はただ感情の赴くままに字数を積み重ねているだけの人物になってしまう。説明すべきだ。
<国家の三要素>
率直に告白しよう。水島教授の篠田攻撃の中で、最も深く肩透かしを食らわせるのが、国家の三要素についての記述だ。水島教授は、「連載二回目」を開始するにあたって、「国家の三要素」説を批判する私に対して、「抑制と謙虚さが最低限のたしなみ」がない、「篠田氏のアグレッシヴな姿勢はとどまるところを知らない」、「憲法研究者の忍耐の限度を越している」といった言葉を、「天皇機関説事件」を随所で回顧しながら、延々と積み重ねる。それで何を言うか。
篠田は、「実定法上の根拠がない」などというが、「『国家の三要素』は、講学上の概念であり、明文規定があるわけではない」と水島教授は言う。つまり私が言っている通り、国家の三要素には、実定法上の根拠はないのだ。だったらそれでいいではないか。なぜ私は非難されなければならないのか。
もし、私が「実定法上の根拠がないのは水島教授の責任だ」、と言っていたら、水島教授は怒るべきだろう。だが、私はそんなことは言っていない。
水島教授は、またしても数千字の字数をあてて、この教科書でも、この教科書でも、この教科書でも、この教科書でも、国家の三要素が出ている、と訴えてくる。私としては、「So What ?(だから何?)」である。
高校の教科書に記述については、具体的に言うことは影響を考えて差し控えるが、水島教授が私を論駁するためにすべきことは、この教科書にも、この教科書にも、と引用し続けることではない。ある特定のモンテビデオ条約と国家の三要素の混合の仕方を正当だと考えるのであれば、学術的にそれを明示することが務めのはずだ。それを行わずに、「この教科書でも、この教科書でも・・・」を延々と続ける。意味が分からない。
モンテビデオ条約と国家の三要素は、学術的に確立された見解として、どう結合しており、それはどのような論拠で正当化されるのか。他人を批判する前に、水島教授は、明晰に論証すべきではないか。念のため言っておくが、論証とは、「この教科書でも、この教科書でも・・・」のことではない。
水島教授が私に大変に不愉快な思いを感じている事は痛いほど伝わってくる。その不愉快さを表現するために、必死に字数を積み重ねている姿を想像するのは、私にとってもつらい。しかし、私が本を書いているのは、水島教授を喜ばせるためではない。水島教授が「私は不愉快だ」と繰り返して訴えてくるのは、私にとっても楽しい話ではないが、しかし私には、「So What?」以外の反応は、できない。
同じことを何度も書いて本当に恐縮だが、他人の批判をする際には、その人物が言っていることをしっかり理解した上で行うことが、当たり前だが、まずは基本だ。
私が『集団的自衛権の思想史』や『ほんとうの憲法』で「国家の三要素」の話をしているのは、「実定法上の根拠がない」ことを誰かの責任にして責め立てるためではない。日本の憲法学に、ドイツ国法学の影響が強いこと、国家の三要素を導入したプロイセン憲法を模して大日本帝国憲法が制定されたときに作り上げられた学会の仕組みが今でも根強いこと、そういうことを書いている文脈の中で、「国家の三要素」に言及した。
水島教授は、全くそのことにふれない。水島教授は、私の本に全く関心がない。水島教授は、私という人間に関心がないのだろう。「三流蓑田」として論駁して見せる相手として以上の関心がないのだろう。残念だ。
<統治権>
水島教授は、統治権についても、延々と「この教科書でも、この教科書でも、この教科書でも・・・」を続ける。申し訳ないが、日本の教科書類における統治権概念の広がりは、私の議論を補強するものであり、何ら反駁になっていない。なぜ水島教授は貴重な研究時間を割いてこんなことをやっているのか・・・・。
私が『集団的自衛権の思想史』や『ほんとうの憲法』で「統治権」の話をしているのは、「実定法上の根拠がない」ことを誰かの責任にして責め立てるためではない。日本の憲法学に、ドイツ国法学の影響が強いこと、プロイセン憲法を模して大日本帝国憲法が制定されたときに作り上げられた学会の仕組みが今でも根強いこと、そういうことを書いている文脈の中で、「統治権」に言及した。
