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戦後日本の立憲主義の理解への疑問~水島朝穂教授の私への攻撃を見て~

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<分割/制限主権論>
 水島教授は、何とかして英米法に分割主権や制限主権の伝統はなかった、と主張したいようである。水島教授の文章に錯綜が出てくることについては後述するが、そんな伝統はなかった、という主張でなければ、私への批判にならない。

 アメリカは制限主権論が主流なので、引用は簡単である。

「諸国(州)の個別的独立が彼らの集合的主権と全く相容れないことを知り、そして全体を単一の共和国に凝結させることが不便であるのみならず達成不可能であることを知ったので、私は国民的権威の正当な至高性をまず支持しながら、従属的に有益でありうるときはいつも地方の諸権威を排除しないような中庸(middlegroud)を求めた。・・・主権の分割性を認めることなくしては、合衆国における政府の複合システムについて知的に論じることは難しい。」James Madison, quoted in Martin B. Hickman, “Double Majesty: Madison’s Middle Ground,” in Dalmas H. Nelson and Richard L. Sklar, Toward a Humanistic Science of Politics (Lanham, MD, New York and London: University Press of America, 1983), pp. 361, 375.

「合衆国は、放棄された政府の全ての権力に関する限り、主権者である。連合の各国(州)は、保持された全ての権力に関する限り、主権者である。・・・国家(the nation)の主権は、国家の人民に存する。そして各国(州)の残余的主権は、各国(州)の人民に存する。」The Supreme Court in the case of Chisholm, Executor, v. Georgia, 1793, Quoted in J. Mark Jacobson, The Development of American Political Thought (New York, London: The Century Co., 1932), p. 410.

「国家(the state)―それによってわれわれは国家を構成する人民を意味するのだが―は、その主権権力を様々な機能に分割するかもしれない。そして各々は、制限的意味において、各々に限定された権力に関する限り、主権者であり、その他の場合には従属的である。厳密に言って、われわれの共和制政府においては、国家(the nation)の絶対主権は国家の人民に存する。各国(州)の残余的主権は、いかなる公的機能にも委ねられていないならば、各国(州)の人民に存する。」Joseph Story, Commentaries on the Constitution of the United States (Boston: Little, Brown, and Company, 1891), first published in 1833, pp. 151-152.

「権力の源泉である人民は、絶対的で無制限な主権を自らのもとに保持することはしなかった。主権は、人民が遵守するために作成した憲法にのっとっての修正や制限の下に、保持された。この憲法においては、全ての政府においてはどこかに存しなければならないと宣言され、全ての国で同じようなものとなっている、結合した主権、つまり絶対的で制限不可能で恣意的で専制的な至高の権力は、存在しない。」Nathaniel Chipman, Principles of Government; a Treatise on Free Institutions including the Constitution of the United States (Burlington: Edward Smith, 1833), p. 144.

「政府に対する抑制として設定される憲法は、人民的政体(a popular commonwealth)では必然的に、人民に対する抑制としても働く。・・・アメリカ人民は、自らの持つ権力に用心深く嫉妬を抱き、力が権利を生み出すという考えに抗して努力し、『人民の主権』という語句に、古代・現代を問わず他のいかなる政体においても与えられることのなかった解釈を与えた」Frederick Grimke, The Nature and Tendency of Free Institutions, edited by John W. Ward (Cambridge, MA: The Belknap Press of Harvard University Press, 1968), first published in 1848, pp. 241, 251.

 こうした主権分割論は、南北戦争で大きな挑戦を受けた。しかし20世紀になると、国際的な文脈で甦る。

 セオドア・ローズベルト政権時代に国務長官を務め、ウィルソン政権時にも国際連盟設立にあたって重要な役割を演じた上院議員エリュ・ルートによれば、国際連盟による「変化は主権の制限を伴い、平和を維持するために、あらゆる主権国家を諸主権国家の共同体の至高の権利に服させる。このような原則を受け入れることは、国家と政府のプロシア理論全体にとって致命的となるだろう。」quoted in Alfred Zimmern, The League of Nations and the Rule of Law, 1918-1935 (1939), pp. 252.

 第27代合衆国大統領ウィリアム・タフトは、次のように述べた。「主権は、ただ定義と程度の問題である」。合衆国の主権は、国際連盟以前にも、諸々の条約によって制限されていた。むしろそれは誇るべきことである。国際連盟は「超主権」体であり、国民主権は、保障されるがゆえに、制限されるべきである。主権とは、「諸国民の行動の自由」なのだが、一国の主権は、他国の主権と一貫性を持つ形でのみ行使される。制限を越えた主権は、「アメリカの諸原則のみならず、合衆国憲法と一致しない。」William H. Taft, “Address at San Francisco, Feb. 19, 1919,” quoted in Theodore Marburg and Horace E. Flack (eds.), Taft Papers on League of Nations (New York: The Macmillan Company, 1920)。

 水島教授は、青柳卓弥氏の見解を引用して、篠田への反駁としているが、私は青柳氏の主権理解が正しいとか間違っているとか、そんなことは一回も論じたことがない。ところが、水島教授は、青柳氏が二重主権論に否定的だから、アメリカには分割主権論の伝統があると言う篠田は間違っている、と言ってしまっている。完全に倒錯した文章である。