水島教授は、全くそのことにふれない。水島教授は、私の本に全く関心がない。水島教授は、私という人間に関心がないのだろう。「三流蓑田」として論駁して見せる相手として以上の関心がないのだろう。残念だ。
<憲法前文>
水島教授は、憲法前文における「Justice」は、確かに外務省仮訳まで「正義」だった、と認める。だが私が、「その後、内閣法制局で正式な日本語の草案が作られた際に、『公正』にされてしまった」と述べることを、水島教授は批判する。なぜなら政府案が閣議に諮られる前には、「安倍能成氏案」というべきものと「法制局案」というべきものがあり、「公正」の語は安倍案のほうにあったから、という理由である。
だが要するに閣議に向けて事務方では内閣法制局が担当して詰めが行われたプロセスで、「正義」が「公正」になったのではないか。内閣法制局も「公正」にする案でまとまったのである。私が言及しているのは、「プロセス」部分の話であって、「発案者」個人名の話ではない。
そこから先の細かい話は、すべて推察になる。その前提で私も推察をしている文章もあるが、「だろう」で「推察」である。誰にも「推察」以外では立ち寄れない領域に、「推察」をしているだけだ。学術論文なら、「だったということもありうる」みたいな表現にしたかもしれないが、そんなことはどちらでもいい些末な話だ。
水島教授が「実は歴史の真実はこれだ」というのであれば、「ここから先は誰にとっても推察」の仮定が崩れ、私の議論は論駁されたことになる。だが水島教授は、そういった「歴史の真実」を出すわけではない。閣議決定にあたって内閣法制局が事務方では中心になって進められたプロセスで、文相が積極的な参加をした経緯もある。ただ私は「発案者」のことを述べたのではない。「プロセス」のことを述べた。それで、確かに私は、それは内閣法制局が担当していたプロセスであることを重視した表現を使った。特にそれが間違いだったとは思わない。
<合衆国憲法の「正義」>
水島教授は、「憲法前文の『公正』は合衆国憲法前文の『正義』か」、という質問形式の題名を付した部分において、合衆国憲法のJusticeは、「司法制度の確立を中心として理解されている」ことをもって、私への反駁としている。だが、国制においては、「司法」としてのJusticeが、「正義」と訳してもいい広義のJusticeを意味することくらいは、述べる必要のない自明なことだ。米国司法省がDepartment of Justiceであり、米国最高裁判所の判事がJusticeであることなど、中学生くらいでもよく知っているのではないか。
水島教授が私を反駁したいのであれば、合衆国憲法前文のJusticeが、米国特殊な具体的な司法制度のことだけを意味し、その他の意味は持ちえず、持っているとみなさることもない、ということを論証しなければならない。
水島教授が持ってきてくれた飛田茂雄氏の描写が、とても優れている。孫引きになるが、とても優れているので、水島教授に引用していただいた部分をよく見てみたい。
「1776年の「独立宣言」の最後のほうに、英国人が生来持っていたはずの”justice”への言及がある。これは単に抽象的な「正義」ではなく、「法秩序」、あるいは「順法精神」と訳せる概念であろう。同年の「バージニア権利宣言」にも、1780年の「マサチューセッツ権利宣言」にも、自由な政府、および個人の権利や自由の基本として、”a firm adherence to justice”や”administration of justice”が必要だと書いてある。その”justice”の根本的な意味も、抽象的な正義ではなく、具体的な内容を持つ「公正の原理」と「法秩序」である。もし、justiceのこういう根本義が文脈によって明らかであるならば、「正義」という訳語を使ってもいっこうに差し支えない。しかし、この憲法前文では不適当な訳語だと私は思う。くどいようだが、米国憲法が確立しようとしていたのは、単に「正義」と呼ばれる精神ではなくて、(共同の防衛や公共の福祉と同様に、実質的な内容を持つ)「法秩序」、具体的には「法体系」と「司法制度」であった。実際、条文に規定されているのは、具体的な法体系と司法組織との整備である。したがって、私はここを「法秩序を確立すること」、あるいはせめて「法に基づく正義を確立すること」と訳したい。」
まさにこれである。私が言っているのもこれだ。
ところが水島教授は、違う、という。なぜなら私が、「前文において『平和を愛する諸国民の正義(justice)と信念を信頼』する場合、国際的な法秩序を信頼する、という含意があることは、当然だ」、と書いたからだという。
というのは、水島教授によれば、「アメリカ合衆国憲法前文の文脈で『Justice』を確立するのは、独立が保障された公平中立な裁判官である」から、そんな裁判官は国際社会にはいないから、絶対に同じ「Justice」が国際的な法秩序に適用されることはないのだという。
今、飛田氏が、「独立宣言」あるいはそれ以前の英国人の観念にまでさかのぼる「justice」が合衆国憲法の「justice」だと説明してくれているのを、引用したばかりではないか! 冒頭で「世界の諸国家の間」の「自然の法と自然神の法」なるものにふれ、「自明の真理」から革命権の正当化まで行っているのが北米13州(State)「独立宣言」(A Declaration by the Representatives of the United States of America, in general congress assembled)である。合衆国憲法では、条約の「最高法規性」が定められているだけでなく、公海において「諸国民の法(law of nations)」にしたがう規定もある。どうやってそこにある「Justice」が、国際秩序と結びついてはいけない「justice」だと主張できるのか。
アメリカ主導で国連憲章が成立した際、国際司法裁判所(International Court of Justice)も設立された。日本国憲法起草に先立って起こっていたことである。水島教授によれば、ICJには、「独立が保障された公平中立な裁判官」などはいないのだろう。しかし、だからと言って、1946年にアメリカ人たちが水島教授と同じようにしか考える事はなかった、と仮定するのは、無理だ。
それにしても、わけがわからないのは、水島教授の次のような文章である。
「なお、篠田氏にあらかじめ言っておくが、本「直言」を読んだ後に、今さら合衆国憲法前文の「Justice」について篠田氏と同じ主張をする学者の文献をどこからか引っ張り出してきても遅い。」
「遅い?」早い?・・・わけがわからない。いったい水島教授は、何をやっているのか。
水島教授の眼前には、「蓑田胸喜」と、蓑田を斬首する英雄の姿しか映っていないようだ。
<その他>
四回にわたる水島教授の連載は、「憲法九条」と題された文章で終わる。そこには、私の議論が、リチャード・フォークの議論や、藤田久一の言説と異なっている、ということ、いかに私の9条解釈が危険なものであるかということが、「常軌を逸した」とか豊かな表現がふんだんに盛り込まれて、延々と書かれている。そのほとんどがイデオロギー的な立場からの批判なので、もはやここでコメントすることは控える。
付記するとすれば、一点。2003年7月15日に小泉純一郎・内閣総理大臣名で提出された「答弁書」は、個別的自衛権と集団的自衛権の両者が重なる場合にはどうなるのか、という質問に対する回答はなされなかった、と私が『集団的自衛権の思想史』で書いたことが、水島教授のどこかでの議論の剽窃ではないかと疑う記述があるが、もちろん、そうではない。私は、回答がなされなかった、という事実を端的に記述しただけで、水島教授のように「回答がなされなかった」ことを「関係方面に取材して得た情報」で裏付けるなどとうことは、思いつきもしなかった(「回答がなされなかった」ことを取材する必要があるというのは、どういうことなのかわからない)。「回答がなされなかった」ことは、誰でもわかることで、剽窃が疑われるということ自体がありえない。