 しかも水島教授は、私が批判している対象の宮沢俊義を持ち出して、宮沢俊義も、二重主権論は統治権の分配の問題だと言っている、だから篠田は間違いだ、と結論づけようとしている。またしても、「お前の言っていることは宮沢先生の言っていることと違う、宮沢先生は偉大だ、したがってお前の言っていることは間違いだ」、というパターンである。この文脈で問題になっているのは、私が「アメリカには分割主権論があった」ということだけだから、宮沢の主権概念の理解によって篠田の主権論が論破される、といったことを書き連ねるのは、全く的外れである。

 事情がもう少し複雑なのは確かであるイギリス法を見てみよう。水島教授は、伊藤正巳『法の支配』(1954年)の次の一節を引用して、私への反駁としている。「・・・コモン・ローの原則も、国会制定法の前には譲歩せざるをえなくなつた・・・」。

 水島教授は、この部分の伊藤正巳の引用をもって、篠田への反論としているが、的外れである。そもそも「譲歩せざるを得なくなった」というのは、19世紀を頂点とする歴史的な変遷のことを述べている。コモン・ローの伝統が完全に駆逐された、という意味の一節ではない。むしろコモン・ローの伝統が厳然として存在していたことが、当然の前提となっている文章ではないか。

 エドワード・コークは、「大権(prerogative)」は議会用語であっても、「主権権力(sovereign power)」はそうではない、と述べたが、「Salus Populi Suprema Lex(人民の福祉が最高の法である)」といった原則を重視する思想が、イギリスのコモン・ローの「伝統」であり、市民革命期のジョージ・ローソン、ジョン・ロックといった政治思想家にも色濃い影響を与えた思想だ。

 もちろん、コモン・ローの伝統があったからといって、議会主権の伝統がなかった、などといったことを私が主張したことは一度もない。きちんと批判する相手の業績を読み、それに即した批判をすることを心がけるべきだ。私はむしろ議会主権の性質を論じている。

 ブラックストンについては、水島教授は、伊藤正巳の部分的な孫引きしかしないので示していただけないが、ブラックストンの主権の主体である「国会」は、既に混合王政で、内部に庶民院選挙民まで含んだ相互抑制体制を持っている。ブラックストンは、主権の主体の単一性について、「この島に住むわれわれには幸せなことに、イギリス憲法は、このような観察の継続的例外であり続けてきたし、これからもあり続けるだろうと思う」という立場であった。孫引きだけで人を論駁したつもりになるのではなく、William Blackstone, The Sovereignty of the Law: Selections from Blackstone's Commentaries of the Laws of England, edited by Gareth Jones, (London and Basingstoke: The Macmillan Press, 1973), first published between 1765-1769あたりをきちんと読んだ上で、趣旨に沿った引用をしていただきたい。

 水島教授は、「篠田はブラックストンを読んでいるはずだ」、とブログを引用して書いているが、ブラックストンを読まず、安易な孫引きだけで、実際にブラックストンを読んだ私を非難しているのが、水島教授である。

 ダイシーの「法的主権」に関する伊藤正巳の文献を部分的に水島教授は引用される。しかしダイシーのような帝国主義時代の大英帝国の議会主権論者であっても、「法的主権」を述べた後に、「政治的主権」の概念を対置し、両者の関係を論じた。しかもダイシーの『The Study of the Law of the Constitution』が版を重ねて変遷を繰り返していることにも注意してもらいたい。『「国家主権」という思想』第2章で整理してあるが、引用の有無にこだわるなら、A. V. Dicey, Lectures Introductory to the Study of the Law of the Constitution (London: Macmillan and Co., 1885), Dicey, The Law of the Constitution, third edition (1889), Dicey, Introduction to the Study of the Law of the Constitution, eighth edition, published in 1915をきちんと直接引用していくべきだろう。

 ところでダイシーと同時代のイギリスの国際法学者の巨匠オッペンハイムは、次のように述べた。「さらなる学術的論争に陥りたくなく、たとえ変則的で非論理的であっても生活の事実や事物の実際の状態を重視したいのであれば、擬似主権国家が存在していることに疑いがない以上、主権が分割されると考えるのはもっともなことである」。Lassa Francis Lawrence Oppenheim, International Law: A Treatise, vol 1, Peace (London: Longmans, Green, and Co., 1905), pp. 99-102.

 いずれにせよ、水島教授には、伊藤正巳の本全体の趣旨の整理ではない部分的な「孫引き」だけを繰り返し、伊藤正巳、伊藤正巳、伊藤正巳、伊藤正巳、伊藤正巳、と「孫引き」を繰り返す。しかし他人を批判するなら、せめてきちんと原典をあたり、「孫引き」ではなく「引用」をするべきだい。そのうえで、私が議論していることの妥当性を、具体的に、反駁するべきだ。

 いずれにしても、すでに述べたが、水島教授の文章は、全編にわたって、「お前の言っていることは芦部先生(伊藤/青柳/マッケルウェイン・・・)の言っていることと違う、芦部先生(伊藤/青柳/マッケルウェイン・・・)は偉大だ、したがってお前の言っていることは間違いだ」、という話ばかりである。こういう話し方だけでは、自分が依拠している議論の論拠を示したことにはなっても、他人の議論を論破したことにならない、という基本的なことに、水島教授には、ぜひ気づいていただきたい。そうした話し方は、Argumentではない。単なる権威主義(authoritarianism)にもとづいた断定(assertion)である。中世キリスト教世界の教会権力と同じ振る舞いだ。こんな話し方だけが真理になるのであれば、未来に向けた学問の発展はありえない。

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